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はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

ミネソタより (1)

自分の今の状態は、よちよち歩きの子供が恐竜の卵を抱えて歩いているようなものだと思う。

これはどうにも暖めるのに一苦労も二苦労もしなければならないものだとは思うのだけれども、悲しいかな、いつもこればっかりに熱をあげる訳にもいかず、レジの前なり窓口の前なりに座っておらねばならない。それもこれも、自分が卵だからで、未だ雛子にもなっていないからである。

 

子供が産まれたら恐竜の卵を与えようと思っている。友人へのプレゼントである。

いつになるやらも分からないし、誰に預けるのかも分からない。

けれども、取り敢えず、その未知の友人のお子さんへのプレゼントの積もりで今からゴソゴソと彼方此方を掘っくり返し、ひっくり返ししながら、何処かに卵のありやしないかと探していたりする。

それは特に面白いものではないかも知れない。けれども、探す内にそれ自体が愉しくなってしまって、採った卵の使い途なんてついつい忘れてしまうようになる。

とはいえ、これらの卵は実に多種多様なものばかりでどれ一つとっても、容易に何が孵るか分からないものばかりだ。

売り付けるにせよ、ただ『たまご』と紹介するより仕方がない。食べられるかも分からない、兎に角、得体の知れない卵なのである。

 

誰でも1個くらいはそんな、得体の知れない卵を持っていても良いと思う。何の役に立つのか? と問われれば答えようもないのだが、少なくとも、中身が何であろうかと考える間は愉快であろうし、孵るまではその愉しみは続くだろう。特に子供の頃は、そういう愉しみに接していてもいいような気がする。

 

兎角、何だか分からないものがすぐ身近にある事は愉快である。けれども、それは大抵の場合、段々、慣れて来るに従って鬱陶しくなり、投げ出してしまいたくなる。そういう時は、放って置くのがいいと思う。それでも、恐竜の卵だったら問題はないだろう。どうせ、孵った所で、ピヨピヨ雛子の代わりに、妙に蜥蜴が出て来るだけなのだ。

 

孵るかも分からない内が、卵を孵化させる趣味の醍醐味である。暖める内が華ーーとまでは言わないまでも、孵ってしまうとどうにも手に負えないような気がしてならない。

幸い、今自分が抱え込んでる卵は、どれ一つとして孵る気配さえないが、自分はそれで構わないと思っている。何となれば、孵化させることが出来るだけの熱やら用意さえ怠らなければ、問題はないと思っている。

 

将来別に卵売りになる積もりも、恐竜の養殖業を営む積もりもない。所詮は愉快の為である。去れど愉快の為である。自己満足と謗られれば其れまでだろうが、卵を食べるばかりよりかは、幾らか自分にとっては其れが健康に資するように思われる。

 

九十五

「無題」【紙震楼雑記五】

  1

 『腸で考える女』なる海外のSF小説を発見して帯を見た。

 或る女が、手術によって、腸という感覚器官に入って来たもの消化をする過程で、これまでなかった刺激を得て生きる「腸人間」(此の訳を思い付いた訳者は非常に得意げなのではないか、と思う)となる。代わりに脳には只管電気信号を送られ続けており、これによって可能性を最大限に利用して、脳が「目覚める」のを待つ。

 読んでみたかったが時間もなかったので本棚に戻した。

 勿論これは、私の夢での話である。

  2

 その隣に、白いカバーに横書きのタイトルがグルグルと、厳重にくるめられた梱包材の様なデザインの本を見付けた。

 心理学の本らしく、英語のタイトルだったが、内容は日本語に訳されていた。

 其処には、史上初めて霊長類で雌雄同体の「個体」の写真が紹介されていた。黒い、胎内のエコー写真で、何れの顔も正面を向いたヤヌスの様な、丁度二人三脚でもしているかのような男女の結合双生児が、壺か甕の様な白い囲いの中にごった返していた。

 これが如何して心理学の本に載っていたのか分からなかったのだが、何とか読めた文章の中に書いてある事には、これは心理学の実験の賜物で、『念ずれば叶う』と言う事が是によってはじめて確認された例なのである、とか、そんな事が書いてあった。

 明らかに胡散臭く、フェイクであろうと思ったが、全く、こんな絵を載せようと思ったものの気が知れなかった。

 当然、此の本も、夢の中に出て来た一冊である。

  3

 自分は何故だかテレビクルーの一員として、彼方此方を回らなければいけなくなっていた。

 次の取材先では、もう20年前に業界から姿を消した、伝説のギャグマンガ家の自宅で、行ってみると、本当に物凄いアパートだった。場所は大学近所のH……という場所だった。

 建物は、住宅地の中でも一際異様な、山間部に放棄された集落に残された作業場の様な外見をしていた。二階に登る階段は、踊り場がすっかり抜け落ちてしまって、廊下も床板が腐って殆ど無いような有り様だった。

 ディレクターの一人が大声を上げる。すると、長い竿の先端に付けたカメラがするすると天に昇って行った。自分の視点はそのカメラの先に移動した。

 マンガ家は二人いた。何れももう、髭面の汚らしい、Tシャツとハーフパンツ姿で、床屋にも風呂屋にももう何カ月も言っていない様な、只管醜い男たちだった。

 そんな二人が同じ部屋にいて、日々の糧を得る為にモルモットを繁殖・飼育していた。今日はその出荷日で、今日の売り上げで8000円は固い、と喜々としていた。

 そんな、いつの時代に生きているのか分からないような事を云う男達は置いておいたとしても、モルモットの餌代やら家賃やらは、一体どうやって賄っているのかとても気になった。

 男達は部屋の中に畳を積み重ねて、本州の中央に聳える山岳地帯の様に部屋を二つに仕切っていた。そして、其の立体的な空間で其々、山の彼方と此方とに分かれて暮らしているらしかった。

 もう、其れで20年も経つらしい。気の遠くなるような思いがした。

 けれども、何故、モルモットなのだろうと思った。確かに、肉は食えそうだが、マンガはもう描かないのだろうか、ととても気になった。けれども、男達の太った体を見ると、そんな質問さえしたくなくなった。

 自分達はおしまいに、男達にお礼に、と近所のスーパー銭湯の回数券を渡して現場を後にした。男達がどうして同居を始めたとか、そんな理由なんかは聞かなかった。

  4

 家に戻ると、疲れて其の儘、ベランダで寝てしまった。干してあった布団を取り込もうとして、面倒臭くなって、そこそこ綺麗に思われた床に敷いて、其の上に寝そべった。バスタオルを毛布がわりにして寝転がっていると、床と同じ高さに、大型トラックの運転席があった。向かいの駐車場に、若くて確りと髪を整えた、作業服とでもいうのだろうか、兎に角上下揃いの丈夫そうな服を着た男が、運転席の後ろの座席で横になろうとする前に、取引先か何処かと電話をしていた。不図自分はそんな男に好感を持った。矢鱈と頬の辺りの皮膚が丈夫そうなのがいかにもと思った。

 

 自分は其の儘寝てしまった。夢の中で、乱歩の『パノラマ島奇譚』のⅰfストーリーを見た。自分が主人公と、パノラマ島を訪れた明智小五郎の二つの視点を往ったり来たりするのだったが、その内、パノラマ島には台風が接近していて、富豪に成りすました男の野望も、遂に大洪水を前に何もかも滅んでしまった。探偵の出る幕もなく、皆が強制的に夢幻の世界から放逐されてしまった。

 自分も、その夢を最後に、目が醒めた。

 

   九十五

塾と大学【紙震楼雑記四】

 夢で見たものの断片的ないくつかの記録

 

  1

 九十年代風というのが何と言えば伝えられるのか分からない、なんて考えている内に自分が通っていた小学校の廊下に出た。歩いてみると、バカに長い。立川のモノレールの橋桁の下の、高松方面までのだだっ広い、壊れた遠近感が漠然と広がっている、そんな所に壁を突っ立てて丸で映画のセットみたいなものが出来上がっている。

 其処を教職員が往ったり来たりしている。狭い道幅なのにトロッコ列車まで走っている。上下線とも揃っているらしく、昼時の喧騒が廊下には満ち満ちていた。

 「飯はどうするんだ?」と同級生の成れの果てらしい作業員に聞かれて戸惑った。

 戸惑う内に自分の選択権はすっかり奪われてしまった。

「早い者勝ちだ」と、少し老けたひとが笑いながら白いご飯しか載っていない黒い容器を持って行った。如何やら、上に載せるデミグラスソースの掛かったオムレツは前方車両の荷台に載っているらしい。

 自分は食堂に行くつもりでその場を離れた。いつの間にか作業着を着ていた。多分、自分も彼等と一緒に食事をする気でいたからに違いない。

 線路を跨いで窓際に出来た隙間を歩いていると、今度はキャバレーみたいな場所に出た。平べったい、菓子折りの箱の中に入った様な気分だった。何故だか知らぬが、平たい天井に反して、床は段差が其処彼処にあって、其れが如何にも歩く時、尖った靴の爪先に当たって転びやしないかと不安に思った。

「おおい、……飯は如何した?」

 高校時代のKがのっそり顔を出した。

「Tはあっちにいるぞ。Rはすぐ傍で話してる」

 相も変わらず、古い背広を着ているな、とKを見て思った。お互い、頭がつかえそうなので肩を竦めて首を前に突き出している。いつの間にか今度は自分もツイードの上下一揃いに身を包んでいた。煙草の匂いがして如何にも閉口した。

 

 キャバレーに見えたが、如何やら店はただのレストランの様であった。其れらしい雰囲気を作ってはいたが、セルフのドリンクバーなんて設けている辺りが如何でも中途半端だった。

 天井に穿たれた穴からぴかぴか光が漏れている。よく見ると白熱電球だった。

 中で螺旋のスクリューがグルグル回っているフローズンのサーバーのレバーを引くと、歯磨き粉みたいな見事なストライプがにゅるにゅると這い出て来て、コップの底にボトッと落ちた。

 何となく、探せばベトナムから亡命して来た知識人辺りがいそうな雰囲気だったけれども、此処に来て漸く、自分が何をしようとしていたのかを思い出して、外に出ようと思った。ただ、店の外に何か宛てがある訳じゃない。取り敢えず、出て、頭を整理させようと思った。

 手にカップを一つ持って、さっきKが来た方へ歩いていると、Rに会った。

「出口はどっち?」

と尋ねると、あっちの方、だと簡単に教えて呉れた。彼もまた、よく似あった格好をしていた。建物は何処も全く同じ構造が反復されていた。丁度、フラクタルブロッコリーみたいにタイルが敷き詰められていて、自分は絨毯の上をとことこ歩いていた。

 もう一度、右に曲がる角の手前でTに出会った。彼は相変わらず、眼鏡の底から自分の顔をまじまじと眺めていたが、何となく「うまくやれよ」と言われた気がしたので、彼はきっといい先生になるだろうな、なんて思っている内に大きな建物のロビーに突っ立っていた。

 

  2

 ロビーには沢山の若い顔があった。自分も何だか、気の性か少しだけ若くなっている気がした。

 連中はぞろぞろと駅から吐き出されて、或る者は親と、また或る者は友人とべたべたくっつきながら、腕章をつけた黒い服の係員達の誘導で、大学のキャンパスらしい、巨大な発泡スチロールの壁の隙間に、三々五々の赤蟻の行列みたいに細切れにのたのたと向かって行った。

 自分も何となく、用はなかったが大学らしいその建物の中に入ってみたくなって、隙間――といっても、地上20階くらいの大きなビルの間に出来た――を潜ってみた。

 潜るとまた直ぐ、右手に大きな階段があった。台所でうっかり調味料を零した時出来る様な白くて急な勾配に、如何にか段差を掘ってあった。

 また其の階段の下に、肩幅の広くて大柄な腹の突き出た男がプラカードを持って叫んでいた。

 其の時不図、此の階段を登らなくていいのは、内部進学の奴等だけなんだろうな……という直感めいた感想が降って湧いて、途端に激しい怒りの様なものが込み上げて来て、其れから段々頭が上手く回らなくなってしまった。

 模試の会場は其の階段の頂上にあるらしかった。よく見ると、男の背後に細いエレベーターが一か所隠されていた。其処から、母親に連れられた痩せぎすの男子生徒がベルトに持たれながら此方を眺めているのに気が付いて余計意識が朦朧として来た。

 空は矢鱈に青くて、キリコの抽象画の背景みたいになって来た。制服のスカートをはためかせ、蟹股の娘と母親がごにょごにょと何事か呟きながら自分の脇を擦り抜けて登って行った。

 途中の踊り場でも塾の関係者らしい男がビラを配っていた。其処には「当塾No.1の凄腕講師」という紹介で、消費者金融の社長みたいな男がモナ・リザみたいな姿勢で写真に写っていた。

 チラシの裏には塾頭の挨拶みたいな下手な文章がずらずら並んでいた。

 

「今や日本の大学の質の低劣化は甚だしく、内実共に形骸化した大学行政に期待するべき所は最早ありません」

「大学は今や、ネームヴァリューだけを掲げて辛うじて倒れるのを免れているに過ぎないのです。ですから、我々はその資産を巧みに活用し、あなたたちの将来のサポートをしたいと思っているのです。」

「大学は、勉強する所ではありません。知識は、社会に出れば、先ず役に立ちませんが、それは大学の質が低下しているからです。教養は、既に大学に入る前に決まるのです。」

「高い競争力と現実に対するシビアな目線こそ、学力の向上につながる唯一の手立てなのです」云々、云々。

 

 其れを読んで、到頭、会場にも行く気が失せてしまって、おまけに頭痛もひどくなってきたので、其の場に座り込んでしまった。

 ダッフルコートを着た男子生徒が自分の方を怪訝な顔をしながら見上げているのに気が付いて、例に手を振ってやった。すると彼はほっとした表情になって、自分に「模試の会場は此処であってますよね?」と尋ねて来たから、「知らないね」と答えて遣った。受験票の案内さえ見ない奴は、そんな模試なんか、受けなくていいと自分は思っていた。

 

 そうこうしている間に、エレベーターが通っている筈の発泡スチロールの壁が崩落して、自分がさっきまで歩いて来た道程も全て崩れ落ちて、紅茶色の泡立った海の面が眼下に表れた。

 すると、血相を変えて下りて来た男子生徒が自分に「あれを見て下さい」と指さして何かを示した。

 見ると、切り立った断崖の斜面から天上へ真っ直ぐに伸びたウドの大木の先端に、若い男が一人、しがみついているのが見えた。落ちる気配はなさそうであったが、如何せん、降りられる場所でもないので自分や其の周囲に居た人間たちも為す術もなく彼の様子を見守っていた。

 「高さはどれ位あるんでしょうか」「二二〇メートルだ。二二〇メートル。思っていたよりも登っていた樹の成長速度が早かったんだろう」

 口から出まかせというよりかは、見た感じ、そうとしか思えなかったのでつい口にしてしまった。

 男は東アジアからの留学生で、友人達とハイキングを楽しんでいたらしい。其処で、高い所に登って景色を撮ろうとしている間にずんずんと高い所まで押し上げられてしまった様子だった。

「大丈夫でしょうか?」

と、自分の進路の心配よりも、外国人の安否を気遣う生徒の様子に自分は返って心許ない気持ちになった。

 最後は海自のヘリとレスキュー隊員が彼を救出に来た。自分は、留学生が自力で降りる事が出来るのだろうと思っていたが、生徒に聞いたら、下はもう火山の噴火活動が活発化していて降りるのはかえって危険だ、と言うことだった。

「そういえば、あの山、××阿蘇山というそうですよ」

帰りしなに彼は早速スマホで調べてくれたのか自分に教えてくれた。けれどもその名前は、気象庁が急いで付けた名前か、さもなくばデマではないか、という事を聞いてて思った。

 気が付くと、自分は藤沢本町の駅に降りていた。

 

  3

 階段の上で蹲っている間に、塾と大学に関する批評でも書こうという事を考えていた。

 大学を「大卒免許の専門学校」みたいに仕立て上げた予備校を告発して遣ろうとなんか自分は思っていた。然し、反面、書いた所で、逆恨みとでも思われないか不安で仕方がなかった。

 単純に自分は、予備校が配っていたチラシの内容が気に喰わなかっただけであった。

 また、予備校にキャンパスを貸して遣わせる様な大学も気に喰わなかっただけだった。見た目ばかりを気遣って、象牙の塔の様に見せ掛けた所で、所詮中身はすっからかんで大したことはないのだろう。

 丸で、蟻に巣食われた株の様に大学を見ていて思われた。

 或いは白蟻に土台を蝕まれた家の様に思われた。

 

 大学の知り合いが居るツイッターのタイムラインに其の事を愚痴ろうと思って自分は駅の改札口の前でスマホを点けた。

 アプリを開いて眺めてみると、リツイートで流れて来た画像に目が止った。

 その画像は、投稿者の妹が昔、その人に宛てて書いたらしい手紙を、アスキーアートに直したものらしかった。画像には、『いつかお前に送り付けて遣るからな」というテキストが添えられていた。リツイートはもう、1.5万回を数えていた。

 「妹の手紙」はよく出来ていた。クレヨンで描かれた絵と文字の質感までもが、掌に収まる小さい画面の中によく再現されているように思われた。

「お兄ちゃんうんどうかいに優しょうしなけりゃ」

 読めた文章は其れ位だった。けれども、恐らくは小学校に上がる前位の時分に書かれたものなのだろうか、其れにしては構図も面白くて、自分はこれの何処がそんなに物笑いの種にされているのか、よく理解が出来なかった。短冊様の紙面を縁取る様に、運動場のトラックの絵が描かれていて、その真ん中に鉢巻きを締めた子供の絵と、のったくった文字と一緒に書いてあった。其れを見て、自分は愚痴をツイートするのを止めようと思った。

 

 夢から醒める直前に、大学の先輩がリツイートした、シー・シェパードを揶揄った投稿を見掛けたのを覚えている。

 其処には、煮え滾る海の中で、銛を構える男達と、既に茹で上がった鯨の死体がぷかぷかと浮かんでいる絵が紹介されていたのだが、其れが一体、何の諷刺なのか、自分にはとんと理解が出来なかった。

 

      九十五

「梯子外し」【紙震楼雑記、二】

 

 

 門前の小僧『習わぬ経は読めぬ』

 

  1、

 他人の真似事でブログなんか始めて何ぞ楽しい事があろうことかと思えば、特になし。

 とは言え、足腰は確かに萎えた。それはそうだ。仕事もしないで日がな一日部屋に籠ってキーボードをたたいている。

 何ぞ、面白い事なんぞあったかと思えば、本を読んだばっかりに多少物を考える様になった位なものである。

 其れと、何か書こうと思って資料の読み込みを積極的にするようになった位だ。買おうと思わなかった本も、買う気になったりした。観ようというまで決心の付かなかった映画を観るまでの、時間を割くまでの気になったりもした。

  

  2、

 もう一カ月がたってしまったが、『シン・ゴジラ』は結局4回、見に行った。

 5回目は、批評が一段落したら、観に行こうと思う。其れまでにはもう、劇場では公開していないだろうと思うけれども、何処かの小さな映画館で、間に合えばその日最後の上映にでも潜り込んで、小さい手頃なスクリーンを前に、一人か、或いは何人か、知らない他人と口も利かず、顔も合わせず眺めてみたいと思う。其れでお浚い出来たらいいと思う。

 ただ、其の後に摂る食事を如何しようかと今から悩んでみたりする。余り考え過ぎない方が良いかも知れないと思いつつも、急がなければならないと思うから、飯の心配なんかしたりする。

 

  3、

 下で、生姜入りチョコレートなんてのを食べて来て、頭にも養分を回した。しゃっきりせねばーーと思い、机の前に座るが、如何にも椅子の高さが足りない。

 椅子の座高は少し高めで、往年のゲームセンターの椅子みたいに、足の付かない位が本当は丁度が良い。どっかりと腰を据えて書く人もいるのかも知れないが、其れだとどうにも自分は腰が痛くなる。

 

 地に足が付いた状態で、浮ついた文章なんて書けるはずがない。何時でも降りられると思って筐体に向かっていれば、何時まで経っても目の前のステージをクリア出来る筈もない。

 終わるまで、降りないでいい様に階段を外してしまうのも手かも知れない、なんて考える位になって来た。実際、鈴屋の二階に至る階段は可動式だった。

 集中するには宙ぶらりんの方が都合がいいのは、ジャングルジムなんかで逆さまにぶら下がっていた頃からよく知っていた。鞦韆なんかは、怪我をするからなんていう理由から自分が小学生の頃に鎖が足されて、何の面白味もなくなってしまった。喫茶店にも窓際に並んだ背の高い椅子も全部同じ理由からか、なくなってしまった。

 

 兎角、最近は浮ついた人間は、物理的に存在できない様な世界になってしまった。学校の屋上に行く階段だって、カラーコーンで塞がれてしまった。五階だか六階だかに行くともう、窓は溶接されたりしていて、開かない工夫が施されていたりする。そんなに、逃げ場を失くすから、余計返って突き破りたくなるのに、どうにもお偉いさん方には其れが分からない様子なので困ってしまう。

 

 窓にはちゃんと、鍵なり鋲なりかけるなり、打つなりしたのだと、言っておかねば責任追及を免れないという理由かららしいが、そんな、人を自分の家の飼い犬の様に扱う人が管理責任者なぞと偉そうな椅子に腰かけているのは本当に腹が立つ。丸で、「窓に柵を仕掛けて用心して置かなかったから、収容患者が死にました」と言っていたり、言われていたりするような気分になったりする。

 どうにも、最近、居心地が悪くてならない。

 

  4、

 桟に腰かけて足をぶらぶら揺らすのだって、頭を外の風に曝すのだって、ごみごみとした地階の高さでやらねばならぬという。三階から、五階から、其れで落ちようが、未だ人は其れだけの自由が保たれていた方が健全でいられると遂に思う様になってしまった。本当に、此の世がそろそろ生き辛くなりそうで、今から心配である。

  

  5、

 ホテルなんか旅先に行って泊まる事を思えば、息が詰まってしまって、だから旅行なんかも行きたくなくなってしまう。

 あの、ホテルの部屋の頑なな、ほんの少ししか開かない窓や、あべこべに、誰でも出入りできてしまいそうなドアが浴室の直ぐ傍に設けられた部屋の間取りを考えるだけで嫌になる。和室なんて、益々嫌だ。丸で落ち着く気がしない。

 旅行に行く時だって、飛行機は仕方がないとしても、旅客鉄道やバスとかであれば、窓位開けて外の風を浴びていたいものだ。船という交通手段には乗った事がないから、ぜひ一度乗ってみたくもあり、万一沈没した時なんかの事を考えるとやっぱり慎重に走らざるを得なかったりする。

 兎角最近は、安全だの何だのと理由で、人を密閉空間に押し込めがちだ。そりゃあ、外がカンカン照りで、日差しと熱せられたアスファルトに焙られた熱気が流れ込んで来る様な昼間に障子を開ける気にはならないけれども、せめて深夜には少しくらい、開けてみたくなる。さもなくば、部屋の中身である自分自ら外に出て運動なんかしてみる。

 

  6、

 兎角、押し込められるのは御免だ。かと言って、何処にも籠る場所が無いなんてのも不快だ。自分から、押し込められに行くのも嫌で、でも、かと言って、自分を何処かに押し込めるのは嫌ではない。割り込むのは嫌いじゃないのだ。でも、無理やりは嫌で、ちょっと詰めれば後一人、座れそうだなぁという所に、おまけの心算で潜り込んでいくのが嬉しいのだ。

 

  7、

 追い込まれて追い込まれて、もう僅かに開いたその隙間からでしか、外の空気を吸えそうにない様な場所に自ら進んで追い込まれに行く気なんてさらさらない。けれども、21世紀の初めの今日、如何にもそうでもしなければ、こんな生活は続けられそうにない。不快で、不愉快で仕方がない。

 何で態々、狭い所へ潜り込んで行こうとしてしまうのか。其れで自分の体が縮こまってしまうのに自分は耐えられる訳がない。きっと、そんな研究室みたいな場所に入り込んでしまった日には、辞書の一冊も通れるか分からない隙間から、何とか外へ飛び出そうとして、其れこそ、転落してしまうに違いない。

 人が病むのは、窓が嵌め殺しにされているからだ。人が外へ抜けられる道を、すっかり隔ててしまっているからだ。其れで人は、如何にか安心して、突発的な不安で自らを危険に曝す事がなくなったと安心するのかも知れないが、それは自ら進んで、檻の鎖に繋がれることなのだ。そして、其の鍵を檻の外へと投げ捨ててしまうようなことなのだ。そんな危険な事を自分はしたくはない。後でどれだけ後悔するか分からないし、そんな所に居たら、到頭発狂してしまうかもしれない。

 でも、外を当て所なくうろついている自分を見て、他人は多分、もう既に頭がおかしくなっていると思うだろう。実際、頭がどうかなってしまっているから、外に出て、具合を良くしようとしているのであって、それは確かに正しい。

 けれども、だからと言って、自分を捕まえて何処ぞに閉じ込めたりするのは、間違いで、宛も、引き籠りの人を社会復帰させるには、その人が居る部屋の壁を失くしてしまえばいいと、ぶち壊せば、引き籠りが改善されるだろうという位、御無体なご意見であると考えたりする。

 「仕切り」が大切なのだ。内と外とは、詰まる所、自分が何方にいるかと思うか思わないかによって決まるのだ。内と外とを仕切るのは、自分の中の恐らく判断能力で、其れを無理やり他から仕切られては堪ったものではない。窓の外にも空気がある。だから其れを吸おうとして窓を開けてみようとする。

「此処は十一階だぞ」「ええい、ままよ。話せ〳〵。」

そう言って、えいやっと開けてみる事が出来れば、どんなに楽かとつくづく思う。

 

  8、

 音楽だけがやたらと雄大なのが取り柄だったNHK大河ドラマも、最近はせせこましい学芸会みたいになってしまった。所で自分が一番好きなメインテーマ曲は、『篤姫』のOPであった。

 思い出すと、あのドラマの主演を務めていた女優さんの旦那さんの騒動の時は、何をかもう、嫌気が差して二度とネットの掲示板何ぞは見るまいと思ったりもしたけれども、結局、多勢に無勢で今も斯うして端っこでごにょごにょと蠢いていたりする。

 

  9、

 一時期流行って、今でも残る「カプセルホテル」なんて、あんな丸で死体安置所の様な場所に平気で一晩泊まれるという神経が終ぞ理解できない儘、アンデルセンが聞いて戦いたという、地下に埋葬されてしまった男の話をネットで拾い読みした。そりゃあ、あんな話を聞いたら、ついうっかり、首から札も下げたくもなる。

 けれども土葬なんてものよりもずっと恐ろしい、火葬とかいう事を平気でしている日本だと、どうにもこんな浮世話は物語にもなっていないだろうなぁ――なんて、思って昨日、古本屋で偶々手に取ったつげ義春の短編集に、火葬場で生きながらにして燃やされてしまった男の話が収められているのを読んだりして、思わず「うーん」と唸ってしまった。

 いっそ、ホテルの看板には『此処は死体安置所ではありません』とでも書いておかねば、火をつけられてしまうのではないだろうか? と思った。

 

  10、

 UFOなんてものは見た事はないが、それは多分、UFOを見掛けていたとしても、それを自分は浮雲だとか、鳥だとか、飛行機だとか、判別してしまうから見た事がないのだと思う。

 自分の頭の中には、訳の分からない正体不明の飛行物体なんてものが先ずイメージとして存在しないのだろう。だから、消去法的に、よく分からなかったものにそういうレッテルを貼る事を余儀なくされている。が、然し、残念ながらこれまでそんなものはとんと目にした事も気が付いたこともない。

 頭に余裕がない証拠である。

 だから今日も、此の寿司詰め状態と思われる自分の中に、「ちょっとすいませんねぇ」と言いながら割り込んで座ろうとして来るような、厚かましいものが訪れるのを期待しながら、夜道を散歩している。

 

   九十五

 

 

雑記:ゴジラというアイドル【批評『シン・ゴジラ』】

ありえないものも、言い難いものも混在しているのが現実で、何もかも説明出来てしまうようなものは虚構である。

 

アイドルは必ずプライベートがある。

プライベート、すなわち、語り得ないものがあるからこそ、夢として、表象としてこの世に姿を保っていられる。

全て、語り得るものは虚構である。

虚構であるからこそ、無理が生じる。その無理を解消するため、仮にも、崇め奉られることとなった者は、自ら、万能足らんと、才や力を欲するのである。

 

核こそ、ゴジラに与えられた力であった。例えば歌こそ、アイドルに与えられた力であったと言い得るかもしれない。

才は可能性である。成長する伸びしろである。例えどれだけ苦労があろうとも、必ずそこにある目標と、それに達する希望と意志があればこそ、ゴジラもアイドルも、自らをこの世のもの足らしめる事が出来るのである。

 

然るに、ゴジラもその可能性をことごとく背負うた存在であった。『シン・ゴジラ』のゴジラは、頑張りすぎたアイドルの成れの果てでもあるのかも知れない。

 

諸々の霊の慰撫の為にアイドルは歌うのである。

お客様は神様であればこそ、芸能は成立する。

ゴジラもまた、アイドルである。決して神そのものではない。救い主ではない。ゴジラは、倒されてこそ人々を救う 、呪いを一身に引き受けて殺される犠牲の花嫁なのである。

 

託された者には応答義務が生じる。

期待された者はそれに応えねばならない。

贈物は期待である。期待は願いである。

映画であれ、ライブであれ、人はチケットという霊符を贖い、一体誰の霊を慰めるのか?

祭祀は死者のみの為に非ず。劇場で救済されるのは生者であり、自ら全体性の場に還元される事を望んだ、救われぬ有象無象の「御霊」である。

それは浄化(カタルシス)を求めて物語を消費する者の集合なのである。

 

また、チケットは購入された時に、舞台の上で踊るものへの呪符となる。期待は、相手への呪いである。債務履行の求めは相手への呪いとなるのであり、また、期待はずれの儀式を執り行えば、自ずから巫覡は呪われることになる。

 

舞台の上で踊るものは、己に寄せられた呪いを一身で祓い清めるものである。それが即ち、生贄の務めである。故に清浄である事が求められ、純朴たる事が期待される。

ゴジラは自ら醜悪な怪獣である事、災厄である事が求められた。ゴジラは人が作り出した、恐怖の対象であり、克服される脅威である事を求められた。ゴジラにかけられた呪いには、際限がなかった。際限のない期待に応えるために、遂にゴジラは正体をなくした。

 

動物であるゴジラに感情がないのは、殺された後にも呪いが残る様な、後味に悪さを残す様な事があってはならないからであった。

アイドルも、アイドルである事が苦痛であってはならない様に、ゴジラもまた、暴君として悪逆無比な破壊の限りを尽くさねばならないのであった。

 

所でアイドルには引退があり、聖職を任ずるに能わなくなれば自ら退く事も出来、そしてそれが許され、更にその過去を『忘却』されもしたのである。

忘れられる事は最大の許しである。

然しゴジラは戦後、忘れられる事のない仮想敵として常に標榜され、不死であるとされ、絶対的な『怪獣王』として、どれだけ殺されても殺されても飽きられる事もなく許される事なく、アイドルとして、舞台の上に引き摺り回されたのであった。

 

ゴジラは架空の生き物である。

同じく架空の存在である少女達があれだけ尊ばれている中で、ゴジラも尊ばれ、故になおも征伐される事になったのである。

 

架空の少女達が、アイドルとして祝福に値する期待が寄せられる存在であったならば、

ゴジラは、祟り神として忌み嫌われ、討征される事が期待された憎悪の権化であった。凡そあらゆる災厄の中でも、取り分け、人間の人間に対する、許されない無尽蔵の憎悪を、彼等が彼等自身に向けない為に生み出した偶像ーーアイドルーーこそ、ゴジラなのである。

 

空想美少女が、人間の人間に対する過剰なまでの好意を受け止められる偶像として作られた様に、ゴジラは現実には決して向けてはならない憎悪を背負い切れる偶像でなければならなかった。

だからゴジラは進化した。アイドルとして、自身が期待されるままに、

『どれだけ憎んでも憎んでも、決して悔いの残らない、憎悪の対象』

として、成長したのである。

 

美少女アイドルは、アップデートの度により美しく煌びやかに、より慈しまれ讃えられる方へと衣装も晴れやかになり、容姿も美しくなる。

一方、ゴジラは、ますます巨大になり、強暴性も増し、より人類の敵として認められる存在に成長していった。

過剰なまでに、ただいるだけで疎まれ憎まれ、殺されるだけの、救いようのない

、許される由もない『禍』そのものとして、あり続けろと呪われてたのである。

 

呪われるべくして呪われ、殺されるべくして殺されるキャラクターには、同情される事がないように、一切人間には無理解なものとして描かれる必要があった。

例え、物語の怪物であったとしても、誰にも可哀想と思われてはならない。

そういう期待が、ゴジラというアイドルには寄せられたのである。

 

だからこそ、『シン・ゴジラ』の最後のシーンがあるのである。

無限の進化の可能性すら与えられたゴジラは、人類の究極の憎悪の対象として、とうとう、人になったのであった。

けだし、

『人類にとって、最も恐ろしい存在は人間である』

事があの場面で観客に対して暴露されたのであった。

ゴジラという巨大な正体不明の核の怪物を憎み殺す劇を演じて、或いはそれを見て拍手喝采する人間達に対して、最後にゴジラはその末端に、自らの望まれた期待に応えんとして答えを明らかにして見せたのであった。

 

 

 

例えどれだけ、現実には、三次元の人間なんて、と言いながらも、眉目秀麗な二次元の美少年や美少女のアイドルに期待を寄せ、彼等に浄化される内は、その人達にとって、所詮人間は、慈愛の傾注される対象であり得るのである。

 

だが、同時に、そうした人間愛を持つ人であっても、それ人類にとって克服されるべき試練であり、これを巨大な悪としてゴジラが討ち滅ぼされんとするを見て快とする。

その時、人はゴジラに、自分が本当に憎悪している対象を重ねて見ている事を只管意識下に隠し続けていたのであった。

だが、そのアイドルが、真にあらまほしき姿に変わろうとした瞬間、人はその正体について思考を停止したのである。

 

 

相互の理解を一切拒み、自らを脅かす醜悪な怪物に、我々はゴジラという名を与えて、比喩で呼び、物語の中で何度も殺し続けたのであった。

 

人はゴジラという『他者』の偶像を殺す事で、他者の存在を地上から抹殺する正当性をこれまで延々と示し続けてきた。其れは、ゴジラという『怪物』『災厄』『神の化身』という比喩があればこそ、隠蔽されて来た主張であった。

其れは丁度、例え美少年・美少女であったとしても、器物の擬人化『付喪神』であれば、自分の所有物としてコレクションする「ごっこ遊び」も、不道徳ではないと主張と同じ構造をしている。そして、ある意味ではゴジラも人間の果てしない人間への憎悪が擬人化された『付喪神』といえよう。人に扱われる内に霊を宿したとされる器物のフィクションが認められる一方で、人の憎悪を常に代意させられて来た映画のキャラクターが、霊を宿したとするフィクションが認められない道理もなかろう。

 

シン・ゴジラ』のエンディングには、怪獣映画にお決まりのカタルシスは用意されていなかった。誰も善人は死なず、ゴジラも凍結されたに過ぎなかった。代わりに、観客にはカタストロフィーが用意されていた。

それはゴジラの呪いではなかった。

期待に応えて応えた末に、ゴジラが示した最も憎悪を煽るものとしての姿であった。

 

ひょっとしたら、もうゴジラは今度こそ、引退するのかもしれない。

もうゴジラはアイドルとしての最後のステージにまで登ろうとしているのかもしれない。

その先にある物語は、最早、怪物を代わりに殺す様な『子供騙しの詰まらない幼稚な話』ではなくて、大人でも手に汗握る、血湧き肉躍る、爽快感に溢れた「ライブ」になるのかもしれない。

 

 

九十五

 

紙震楼雑記

  一、

  大伯母の、形見の扇の夢を見た。
  扇は、大きな白い、襟巻きをした白蛇になって傅いていた。
  扇の襟は白いダリアの花のようで、蕊を押しやり開かれた、顎はゆっくりと、一枚の大きな舌の様に突き出され、ぱたりと閉じた。欠伸であった。

  自分は到頭観念してこれに従う事にして、眠る事にした。
  8の字に束ねられた胴を枕に横たわる自分を、腰掛けた視線が眺めていた。

  其処で漸く目が覚めた。九〇度、角度が変わって自分は寝転がっていた。起き上がると、振り子時計が止まっていた。
時刻は五時三二分だった。

                                             九十五