はてしないひらひら

尾ひれは沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

映画の感想:『虐殺器官』(2017)

 (2017/2/4:加筆修正:2017/2/5)

 

 1

 昨日『虐殺器官』をみた。ああいう仕様なのだと思ってみた。初めてハヤカワ文庫を読んだ学生のイメージ映像を観ているようだった。でもそれが良いのだろうと思った。

 伊藤計劃作品の入門編としては、いいのかもしれない。『屍者の帝国』がファンタジー映画だったのに対して、『虐殺器官』は映像メディアの強味を活かして、近未来のテクノロジーを具体的に観客へ示してみせた。それだけでも十分にこの映画は映像作品として、意味のあるものであったと思われる。全体の印象として、随分『お喋りな映画』という印象もあったが、それも、なるべく観客(普段からこの手のジャンルの作品に慣れ親しんでいない人)への配慮だったと、善意的に解釈してもそこまで恣意的ではなかろう。

 飽くまでも、映画は大衆向けの媒体である。劇場は決して、特定の人々に開かれているのではない。確かに観客は、一人一人を見れば、客席からスクリーンに対して、一対一で相対している。けれども、劇場という空間は元来、複数人の人間で共有されている場であり、プライベートな空間ではない。だから態々、上映前に、「前の椅子の背を蹴らないで」云々のマナーについて、注意が流されたりもするのである。

 作品自体は公共的で均一である。しかし、それを鑑賞する客席にはムラがある。そのムラについて目を瞑るか或いは取るに足らないとする人の中には、経験その物が共有されていると解する人もあるようだが、それは余りに大雑把過ぎる嫌いがあると筆者は考える。

  例えば、筆者は映画を観ていてその雰囲気に既視感を感じたのだが、スタッフロールを観て納得がいった。音楽が『相棒』でお馴染みの池 頼宏氏だったのである。のっぺりとした顔と血糊がふんだんに使われた映像は、テレ朝の看板ドラマのスペシャルバージョンの印象を否めなかったが、それは私(筆者)の頭の中での経験である。

 見解は言葉にすれば、映画の様に共有する事は出来るかも知れないが、その意味までは共有出来ないと考えるのが筆者の立場である。しかし、それでも筆者は敢えてここでは、映画を共有可能な経験であるという前提に立って論じようと思う。それはアニメ映画を「大衆娯楽」だとする場合に、映画が大衆にとって共通の経験として認識されているという前提に従ったまでの事である。

 だから、自ずから本稿では、『虐殺器官』のキャラクターデザインとか、声優とか、その他諸々の「俗っぽさ」を理由に映画を批判は有り得ない事になる。寧ろ、本稿ではその「謙虚」な、或る意味で「無難」な態度を批判する事になるかもしれない。

 いっそ手を抜かずに、『屍者の帝国』ぐらい、換骨奪胎すればよかったのに、という批判も可能である事を筆者は提示したいのである。それは逆説的かもしれないが、原作というものと一切乖離して独自の世界観を作り上げたならば、原作ファンには総好かんを喰らったとても、作品としては自立する事が出来たからだ。帯に短し襷に長し、というのが最も始末に負えない。論ずるにしても、そもそも、論ずるに足らないからだ。

 

 2

 本稿を執筆するに辺り、彼是検討を重ねた結論としては、映画自体は論ずるに足らず、というのが筆者の結論である。いっそ清々しい位、我田引水がされた方が、批判するのも容易いのである。ただ、それでは曲がりなりにも感想を述べるという主旨に反する。ただ、何処を批判すればいいのやら、分からない。際立ったものがない、只管に平坦な映画――というのが、筆者の感想である。

 しかし、それが此の映画の意図する所だという、穿った見方も出来なくもないから、困った所である。あれだけ饒舌な映画なのだから、余計その平坦さを際立たせる事も出来ただろうに、と思ってしまう。形ばかり大衆向けで、しかしその分かり易い言葉で以て語る所はそうではなく、為に余計まどろっこしいのでは本末転倒であろう。

 話にどれだけ尾鰭を付けても良いだろうが、言いたい事はシンプルな方が良い。しかし、内容がそう単純でないならば、単に画や言葉を易しくするだけではなくて、その論調、展開自体も易しくするべきである。

 『虐殺器官』にとりても、その工夫がなかった訳ではない。色に例えてもいいだろう。極めて出色の出来であった原作の色彩を表現するのに、今流行りの絵具では不足していたのである。色は言葉と置き換えてもいい。問題点は恐らくそこにあるのだろうと思う。その上で文句を言うなら、もう少し観客に対して、挑戦して呉れてもよかったのに、と言いたい。ただ、その挑戦に応じられるだけの観客が少ないのも現状で、だからこそ、今回はその裾野を広げる為に、工夫したのだろう。とは言え、それでよりにもよって伊藤計劃に目を付けたのはミスチョイスだったと思う。或いは、それが制作者サイドの挑戦だったのかも知れないが、勝負は伊藤計劃の圧勝であった。これは如何にも覆らないだろう。なお、筆者は『屍者の帝国』について、小説は円城塔の小説だと見做しているし、映画も映画で、小説とは異なる、独自のものと見做している。

 

 3

 兎に角、相手がまずかった、としか言いようがない。

 ただこの失敗を機に、昨今の安易な映像化の傾向が少しでも鈍る事を願いたい。ただ、鈍りはしてもなくなりはしないだろう。何故なら、もう既にコンテンツを大量消費する仕組みが出来上がってしまっているからだ。それに自覚的になった所で、気が付いた当人も、その機構の中に組み込まれてしまっているので、如何にもならない。今後も会社も人も潰されるだろうし、コンテンツは次から次へとオワコンに認定されていくだろう。ただ、一瞬でもブームになれば未だ好いのかも知れない。三面記事の話題にさえならないで消えていくものの数が圧倒的に多いからだ。

 けれども、そんな状況がいつまでも続く事はないので、静観出来るものなら、していたいものである。ただ、そうした静観もその内出来なくなるのだろうという気もしないんでもない。物事にはいつか終わりが来る。故人の遺産を食い潰し、漸く延びて来た若芽も摘んで消費してしまう、無計画な仕組みはいづれ何処かで破綻を来し、その時、多少なりとも秩序だって見えた体制がどの様に瓦解するかについては、敢えて此処で言う事の程でもない。

 『虐殺器官』は自身の感情を制御して、只管に貧しい人間同士の相互に潰し合う為だけの紛争の後始末を引き受けなければならない、中継ぎ的・中間的な存在の平坦な感情を観客に伝えている点では「出色」の作品である。どうか、自分の生きている内には、そんな面倒事置きませんように、と願いつつ、日々を齷齪生きている小市民の期待が結局の所、状況を益々悪化させているという事がよく描かれている。

 然し、最後に余計な尾鰭を付けるとしたなら、映画のラストシーンについて、あのようなメタ的解釈の可能な演出は観客を困惑させるので好ましくない。もっと大衆にも分かり易く、ストレートに演出して貰えたら、後で大いに盛り上がる事が出来たろうに、此の点、返す返す思うにつけて残念でならない。

 

 

おおまかな見取り図:『天使のたまご』を巡る状況について

――0:発作的な書き出し

 偶然と言うものには全く感謝しなければならない。

 元日以来、十日に渡って近所の古本屋を一人で渉猟していたところ、今日になってようやく「収穫」と呼べそうな本を手に入れることが出来た。普段から、習慣として運動をしていないと、いざという時に身体を動かす事は出来ず、殊、大型の書店の棚を眺める時は、時間的制約からも瞬発力が要求される。数あるセール品の中からパッと目端に止まったものを手に取る事が出来ないと、またとない機会を逃してしまう。気が付いた時にはもう他人の手に渡った後である。

 自分が目に止めた物の、「また今度でいいや」と思った本が、どこかで誰かに紹介された時ほど悔しい事はない。自分が書こうとした筋書きの物語を誰かに書かれてしまった時と同じ位悔しいものである。自分が言おうとした事を誰かが代弁してくれたというのであれば、別にそれは自分の仕事が減ったのだから良しとしよう――と思う事は出来る。けれども、その時自分が優先度を低く設定したものを、あとからその評価が誤りであった事を、否応がなく他人から教えられるのは、耐え難いものがある。

 買おうと思った時よりも値段が釣り上げられていたり、別の場所で十把一絡げに売られていたのを発見した時も然程、がっかりはしないのだが、正にその時、その本を入手していれば、今、彼の代わりに自分がその論を主張出来ただろう――と言う事を思い知らされた時程、腹立たしい事はない。当然、その怒りの矛先は自分に向けられる訳で、その時のストレスは二日酔いよりも長引いて、心身ともにダメージを齎す。

 だから、手元に多少ゆとりがある時、幾らか当てがある時にはためらわず買ってしまう。そうして(多少の無理を強いて)購入した場合、大抵はハズレがない。但し、それは古本に限った場合である。

 

 ヘブライ語辞典の編纂者、ベン・イェフダーが、自ら収集した言葉を記録したカードはその一つ一つを非常に大切に扱っていたというが、それも専ら、上の様な理由からに違いないだろう(田澤耕『〈辞書屋〉列伝:言葉に憑かれた人びと』/中公新書)。

 というのも、記録自体は、実際、どの記録・どのカードがどれくらいの価値を持つかは、収集した時には分からないもので、うっかり失くした一枚の損失が後になってどれ程のものになるかも同様に分からないからだ。『ここで会ったが百年目』という表現は聊か乱暴かも知れないが、気持ちの上では、そのように常に構えていた方が、アンテナに引っ掛かるものも多いのだろう。

 

 釣り上げた魚が予想外に大物で、然も自分がずっと求めていたものに合致するものであった所為で、かなり自慢も交じってしまったが、以下本題に移っていこうと思う。

 とはいえ、自分の様な人間が気が付く程度の内容であるから、当然、此の程度のことは、世間一般に既知のものであって、とっくに人口に膾炙しているだろうものを自分は、よくも確かめもしない内に自分の創作として発表する事だけはせめてもしないように注意したいと思う。そして、予防線を張ると共に、今後、改めて機会を見つけ次第、適宜直していきたいと思う。

 今回の記事は経過報告と言うべきだろう。書きたい物を書いただけで、何と呼ぶにも此の侭では中途半端である。

 

――1

 去年の3月頃からずっと、押井守の“問題作”『天使のたまご』(1985)の批評を試みようと思っていたものの、手掛かりが余りに乏しい為に是まで放置せざるを得なかった。

 昔から『取り敢えず、体を動かす』事に抵抗を感じる自分にとって、是と言って目当てもなく書店と書店とを彷徨い歩くという選択肢は、懐に余裕があって、多少はそれによって自信が持てる場合を除いては、選びようのないものであった。

 取り敢えず、手なり足なり、体を動かそう――という発想は、取り敢えず、ムカついたら目の前の相手を打ったり蹴ったりする輩が自分を正当化する為に用いる屁理屈と似通った印象を感じる。見込みもなく、考えもなく、何らの保証もないのに、体を働かせるのは、文字通り理不尽である。

 

 「如何してそんな事をしたのか・しているのか?」と問われて、その理由さえ答えられないような状況で、一体、何を「する」事も出来よう筈がないと自分は考えるのだが、そうした自分の意見が、世間一般では『サボる言い訳』『負け犬の遠吠え』、正しく「屁理屈」と捉えられるらしい。

 少しでも金が入ったら直ぐに本屋に行って本を買い漁る自分は、世間一般では、居酒屋で日銭を使い果たすホームレスと大差ないのだろうが、実際、そんなに大差ないと思う。そして、そんな自分の先輩は、例えば魯迅の小説にも出て来る。延々科挙の受験に落ち続けるアル中のロクデナシがそれである。

 本来、こうしたロクデナシは自ら筆は執らず、その零落を大家に描かれて初めて浮かぶ瀬もあるのであり、語られてこそ歴史に名を遺すものである。セルフ・プロデュースなんかしてもロクデナシは潰しの効かないロクデナシなのだ。

 そうは言っても、やぶれかぶれながらも古書店を巡る内は、未だ自分自身に対して一抹の期待は潰えていないのである。けれども、もう自分がそう若くない事や、世間一般にはもう、ロクでもないゴク潰しである事を、今にも裂けそうなビニール袋を提げながら帰る深夜の道すがら自覚させられた時には、車の前に飛び出す気力も失われる。そうして、死にもしないで何をするのかと言えば、家に帰って大人しく、風呂に入って、着替えて、ホットミルクを飲んだ後、歯を磨いて布団の中に入るのである。(電気代を節約する為にエアコンもストーブも点けずに)布団の中は割合直ぐに温まるもので、その暖気の中で早くも煩わしい世間の雑事は、そろそろと枕元に遣って来る眠気と入れ代わり立ち代わりに遠くへ行ってしまう。

  

――2 

 325

卵に頬をつけるようにしてコックリしている少女

 

少年(off)

「何か聞こえるのかい?」

 

少年の声でハッと醒めて

顔を上げ

 少年の方を見て弱々しく微笑み

 

体ごと卵を抱きよせるようにして

 再び耳をあてる

 間あって

少女

「聞こえる……小さな息をする音」

 

少年(off)

「それは君の胸の音だよ」

少女

「羽の音も・・きっと空を飛ぶ夢を見てるのね」

少年(off)

「それは外の風の音だよ」

 

再び眠りにひきこまれながら

少女

「もうじき…今はこの中で夢を見てるけど…あなたにも見せてあげる…もうじき…。」

 

(「天使のたまご 絵コンテ集」(押井守、イラスト/天野義孝、2013年、復刊ドットコム)、p128-129)

326

凝ッと前方を見つめている少年にかぶせて

少女「だからそれまで…ここに・・ここは雨も降らないし・・暖かくて」

 

 (同、p129) *引用文冒頭の3桁の数字はカット番号

 

 Twitterの140文字に思い付きを纏めたり、絵を描いて写真を撮ってそれに単語を添えて投稿して、其れが星の(今は下品なハートマークになってしまったが)幾つかでも貰えたら、と期待するのもいいが、それで何かを成した気になったとしても、それは所詮、自分の内面的な変化でしかなく、自己啓発でしかない。

 然し、凡そ全て「外部」が所詮は、自己という殻の内壁に投影された映像に過ぎないと考えるならば、ありとあらゆる感覚は「ウロボロスの竜」よろしく、自分自身を刺激して得られるものと解釈する事も出来るだろう。然し、その様な永久機関があり得るとしたら、一体それが独りでに動いている事を、観測者はどの様にして外部から確かめる事が出来るのか。中に人が入っていて動かしていない事を確かめる方法は、それが不断に稼働している事を示すだけでは不十分である。

 

――3

 監督自身は、絵コンテ集の復刊に当たってのインタビューで、此の作品について、もっぱら当時の自身の技術的な拙さについて述べている。物語の内容については、天野義孝がデザインした少女の絵を見て、是に寄せて物語が大きく改められた経緯が述べられている。(2013年5月)

 但し、そのインタビューの中では、一見すると、多くの読者乃至映画の鑑賞者が求めた「答え」が明らかにされていない様にも読める。それは、物語の内容そのものであり、「意味」である。

 だが、その意味を知る為には、先ず「問い」が必要である。意味を知りたいと、欲望するだけでは、意味は手に入らない。答えの言葉を知る為には、欲望に基づき、先ずは問わねばならない。問うて初めて、答えに至る道筋に就く事が出来る。自分で問題を導き得ない内は、実の所、何を求めているのか、自分でも未だ、分かっていない場合が往々にしてある。問うて初めて、自分の求めるものを知る事もある。

 物事を適切に説明する為にはまず、適切な問いを立てる必要がある。

 

199

バタバタと走る音

 湧き上がり

ハッとふり向く少女

 

200

無意識に少年に身を寄せる

二人より急速にT.B

 

ダダダ…! と

 走り抜ける男たちのシルエット

 

 (同、p88) 

 

203

少年のマントの中

 すがりついている少女

少女「魚が出たのよ!」

 

 (同、p89)

205

ひしとしがみついたまま

少女「どこにもいないのに、追いかけたって魚なんてどこにもいないのに!」

 

(略)

 

 (同、p90)

 

天使のたまご』という映画の中では、街の中を泳ぐ魚・影の(乃至、影・魚の)と、その影に向かって銛を投擲する男達が登場する。

 よく知られた話ではあるが、此の「魚」は言葉のシンボルとして描かれたという説がある(NHKBSアニメ夜話機動警察パトレイバー』の回で、岡田斗司夫が、当時押井の元を出入りしていた貞本義行から聞いた「ここだけの話」として紹介している)。然し、例えその説が正しかったとしても、その魚が「言葉」のシンボルであると知った所で、如何して物語の中でそれが登場したのかを、観客は理解出来る訳ではない。 

 多くの場合、「問う」事と「欲する」事は混同されている。魚が言葉のシンボルである、という事実は物語とは直接関係がない。然し、その事を知った上で映画を観ると、何か「分かった」気にはなる。丁度、それは映画の中で、男達が魚の「影」に向かって銛を投げて、獲物を捕えられると錯覚している(ように見える、というに過ぎないのだが)さまと相似形を成すかのようである。相手の事を何か分かった積もりになって、一方的に親近感を抱く、或いは何か優越感を抱くのと然程、そうした行為は変わらない。

 ただ、飽くまでも、映画の中で描かれている男達は、銛を投げている事以外は、不確かであり、彼等が狙っているのが「魚・影の」なのか「影・魚の」なのかは、映画の演出からは不明である。

 然し、確かな事はもう一つあって、それは魚が「どこにもいない」事である。無論、それは少女の見解であって、もしかしたら目には見えない(少女にとっても、観客にとっても)魚がいるのかも知れない。だが、見えているものは、影しかない。

 

 

――4

 作画のテーマは「正確に描くこと」ではなく「感覚の再現」であるとする宮崎駿の見解に対して、押井守はそこに「身体が立ち現れる」かどうかがテーマであると、前出のインタビュー中で彼は述べている。

 ここでいう身体とは、存在なのか?

 押井は、「存在感を出すためだけに動かしている」とも述べている。但し、その後に、「感覚の再現」ではないと主張しているから、それは存在自体を出そうとしているのであろう。

 ただ、それは作画――アニメーションでは不可能であるのかも知れない。というのも、アニメーションで可能なのは「表現」だからだ。表現としてスクリーンに出力されるものは、その記号が意味する意味それ自体ではない。存在を表現すれば、存在の記号が表示されるのであり、存在それ自体は隠れてしまう。存在が現れる為には、それが表されてはならない、という困難が伴う。

 動いている身体は一枚一枚の絵では表せず、不完全なそれらが繋ぎ合わさって出来たものから「立ち現れる」身体は、果たして存在ではない。

 

 小林秀雄ではないが、「存在が身体している」ようすを描いてみた所で、それは「身体している存在」の画である。

 だが、仮に画家が、存在が身体しているようすを描きたかったのであれば、画はどれだけ彼が努力した所で彼の望む通りには仕上がらないだろう。

 

 映画の中では、どれだけ銛を投げようとも、魚はそこには居ないとされる。

 だとしたら、存在が身体しようとしているさまを描こうとする人の試みは、決して達成されないだろう。所詮、どれだけ足掻こうと、もがこうと、立ち現れるものは、身体であり、存在ではない。影であって、意味それ自体ではない。

 

 

――5

 「身体」という、押井監督の問題意識の“類型”は、例えば、漫画家のつげ義春にも見出すことが出来ると思う。

 つげが1968年に発表した代表作「ゲンセンカン主人」は、ある鄙びた湯治場を訪れた男が、そこに以前からいる老人たちから、彼「が」旅館・ゲンセンカンの主人にとてもよく似ている――と指摘される場面から始まる。

 此の作品も、「天使のたまご」と同様に、ファンの間では根強い人気を誇るらしいが、皆目、真面な解説というものが為された試がない。というのも、やはりそれは、内容自体が難解である、というよりかは、物語自体が、内容足りえない――本来「現す」べきところを「表」せざるを得ない――技術的困難から来る難解さが原因として考えられる。批評しようにも、批評家の方も、物語のテーマを、物語自体から取り出す事が困難なのである(其れは、正に、魚の影に銛を投げるような行為であり、投げた先には何時も、魚はいないのである)。

 さて、この「ゲンセンカン主人」という作品についてだが、つげ自身は、自作について、かなり自覚的に内容に取り組んだと述懐している。そして、物語の中では、前世と現世の因縁を説く老婆が、前世なぞないと言い切る男(ゲンセンカン主人、主人公の男が瓜二つだという)に対して、もし前世がなければ、今生きている自分たちはまるで、幽霊ではないか――と恐ろし気に語る場面が描かれている。

 

 前世の因縁が、来世である所の現世に反映される――という発想自体は随分人気があるらしく、その事は昨年2016年に大流行りした映画の興行収入が示した通りであろう。

 新海誠の「君の名は。」がヒットした最大の要因は、「何故、自分が存在するのか?」という問いに、「前世からの因縁」という非常に古典的かつ安直な答えを提示したからであろう。是によって、人々は、ゲンセンカンで湯治をしている老い先の短い老婆の様な不安に苛まれる事のない、幸福な思考停止状態に陥ったのであろう(果たしてその「おまじない」の効能は、どれ程効果を発揮し得るかは、つくづく見ものである)。

 

 遡れば、戦後は1960年代後半から、既に自覚的な問題として顕在化してしまった、此の手の実存的不安から逃れる術は、実際何処にもないのである。

 戦前に於いては早くも、1920年代には既に立ち現れていたが、その問題が、果たして真剣に取り扱われたならば、戦後という言葉は恐らくありえなかっただろうに思われる。また、「前世」と同じく、「終末」もまた便利な言葉であり、「決戦」、「最終戦争」、「ハルマゲドン」といった言葉は、真剣に此の問題に立ち向かう事を拒む人々にとっては、例えその結果としてどれだけの代償を払おうとも、『取り敢えず、何もしないよりはマシ』という発想から、暴力的選択肢を採るのだろうとも考えられる。彼等からすれば、所詮、未来がバラ色だろうが、真っ暗だろうが構いやしないのである。彼等は、自分の過去を「暗黒時代」「黒歴史」として恥入って、自らの口に閂を掛けるだけの羞恥心はないのである。仮にあったとしても、彼等はその恥を知るを事を決して望まない。というのも、気が付いてしまったが最後、その恥や罪を雪ぐことは決して叶わないからである。気が付かなければ、ないも同然である――と、彼等は考える。だが、それは人と成っては、手遅れである。『有りの儘の姿を見せて生』きていけるのは、ヒトデナシだけである。

 閑話休題

 

 

――6

 偶然と必然の問題について寺田寅彦が議論していたのが1930年代であるから、もう大分前の話である。円城塔の師匠に当たる、東大の金子邦彦が「カオスが紡ぐ夢の中で」という本の中で此の寺田寅彦の「物理学序説」を紹介したりしていたが、Amazonで検索する限り、単体で新版が出た形跡は確かめられない(2017年1月9日現在)。

 

 「天使のたまご」という作品の根底にあるだろうと思われる問題意識は、「胡蝶の夢」から延々続くものである。

 自分と言うものが此処にいる確からしさを担保する理由や由縁が失われたり、損なわれたりした後、如何にして「身体」を取り戻すか――。此の問いを発する事無く、或るは、無視して「天たま」を「観る」事は難しい。

 

――7:一旦の終わり

 1999年に放映された「serial experiments lain」も、此の系譜に連なるだろうと考える。そして、リアル・ワールドに於ける「玲音」と、ワイヤードに於ける「レイン」の乖離を、分裂病や統合失調症と絡めて、精神分析の見地から語る事が出来れば、「アリス」以降の20世紀初頭から続く、ナンセンスを巡る運動との連関も語れそうだが、兎角この辺りは込み入っているし、其々が大分の分量の文章になりそうなので、正直、今年いっぱいで終わらせられるかも不明で途方に暮れてしまう。

 

 中二病と言うよりも、5歳児が夜中に眠れなくなって泣き出す原因でありそうな問いと、これを忘れようとして、取り敢えず手を動かし・体を動かし、忘れようとする暴力的な衝動との関係を、「天使のたまご」という映画は描いている様に思う――というのが、一先ずの現段階で無理に約めた自分なりの見解である。

 

 取り敢えず、見取り図は未だ大分、しわくちゃだが広げられたと思っている。

 

308

君も僕も、あの魚たちのように

とっくにいなくなってしまった人たちの

記憶でしかなくて

本当は誰もいない世界に

雨が降っているだけなのかもしれないんだ。

…鳥なんか始めからいなかったのかもしれない。

 

(同、p123)
 
 

雑記:ゴジラというアイドル【批評『シン・ゴジラ』】

ありえないものも、言い難いものも混在しているのが現実で、何もかも説明出来てしまうようなものは虚構である。

 

アイドルは必ずプライベートがある。

プライベート、すなわち、語り得ないものがあるからこそ、夢として、表象としてこの世に姿を保っていられる。

全て、語り得るものは虚構である。

虚構であるからこそ、無理が生じる。その無理を解消するため、仮にも、崇め奉られることとなった者は、自ら、万能足らんと、才や力を欲するのである。

 

核こそ、ゴジラに与えられた力であった。例えば歌こそ、アイドルに与えられた力であったと言い得るかもしれない。

才は可能性である。成長する伸びしろである。例えどれだけ苦労があろうとも、必ずそこにある目標と、それに達する希望と意志があればこそ、ゴジラもアイドルも、自らをこの世のもの足らしめる事が出来るのである。

 

然るに、ゴジラもその可能性をことごとく背負うた存在であった。『シン・ゴジラ』のゴジラは、頑張りすぎたアイドルの成れの果てでもあるのかも知れない。

 

諸々の霊の慰撫の為にアイドルは歌うのである。

お客様は神様であればこそ、芸能は成立する。

ゴジラもまた、アイドルである。決して神そのものではない。救い主ではない。ゴジラは、倒されてこそ人々を救う 、呪いを一身に引き受けて殺される犠牲の花嫁なのである。

 

託された者には応答義務が生じる。

期待された者はそれに応えねばならない。

贈物は期待である。期待は願いである。

映画であれ、ライブであれ、人はチケットという霊符を贖い、一体誰の霊を慰めるのか?

祭祀は死者のみの為に非ず。劇場で救済されるのは生者であり、自ら全体性の場に還元される事を望んだ、救われぬ有象無象の「御霊」である。

それは浄化(カタルシス)を求めて物語を消費する者の集合なのである。

 

また、チケットは購入された時に、舞台の上で踊るものへの呪符となる。期待は、相手への呪いである。債務履行の求めは相手への呪いとなるのであり、また、期待はずれの儀式を執り行えば、自ずから巫覡は呪われることになる。

 

舞台の上で踊るものは、己に寄せられた呪いを一身で祓い清めるものである。それが即ち、生贄の務めである。故に清浄である事が求められ、純朴たる事が期待される。

ゴジラは自ら醜悪な怪獣である事、災厄である事が求められた。ゴジラは人が作り出した、恐怖の対象であり、克服される脅威である事を求められた。ゴジラにかけられた呪いには、際限がなかった。際限のない期待に応えるために、遂にゴジラは正体をなくした。

 

動物であるゴジラに感情がないのは、殺された後にも呪いが残る様な、後味に悪さを残す様な事があってはならないからであった。

アイドルも、アイドルである事が苦痛であってはならない様に、ゴジラもまた、暴君として悪逆無比な破壊の限りを尽くさねばならないのであった。

 

所でアイドルには引退があり、聖職を任ずるに能わなくなれば自ら退く事も出来、そしてそれが許され、更にその過去を『忘却』されもしたのである。

忘れられる事は最大の許しである。

然しゴジラは戦後、忘れられる事のない仮想敵として常に標榜され、不死であるとされ、絶対的な『怪獣王』として、どれだけ殺されても殺されても飽きられる事もなく許される事なく、アイドルとして、舞台の上に引き摺り回されたのであった。

 

ゴジラは架空の生き物である。

同じく架空の存在である少女達があれだけ尊ばれている中で、ゴジラも尊ばれ、故になおも征伐される事になったのである。

 

架空の少女達が、アイドルとして祝福に値する期待が寄せられる存在であったならば、

ゴジラは、祟り神として忌み嫌われ、討征される事が期待された憎悪の権化であった。凡そあらゆる災厄の中でも、取り分け、人間の人間に対する、許されない無尽蔵の憎悪を、彼等が彼等自身に向けない為に生み出した偶像ーーアイドルーーこそ、ゴジラなのである。

 

空想美少女が、人間の人間に対する過剰なまでの好意を受け止められる偶像として作られた様に、ゴジラは現実には決して向けてはならない憎悪を背負い切れる偶像でなければならなかった。

だからゴジラは進化した。アイドルとして、自身が期待されるままに、

『どれだけ憎んでも憎んでも、決して悔いの残らない、憎悪の対象』

として、成長したのである。

 

美少女アイドルは、アップデートの度により美しく煌びやかに、より慈しまれ讃えられる方へと衣装も晴れやかになり、容姿も美しくなる。

一方、ゴジラは、ますます巨大になり、強暴性も増し、より人類の敵として認められる存在に成長していった。

過剰なまでに、ただいるだけで疎まれ憎まれ、殺されるだけの、救いようのない

、許される由もない『禍』そのものとして、あり続けろと呪われてたのである。

 

呪われるべくして呪われ、殺されるべくして殺されるキャラクターには、同情される事がないように、一切人間には無理解なものとして描かれる必要があった。

例え、物語の怪物であったとしても、誰にも可哀想と思われてはならない。

そういう期待が、ゴジラというアイドルには寄せられたのである。

 

だからこそ、『シン・ゴジラ』の最後のシーンがあるのである。

無限の進化の可能性すら与えられたゴジラは、人類の究極の憎悪の対象として、とうとう、人になったのであった。

けだし、

『人類にとって、最も恐ろしい存在は人間である』

事があの場面で観客に対して暴露されたのであった。

ゴジラという巨大な正体不明の核の怪物を憎み殺す劇を演じて、或いはそれを見て拍手喝采する人間達に対して、最後にゴジラはその末端に、自らの望まれた期待に応えんとして答えを明らかにして見せたのであった。

 

 

 

例えどれだけ、現実には、三次元の人間なんて、と言いながらも、眉目秀麗な二次元の美少年や美少女のアイドルに期待を寄せ、彼等に浄化される内は、その人達にとって、所詮人間は、慈愛の傾注される対象であり得るのである。

 

だが、同時に、そうした人間愛を持つ人であっても、それ人類にとって克服されるべき試練であり、これを巨大な悪としてゴジラが討ち滅ぼされんとするを見て快とする。

その時、人はゴジラに、自分が本当に憎悪している対象を重ねて見ている事を只管意識下に隠し続けていたのであった。

だが、そのアイドルが、真にあらまほしき姿に変わろうとした瞬間、人はその正体について思考を停止したのである。

 

 

相互の理解を一切拒み、自らを脅かす醜悪な怪物に、我々はゴジラという名を与えて、比喩で呼び、物語の中で何度も殺し続けたのであった。

 

人はゴジラという『他者』の偶像を殺す事で、他者の存在を地上から抹殺する正当性をこれまで延々と示し続けてきた。其れは、ゴジラという『怪物』『災厄』『神の化身』という比喩があればこそ、隠蔽されて来た主張であった。

其れは丁度、例え美少年・美少女であったとしても、器物の擬人化『付喪神』であれば、自分の所有物としてコレクションする「ごっこ遊び」も、不道徳ではないと主張と同じ構造をしている。そして、ある意味ではゴジラも人間の果てしない人間への憎悪が擬人化された『付喪神』といえよう。人に扱われる内に霊を宿したとされる器物のフィクションが認められる一方で、人の憎悪を常に代意させられて来た映画のキャラクターが、霊を宿したとするフィクションが認められない道理もなかろう。

 

シン・ゴジラ』のエンディングには、怪獣映画にお決まりのカタルシスは用意されていなかった。誰も善人は死なず、ゴジラも凍結されたに過ぎなかった。代わりに、観客にはカタストロフィーが用意されていた。

それはゴジラの呪いではなかった。

期待に応えて応えた末に、ゴジラが示した最も憎悪を煽るものとしての姿であった。

 

ひょっとしたら、もうゴジラは今度こそ、引退するのかもしれない。

もうゴジラはアイドルとしての最後のステージにまで登ろうとしているのかもしれない。

その先にある物語は、最早、怪物を代わりに殺す様な『子供騙しの詰まらない幼稚な話』ではなくて、大人でも手に汗握る、血湧き肉躍る、爽快感に溢れた「ライブ」になるのかもしれない。

 

 

九十五