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はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

雑記:ゴジラというアイドル【批評『シン・ゴジラ』】

ありえないものも、言い難いものも混在しているのが現実で、何もかも説明出来てしまうようなものは虚構である。

 

アイドルは必ずプライベートがある。

プライベート、すなわち、語り得ないものがあるからこそ、夢として、表象としてこの世に姿を保っていられる。

全て、語り得るものは虚構である。

虚構であるからこそ、無理が生じる。その無理を解消するため、仮にも、崇め奉られることとなった者は、自ら、万能足らんと、才や力を欲するのである。

 

核こそ、ゴジラに与えられた力であった。例えば歌こそ、アイドルに与えられた力であったと言い得るかもしれない。

才は可能性である。成長する伸びしろである。例えどれだけ苦労があろうとも、必ずそこにある目標と、それに達する希望と意志があればこそ、ゴジラもアイドルも、自らをこの世のもの足らしめる事が出来るのである。

 

然るに、ゴジラもその可能性をことごとく背負うた存在であった。『シン・ゴジラ』のゴジラは、頑張りすぎたアイドルの成れの果てでもあるのかも知れない。

 

諸々の霊の慰撫の為にアイドルは歌うのである。

お客様は神様であればこそ、芸能は成立する。

ゴジラもまた、アイドルである。決して神そのものではない。救い主ではない。ゴジラは、倒されてこそ人々を救う 、呪いを一身に引き受けて殺される犠牲の花嫁なのである。

 

託された者には応答義務が生じる。

期待された者はそれに応えねばならない。

贈物は期待である。期待は願いである。

映画であれ、ライブであれ、人はチケットという霊符を贖い、一体誰の霊を慰めるのか?

祭祀は死者のみの為に非ず。劇場で救済されるのは生者であり、自ら全体性の場に還元される事を望んだ、救われぬ有象無象の「御霊」である。

それは浄化(カタルシス)を求めて物語を消費する者の集合なのである。

 

また、チケットは購入された時に、舞台の上で踊るものへの呪符となる。期待は、相手への呪いである。債務履行の求めは相手への呪いとなるのであり、また、期待はずれの儀式を執り行えば、自ずから巫覡は呪われることになる。

 

舞台の上で踊るものは、己に寄せられた呪いを一身で祓い清めるものである。それが即ち、生贄の務めである。故に清浄である事が求められ、純朴たる事が期待される。

ゴジラは自ら醜悪な怪獣である事、災厄である事が求められた。ゴジラは人が作り出した、恐怖の対象であり、克服される脅威である事を求められた。ゴジラにかけられた呪いには、際限がなかった。際限のない期待に応えるために、遂にゴジラは正体をなくした。

 

動物であるゴジラに感情がないのは、殺された後にも呪いが残る様な、後味に悪さを残す様な事があってはならないからであった。

アイドルも、アイドルである事が苦痛であってはならない様に、ゴジラもまた、暴君として悪逆無比な破壊の限りを尽くさねばならないのであった。

 

所でアイドルには引退があり、聖職を任ずるに能わなくなれば自ら退く事も出来、そしてそれが許され、更にその過去を『忘却』されもしたのである。

忘れられる事は最大の許しである。

然しゴジラは戦後、忘れられる事のない仮想敵として常に標榜され、不死であるとされ、絶対的な『怪獣王』として、どれだけ殺されても殺されても飽きられる事もなく許される事なく、アイドルとして、舞台の上に引き摺り回されたのであった。

 

ゴジラは架空の生き物である。

同じく架空の存在である少女達があれだけ尊ばれている中で、ゴジラも尊ばれ、故になおも征伐される事になったのである。

 

架空の少女達が、アイドルとして祝福に値する期待が寄せられる存在であったならば、

ゴジラは、祟り神として忌み嫌われ、討征される事が期待された憎悪の権化であった。凡そあらゆる災厄の中でも、取り分け、人間の人間に対する、許されない無尽蔵の憎悪を、彼等が彼等自身に向けない為に生み出した偶像ーーアイドルーーこそ、ゴジラなのである。

 

空想美少女が、人間の人間に対する過剰なまでの好意を受け止められる偶像として作られた様に、ゴジラは現実には決して向けてはならない憎悪を背負い切れる偶像でなければならなかった。

だからゴジラは進化した。アイドルとして、自身が期待されるままに、

『どれだけ憎んでも憎んでも、決して悔いの残らない、憎悪の対象』

として、成長したのである。

 

美少女アイドルは、アップデートの度により美しく煌びやかに、より慈しまれ讃えられる方へと衣装も晴れやかになり、容姿も美しくなる。

一方、ゴジラは、ますます巨大になり、強暴性も増し、より人類の敵として認められる存在に成長していった。

過剰なまでに、ただいるだけで疎まれ憎まれ、殺されるだけの、救いようのない

、許される由もない『禍』そのものとして、あり続けろと呪われてたのである。

 

呪われるべくして呪われ、殺されるべくして殺されるキャラクターには、同情される事がないように、一切人間には無理解なものとして描かれる必要があった。

例え、物語の怪物であったとしても、誰にも可哀想と思われてはならない。

そういう期待が、ゴジラというアイドルには寄せられたのである。

 

だからこそ、『シン・ゴジラ』の最後のシーンがあるのである。

無限の進化の可能性すら与えられたゴジラは、人類の究極の憎悪の対象として、とうとう、人になったのであった。

けだし、

『人類にとって、最も恐ろしい存在は人間である』

事があの場面で観客に対して暴露されたのであった。

ゴジラという巨大な正体不明の核の怪物を憎み殺す劇を演じて、或いはそれを見て拍手喝采する人間達に対して、最後にゴジラはその末端に、自らの望まれた期待に応えんとして答えを明らかにして見せたのであった。

 

 

 

例えどれだけ、現実には、三次元の人間なんて、と言いながらも、眉目秀麗な二次元の美少年や美少女のアイドルに期待を寄せ、彼等に浄化される内は、その人達にとって、所詮人間は、慈愛の傾注される対象であり得るのである。

 

だが、同時に、そうした人間愛を持つ人であっても、それ人類にとって克服されるべき試練であり、これを巨大な悪としてゴジラが討ち滅ぼされんとするを見て快とする。

その時、人はゴジラに、自分が本当に憎悪している対象を重ねて見ている事を只管意識下に隠し続けていたのであった。

だが、そのアイドルが、真にあらまほしき姿に変わろうとした瞬間、人はその正体について思考を停止したのである。

 

 

相互の理解を一切拒み、自らを脅かす醜悪な怪物に、我々はゴジラという名を与えて、比喩で呼び、物語の中で何度も殺し続けたのであった。

 

人はゴジラという『他者』の偶像を殺す事で、他者の存在を地上から抹殺する正当性をこれまで延々と示し続けてきた。其れは、ゴジラという『怪物』『災厄』『神の化身』という比喩があればこそ、隠蔽されて来た主張であった。

其れは丁度、例え美少年・美少女であったとしても、器物の擬人化『付喪神』であれば、自分の所有物としてコレクションする「ごっこ遊び」も、不道徳ではないと主張と同じ構造をしている。そして、ある意味ではゴジラも人間の果てしない人間への憎悪が擬人化された『付喪神』といえよう。人に扱われる内に霊を宿したとされる器物のフィクションが認められる一方で、人の憎悪を常に代意させられて来た映画のキャラクターが、霊を宿したとするフィクションが認められない道理もなかろう。

 

シン・ゴジラ』のエンディングには、怪獣映画にお決まりのカタルシスは用意されていなかった。誰も善人は死なず、ゴジラも凍結されたに過ぎなかった。代わりに、観客にはカタストロフィーが用意されていた。

それはゴジラの呪いではなかった。

期待に応えて応えた末に、ゴジラが示した最も憎悪を煽るものとしての姿であった。

 

ひょっとしたら、もうゴジラは今度こそ、引退するのかもしれない。

もうゴジラはアイドルとしての最後のステージにまで登ろうとしているのかもしれない。

その先にある物語は、最早、怪物を代わりに殺す様な『子供騙しの詰まらない幼稚な話』ではなくて、大人でも手に汗握る、血湧き肉躍る、爽快感に溢れた「ライブ」になるのかもしれない。

 

 

九十五