はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

「梯子外し」【紙震楼雑記、二】

 

 

 門前の小僧『習わぬ経は読めぬ』

 

  1、

 他人の真似事でブログなんか始めて何ぞ楽しい事があろうことかと思えば、特になし。

 とは言え、足腰は確かに萎えた。それはそうだ。仕事もしないで日がな一日部屋に籠ってキーボードをたたいている。

 何ぞ、面白い事なんぞあったかと思えば、本を読んだばっかりに多少物を考える様になった位なものである。

 其れと、何か書こうと思って資料の読み込みを積極的にするようになった位だ。買おうと思わなかった本も、買う気になったりした。観ようというまで決心の付かなかった映画を観るまでの、時間を割くまでの気になったりもした。

  

  2、

 もう一カ月がたってしまったが、『シン・ゴジラ』は結局4回、見に行った。

 5回目は、批評が一段落したら、観に行こうと思う。其れまでにはもう、劇場では公開していないだろうと思うけれども、何処かの小さな映画館で、間に合えばその日最後の上映にでも潜り込んで、小さい手頃なスクリーンを前に、一人か、或いは何人か、知らない他人と口も利かず、顔も合わせず眺めてみたいと思う。其れでお浚い出来たらいいと思う。

 ただ、其の後に摂る食事を如何しようかと今から悩んでみたりする。余り考え過ぎない方が良いかも知れないと思いつつも、急がなければならないと思うから、飯の心配なんかしたりする。

 

  3、

 下で、生姜入りチョコレートなんてのを食べて来て、頭にも養分を回した。しゃっきりせねばーーと思い、机の前に座るが、如何にも椅子の高さが足りない。

 椅子の座高は少し高めで、往年のゲームセンターの椅子みたいに、足の付かない位が本当は丁度が良い。どっかりと腰を据えて書く人もいるのかも知れないが、其れだとどうにも自分は腰が痛くなる。

 

 地に足が付いた状態で、浮ついた文章なんて書けるはずがない。何時でも降りられると思って筐体に向かっていれば、何時まで経っても目の前のステージをクリア出来る筈もない。

 終わるまで、降りないでいい様に階段を外してしまうのも手かも知れない、なんて考える位になって来た。実際、鈴屋の二階に至る階段は可動式だった。

 集中するには宙ぶらりんの方が都合がいいのは、ジャングルジムなんかで逆さまにぶら下がっていた頃からよく知っていた。鞦韆なんかは、怪我をするからなんていう理由から自分が小学生の頃に鎖が足されて、何の面白味もなくなってしまった。喫茶店にも窓際に並んだ背の高い椅子も全部同じ理由からか、なくなってしまった。

 

 兎角、最近は浮ついた人間は、物理的に存在できない様な世界になってしまった。学校の屋上に行く階段だって、カラーコーンで塞がれてしまった。五階だか六階だかに行くともう、窓は溶接されたりしていて、開かない工夫が施されていたりする。そんなに、逃げ場を失くすから、余計返って突き破りたくなるのに、どうにもお偉いさん方には其れが分からない様子なので困ってしまう。

 

 窓にはちゃんと、鍵なり鋲なりかけるなり、打つなりしたのだと、言っておかねば責任追及を免れないという理由かららしいが、そんな、人を自分の家の飼い犬の様に扱う人が管理責任者なぞと偉そうな椅子に腰かけているのは本当に腹が立つ。丸で、「窓に柵を仕掛けて用心して置かなかったから、収容患者が死にました」と言っていたり、言われていたりするような気分になったりする。

 どうにも、最近、居心地が悪くてならない。

 

  4、

 桟に腰かけて足をぶらぶら揺らすのだって、頭を外の風に曝すのだって、ごみごみとした地階の高さでやらねばならぬという。三階から、五階から、其れで落ちようが、未だ人は其れだけの自由が保たれていた方が健全でいられると遂に思う様になってしまった。本当に、此の世がそろそろ生き辛くなりそうで、今から心配である。

  

  5、

 ホテルなんか旅先に行って泊まる事を思えば、息が詰まってしまって、だから旅行なんかも行きたくなくなってしまう。

 あの、ホテルの部屋の頑なな、ほんの少ししか開かない窓や、あべこべに、誰でも出入りできてしまいそうなドアが浴室の直ぐ傍に設けられた部屋の間取りを考えるだけで嫌になる。和室なんて、益々嫌だ。丸で落ち着く気がしない。

 旅行に行く時だって、飛行機は仕方がないとしても、旅客鉄道やバスとかであれば、窓位開けて外の風を浴びていたいものだ。船という交通手段には乗った事がないから、ぜひ一度乗ってみたくもあり、万一沈没した時なんかの事を考えるとやっぱり慎重に走らざるを得なかったりする。

 兎角最近は、安全だの何だのと理由で、人を密閉空間に押し込めがちだ。そりゃあ、外がカンカン照りで、日差しと熱せられたアスファルトに焙られた熱気が流れ込んで来る様な昼間に障子を開ける気にはならないけれども、せめて深夜には少しくらい、開けてみたくなる。さもなくば、部屋の中身である自分自ら外に出て運動なんかしてみる。

 

  6、

 兎角、押し込められるのは御免だ。かと言って、何処にも籠る場所が無いなんてのも不快だ。自分から、押し込められに行くのも嫌で、でも、かと言って、自分を何処かに押し込めるのは嫌ではない。割り込むのは嫌いじゃないのだ。でも、無理やりは嫌で、ちょっと詰めれば後一人、座れそうだなぁという所に、おまけの心算で潜り込んでいくのが嬉しいのだ。

 

  7、

 追い込まれて追い込まれて、もう僅かに開いたその隙間からでしか、外の空気を吸えそうにない様な場所に自ら進んで追い込まれに行く気なんてさらさらない。けれども、21世紀の初めの今日、如何にもそうでもしなければ、こんな生活は続けられそうにない。不快で、不愉快で仕方がない。

 何で態々、狭い所へ潜り込んで行こうとしてしまうのか。其れで自分の体が縮こまってしまうのに自分は耐えられる訳がない。きっと、そんな研究室みたいな場所に入り込んでしまった日には、辞書の一冊も通れるか分からない隙間から、何とか外へ飛び出そうとして、其れこそ、転落してしまうに違いない。

 人が病むのは、窓が嵌め殺しにされているからだ。人が外へ抜けられる道を、すっかり隔ててしまっているからだ。其れで人は、如何にか安心して、突発的な不安で自らを危険に曝す事がなくなったと安心するのかも知れないが、それは自ら進んで、檻の鎖に繋がれることなのだ。そして、其の鍵を檻の外へと投げ捨ててしまうようなことなのだ。そんな危険な事を自分はしたくはない。後でどれだけ後悔するか分からないし、そんな所に居たら、到頭発狂してしまうかもしれない。

 でも、外を当て所なくうろついている自分を見て、他人は多分、もう既に頭がおかしくなっていると思うだろう。実際、頭がどうかなってしまっているから、外に出て、具合を良くしようとしているのであって、それは確かに正しい。

 けれども、だからと言って、自分を捕まえて何処ぞに閉じ込めたりするのは、間違いで、宛も、引き籠りの人を社会復帰させるには、その人が居る部屋の壁を失くしてしまえばいいと、ぶち壊せば、引き籠りが改善されるだろうという位、御無体なご意見であると考えたりする。

 「仕切り」が大切なのだ。内と外とは、詰まる所、自分が何方にいるかと思うか思わないかによって決まるのだ。内と外とを仕切るのは、自分の中の恐らく判断能力で、其れを無理やり他から仕切られては堪ったものではない。窓の外にも空気がある。だから其れを吸おうとして窓を開けてみようとする。

「此処は十一階だぞ」「ええい、ままよ。話せ〳〵。」

そう言って、えいやっと開けてみる事が出来れば、どんなに楽かとつくづく思う。

 

  8、

 音楽だけがやたらと雄大なのが取り柄だったNHK大河ドラマも、最近はせせこましい学芸会みたいになってしまった。所で自分が一番好きなメインテーマ曲は、『篤姫』のOPであった。

 思い出すと、あのドラマの主演を務めていた女優さんの旦那さんの騒動の時は、何をかもう、嫌気が差して二度とネットの掲示板何ぞは見るまいと思ったりもしたけれども、結局、多勢に無勢で今も斯うして端っこでごにょごにょと蠢いていたりする。

 

  9、

 一時期流行って、今でも残る「カプセルホテル」なんて、あんな丸で死体安置所の様な場所に平気で一晩泊まれるという神経が終ぞ理解できない儘、アンデルセンが聞いて戦いたという、地下に埋葬されてしまった男の話をネットで拾い読みした。そりゃあ、あんな話を聞いたら、ついうっかり、首から札も下げたくもなる。

 けれども土葬なんてものよりもずっと恐ろしい、火葬とかいう事を平気でしている日本だと、どうにもこんな浮世話は物語にもなっていないだろうなぁ――なんて、思って昨日、古本屋で偶々手に取ったつげ義春の短編集に、火葬場で生きながらにして燃やされてしまった男の話が収められているのを読んだりして、思わず「うーん」と唸ってしまった。

 いっそ、ホテルの看板には『此処は死体安置所ではありません』とでも書いておかねば、火をつけられてしまうのではないだろうか? と思った。

 

  10、

 UFOなんてものは見た事はないが、それは多分、UFOを見掛けていたとしても、それを自分は浮雲だとか、鳥だとか、飛行機だとか、判別してしまうから見た事がないのだと思う。

 自分の頭の中には、訳の分からない正体不明の飛行物体なんてものが先ずイメージとして存在しないのだろう。だから、消去法的に、よく分からなかったものにそういうレッテルを貼る事を余儀なくされている。が、然し、残念ながらこれまでそんなものはとんと目にした事も気が付いたこともない。

 頭に余裕がない証拠である。

 だから今日も、此の寿司詰め状態と思われる自分の中に、「ちょっとすいませんねぇ」と言いながら割り込んで座ろうとして来るような、厚かましいものが訪れるのを期待しながら、夜道を散歩している。

 

   九十五