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はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

ミネソタより (1)

自分の今の状態は、よちよち歩きの子供が恐竜の卵を抱えて歩いているようなものだと思う。

これはどうにも暖めるのに一苦労も二苦労もしなければならないものだとは思うのだけれども、悲しいかな、いつもこればっかりに熱をあげる訳にもいかず、レジの前なり窓口の前なりに座っておらねばならない。それもこれも、自分が卵だからで、未だ雛子にもなっていないからである。

 

子供が産まれたら恐竜の卵を与えようと思っている。友人へのプレゼントである。

いつになるやらも分からないし、誰に預けるのかも分からない。

けれども、取り敢えず、その未知の友人のお子さんへのプレゼントの積もりで今からゴソゴソと彼方此方を掘っくり返し、ひっくり返ししながら、何処かに卵のありやしないかと探していたりする。

それは特に面白いものではないかも知れない。けれども、探す内にそれ自体が愉しくなってしまって、採った卵の使い途なんてついつい忘れてしまうようになる。

とはいえ、これらの卵は実に多種多様なものばかりでどれ一つとっても、容易に何が孵るか分からないものばかりだ。

売り付けるにせよ、ただ『たまご』と紹介するより仕方がない。食べられるかも分からない、兎に角、得体の知れない卵なのである。

 

誰でも1個くらいはそんな、得体の知れない卵を持っていても良いと思う。何の役に立つのか? と問われれば答えようもないのだが、少なくとも、中身が何であろうかと考える間は愉快であろうし、孵るまではその愉しみは続くだろう。特に子供の頃は、そういう愉しみに接していてもいいような気がする。

 

兎角、何だか分からないものがすぐ身近にある事は愉快である。けれども、それは大抵の場合、段々、慣れて来るに従って鬱陶しくなり、投げ出してしまいたくなる。そういう時は、放って置くのがいいと思う。それでも、恐竜の卵だったら問題はないだろう。どうせ、孵った所で、ピヨピヨ雛子の代わりに、妙に蜥蜴が出て来るだけなのだ。

 

孵るかも分からない内が、卵を孵化させる趣味の醍醐味である。暖める内が華ーーとまでは言わないまでも、孵ってしまうとどうにも手に負えないような気がしてならない。

幸い、今自分が抱え込んでる卵は、どれ一つとして孵る気配さえないが、自分はそれで構わないと思っている。何となれば、孵化させることが出来るだけの熱やら用意さえ怠らなければ、問題はないと思っている。

 

将来別に卵売りになる積もりも、恐竜の養殖業を営む積もりもない。所詮は愉快の為である。去れど愉快の為である。自己満足と謗られれば其れまでだろうが、卵を食べるばかりよりかは、幾らか自分にとっては其れが健康に資するように思われる。

 

九十五