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はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

手几

 中国語で携帯電話を「手几」と呼ぶそうだ。電車内の優先席辺りに掲示されていた注意書きにそう書かれていた。

 几とは机の略だそうだ。然し、日本とは異なり、机はマシンの意味があるそうだ。例えば旅客機は「客机」と書くようである。差し詰め、日本語の「機」に当たるのではないかと思う。

 辞書を引くと、他に用例として「打字机」(タイプライター)、「收音机」(ラジオ)が紹介されていた。イメージとしては、何れも日本語の「つくえ」の語感に引き摺られて、机の上に置かれて、割合事務作業に縁の有りそうなものだから「机」の字を充てているように思ってしまったが、そうではないらしい。飛行機は事務机の上で離着陸は出来ない。

 

 「事几(机)」と書いて、情勢、事を行う時期、更に其処から機密事項という意味があるそうだ。「机」はチャンス(「时机」)とか、何か物事の変化の契機(「转机」転機の意)を表す字であるらしく、意味としては「機」や「期」に近いのかも知れない。

 とは言え、表意文字は其の音と表している姿形の両方とが意味として伴う点にややこしさがある。「手机」の場合も――これは筆者個人だけかもしれないが――胸ポケットに小さく収まった学習机のイメージが容易に払拭し難い。

 

 調べている内に面白いと思ったのは、同じく携帯電話を意味する、「大哥大」という呼称についてであった。

 此方は用例として白水社の中国語辞典に紹介されていた文章が『手提大哥大,腰挂BP机。=手には携帯電話持ち,腰にはポケットベル下げる.』と言ったものである事からも分かるように、随分と前に用いられていた愛称の様である。

 「ケータイ」が「ガラケー」と呼ばれるようになったのは、2010年頃の様に思われる。2010年の自由国民社流行語大賞で「ガラケー」は「本田」や「リア充」と共にノミネートされていた。

 此の頃、「大哥大」という言葉が紹介された例としては、小栗左多里のエッセイ漫画『ダーリンは外国人』シリーズがあったと記憶している。2002年から続く同シリーズの何巻かは忘れてしまったが、初期の三作品中のどれかだったと思うから、2002年から2005年に掛けてであったろうに思われる。詳しい事はより丹念に調べてみないと迂闊な事は言えないが、「エッセイ漫画」というジャンルは1980年代の終わりから90年代に掛けて勃興し、2000年代に於いて同ジャンルを代表する作品例として数える事が出来ようこのシリーズが累計300万部を超すヒット作となった事を考えると、其の「口コミ」効果は尋常ならざる影響があったとみて妥当だろう。

 此処で言及したい事は、「大哥大」に対応する語として日本語の「ケータイ」が当てられ、然も其処に同期性を見出し得る例が、2000年代前~中期にかけて存在する、と言う事実である(稍言い過ぎな感もあるが)。

 時間的・空間的隔たりによって、言葉は伝播する内に、其れが差す対象自体が変化してしまう事が往々にしてあるものだが、2000年代前半に於いては既に書物の中でも、同時代的な指標を見出す事が可能である例を此処で一つ紹介したつもりである。

 

 先に参照した白水社の辞書の解説には、「大哥大」という呼称は、香港映画の中でマフィアのボス(=大哥大)が携帯電話を手に持って、手下の者に指示を出すシーンから生まれた言葉である紹介されていた。だとしたら、是も一つの流行語の一つとして捉えても余り問題はないだろうに思われる。

 因みに、「手机」と同じページに収録されている携帯電話を意味する「移动电话」という語は、別の辞書だと「セルラー電話」と訳されていた。恐らくcellular phoneの直訳だろうが、是は正しく「ガラケー」の事を指している。猶、「スマホ」という呼称は「ガラケー」(或いはcellphone)と区別する為の呼称である。

 cellphoneは、二枚貝(cell)に似た形状である事からつけられた名前である事を鑑みると、確かにスマホをcellphoneと呼ぶのは、聊か語弊があるかもしれない。然し、機能的には「スマホ」も「ガラケー」「大哥大」の延長にある事を考慮すれば、譬え二つ折りに出来る機種では既にないにとしても、言葉の由来・系譜的にはcellphoneと呼んでも何ら奇妙ではないだろう。

 

 或るブログの2013年の記事では「智能手机」と書いてスマートフォンの意である、と紹介されていた(http://plaza.rakuten.co.jp/xiexienihao/diary/201306080000/)。また、2011年にはyahoo知恵袋で、スマートフォンは中国語では「智能手机」というのだ、という回答がベストアンサーに選ばれていた例もあった。(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1057909765

 スマホを英語で何というのか、という問いに対して、cellphoneと呼ぶのだ、という回答が寄せられた例が今年(2016年)にも確認されている。

http://eikaiwa.dmm.com/uknow/questions/2719/

 社内の注意書きが英語で何と書かれていたかは忘れてしまったが、中文では単に「手机」とあった事を鑑みると、取り敢えず、其の語に該当する機械の操作は遠慮して欲しい、というメッセージは伝わりそうなものである事は如何やら今の所は未だ、確からしい。

 

 翻訳という作業に於いては時間差の弊害は如何ともし難く、或る時点で充分だった翻訳が、其の信頼性が数年後にも保たれている保障はない。

 最近では専ら人工知能による解析なども進んでいて、どんな言葉がどれくらい使用され、どの様に使われているのかも全部検出してくれるようだが、そうは言っても言葉を用いるのは人間である事には変わりがない。だから、詰まる所、どれだけ意味を検索するのに便利なツールが出て来た所で、最早誰も其の来歴というものを知らないで使う様になってしまっていては、自ずから其の言葉は時間的に翻訳出来なくなって仕舞う。幾ら辞書が語源を記憶したりしていても、抑々語源があるという事さえ知らないで言葉が使われているような状態が続くと、辞書というツールそのものが用いられなくなる可能性さえある。

 但し、其れは飽くまでも、意味の時間的連続性、言い換えれば言葉の同一性を知ろうとした時に直面するだろう障害であって、単に現在どんな状態にあるかだけを知りたい人にとっては、然したる益もなく、益もなければ全く不便もない関係ない障害には違いない。

 

 特にオチはない。