はてしないひらひら

尾ひれは沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

おおまかな見取り図:『天使のたまご』を巡る状況について

――0:発作的な書き出し

 偶然と言うものには全く感謝しなければならない。

 元日以来、十日に渡って近所の古本屋を一人で渉猟していたところ、今日になってようやく「収穫」と呼べそうな本を手に入れることが出来た。普段から、習慣として運動をしていないと、いざという時に身体を動かす事は出来ず、殊、大型の書店の棚を眺める時は、時間的制約からも瞬発力が要求される。数あるセール品の中からパッと目端に止まったものを手に取る事が出来ないと、またとない機会を逃してしまう。気が付いた時にはもう他人の手に渡った後である。

 自分が目に止めた物の、「また今度でいいや」と思った本が、どこかで誰かに紹介された時ほど悔しい事はない。自分が書こうとした筋書きの物語を誰かに書かれてしまった時と同じ位悔しいものである。自分が言おうとした事を誰かが代弁してくれたというのであれば、別にそれは自分の仕事が減ったのだから良しとしよう――と思う事は出来る。けれども、その時自分が優先度を低く設定したものを、あとからその評価が誤りであった事を、否応がなく他人から教えられるのは、耐え難いものがある。

 買おうと思った時よりも値段が釣り上げられていたり、別の場所で十把一絡げに売られていたのを発見した時も然程、がっかりはしないのだが、正にその時、その本を入手していれば、今、彼の代わりに自分がその論を主張出来ただろう――と言う事を思い知らされた時程、腹立たしい事はない。当然、その怒りの矛先は自分に向けられる訳で、その時のストレスは二日酔いよりも長引いて、心身ともにダメージを齎す。

 だから、手元に多少ゆとりがある時、幾らか当てがある時にはためらわず買ってしまう。そうして(多少の無理を強いて)購入した場合、大抵はハズレがない。但し、それは古本に限った場合である。

 

 ヘブライ語辞典の編纂者、ベン・イェフダーが、自ら収集した言葉を記録したカードはその一つ一つを非常に大切に扱っていたというが、それも専ら、上の様な理由からに違いないだろう(田澤耕『〈辞書屋〉列伝:言葉に憑かれた人びと』/中公新書)。

 というのも、記録自体は、実際、どの記録・どのカードがどれくらいの価値を持つかは、収集した時には分からないもので、うっかり失くした一枚の損失が後になってどれ程のものになるかも同様に分からないからだ。『ここで会ったが百年目』という表現は聊か乱暴かも知れないが、気持ちの上では、そのように常に構えていた方が、アンテナに引っ掛かるものも多いのだろう。

 

 釣り上げた魚が予想外に大物で、然も自分がずっと求めていたものに合致するものであった所為で、かなり自慢も交じってしまったが、以下本題に移っていこうと思う。

 とはいえ、自分の様な人間が気が付く程度の内容であるから、当然、此の程度のことは、世間一般に既知のものであって、とっくに人口に膾炙しているだろうものを自分は、よくも確かめもしない内に自分の創作として発表する事だけはせめてもしないように注意したいと思う。そして、予防線を張ると共に、今後、改めて機会を見つけ次第、適宜直していきたいと思う。

 今回の記事は経過報告と言うべきだろう。書きたい物を書いただけで、何と呼ぶにも此の侭では中途半端である。

 

――1

 去年の3月頃からずっと、押井守の“問題作”『天使のたまご』(1985)の批評を試みようと思っていたものの、手掛かりが余りに乏しい為に是まで放置せざるを得なかった。

 昔から『取り敢えず、体を動かす』事に抵抗を感じる自分にとって、是と言って目当てもなく書店と書店とを彷徨い歩くという選択肢は、懐に余裕があって、多少はそれによって自信が持てる場合を除いては、選びようのないものであった。

 取り敢えず、手なり足なり、体を動かそう――という発想は、取り敢えず、ムカついたら目の前の相手を打ったり蹴ったりする輩が自分を正当化する為に用いる屁理屈と似通った印象を感じる。見込みもなく、考えもなく、何らの保証もないのに、体を働かせるのは、文字通り理不尽である。

 

 「如何してそんな事をしたのか・しているのか?」と問われて、その理由さえ答えられないような状況で、一体、何を「する」事も出来よう筈がないと自分は考えるのだが、そうした自分の意見が、世間一般では『サボる言い訳』『負け犬の遠吠え』、正しく「屁理屈」と捉えられるらしい。

 少しでも金が入ったら直ぐに本屋に行って本を買い漁る自分は、世間一般では、居酒屋で日銭を使い果たすホームレスと大差ないのだろうが、実際、そんなに大差ないと思う。そして、そんな自分の先輩は、例えば魯迅の小説にも出て来る。延々科挙の受験に落ち続けるアル中のロクデナシがそれである。

 本来、こうしたロクデナシは自ら筆は執らず、その零落を大家に描かれて初めて浮かぶ瀬もあるのであり、語られてこそ歴史に名を遺すものである。セルフ・プロデュースなんかしてもロクデナシは潰しの効かないロクデナシなのだ。

 そうは言っても、やぶれかぶれながらも古書店を巡る内は、未だ自分自身に対して一抹の期待は潰えていないのである。けれども、もう自分がそう若くない事や、世間一般にはもう、ロクでもないゴク潰しである事を、今にも裂けそうなビニール袋を提げながら帰る深夜の道すがら自覚させられた時には、車の前に飛び出す気力も失われる。そうして、死にもしないで何をするのかと言えば、家に帰って大人しく、風呂に入って、着替えて、ホットミルクを飲んだ後、歯を磨いて布団の中に入るのである。(電気代を節約する為にエアコンもストーブも点けずに)布団の中は割合直ぐに温まるもので、その暖気の中で早くも煩わしい世間の雑事は、そろそろと枕元に遣って来る眠気と入れ代わり立ち代わりに遠くへ行ってしまう。

  

――2 

 325

卵に頬をつけるようにしてコックリしている少女

 

少年(off)

「何か聞こえるのかい?」

 

少年の声でハッと醒めて

顔を上げ

 少年の方を見て弱々しく微笑み

 

体ごと卵を抱きよせるようにして

 再び耳をあてる

 間あって

少女

「聞こえる……小さな息をする音」

 

少年(off)

「それは君の胸の音だよ」

少女

「羽の音も・・きっと空を飛ぶ夢を見てるのね」

少年(off)

「それは外の風の音だよ」

 

再び眠りにひきこまれながら

少女

「もうじき…今はこの中で夢を見てるけど…あなたにも見せてあげる…もうじき…。」

 

(「天使のたまご 絵コンテ集」(押井守、イラスト/天野義孝、2013年、復刊ドットコム)、p128-129)

326

凝ッと前方を見つめている少年にかぶせて

少女「だからそれまで…ここに・・ここは雨も降らないし・・暖かくて」

 

 (同、p129) *引用文冒頭の3桁の数字はカット番号

 

 Twitterの140文字に思い付きを纏めたり、絵を描いて写真を撮ってそれに単語を添えて投稿して、其れが星の(今は下品なハートマークになってしまったが)幾つかでも貰えたら、と期待するのもいいが、それで何かを成した気になったとしても、それは所詮、自分の内面的な変化でしかなく、自己啓発でしかない。

 然し、凡そ全て「外部」が所詮は、自己という殻の内壁に投影された映像に過ぎないと考えるならば、ありとあらゆる感覚は「ウロボロスの竜」よろしく、自分自身を刺激して得られるものと解釈する事も出来るだろう。然し、その様な永久機関があり得るとしたら、一体それが独りでに動いている事を、観測者はどの様にして外部から確かめる事が出来るのか。中に人が入っていて動かしていない事を確かめる方法は、それが不断に稼働している事を示すだけでは不十分である。

 

――3

 監督自身は、絵コンテ集の復刊に当たってのインタビューで、此の作品について、もっぱら当時の自身の技術的な拙さについて述べている。物語の内容については、天野義孝がデザインした少女の絵を見て、是に寄せて物語が大きく改められた経緯が述べられている。(2013年5月)

 但し、そのインタビューの中では、一見すると、多くの読者乃至映画の鑑賞者が求めた「答え」が明らかにされていない様にも読める。それは、物語の内容そのものであり、「意味」である。

 だが、その意味を知る為には、先ず「問い」が必要である。意味を知りたいと、欲望するだけでは、意味は手に入らない。答えの言葉を知る為には、欲望に基づき、先ずは問わねばならない。問うて初めて、答えに至る道筋に就く事が出来る。自分で問題を導き得ない内は、実の所、何を求めているのか、自分でも未だ、分かっていない場合が往々にしてある。問うて初めて、自分の求めるものを知る事もある。

 物事を適切に説明する為にはまず、適切な問いを立てる必要がある。

 

199

バタバタと走る音

 湧き上がり

ハッとふり向く少女

 

200

無意識に少年に身を寄せる

二人より急速にT.B

 

ダダダ…! と

 走り抜ける男たちのシルエット

 

 (同、p88) 

 

203

少年のマントの中

 すがりついている少女

少女「魚が出たのよ!」

 

 (同、p89)

205

ひしとしがみついたまま

少女「どこにもいないのに、追いかけたって魚なんてどこにもいないのに!」

 

(略)

 

 (同、p90)

 

天使のたまご』という映画の中では、街の中を泳ぐ魚・影の(乃至、影・魚の)と、その影に向かって銛を投擲する男達が登場する。

 よく知られた話ではあるが、此の「魚」は言葉のシンボルとして描かれたという説がある(NHKBSアニメ夜話機動警察パトレイバー』の回で、岡田斗司夫が、当時押井の元を出入りしていた貞本義行から聞いた「ここだけの話」として紹介している)。然し、例えその説が正しかったとしても、その魚が「言葉」のシンボルであると知った所で、如何して物語の中でそれが登場したのかを、観客は理解出来る訳ではない。 

 多くの場合、「問う」事と「欲する」事は混同されている。魚が言葉のシンボルである、という事実は物語とは直接関係がない。然し、その事を知った上で映画を観ると、何か「分かった」気にはなる。丁度、それは映画の中で、男達が魚の「影」に向かって銛を投げて、獲物を捕えられると錯覚している(ように見える、というに過ぎないのだが)さまと相似形を成すかのようである。相手の事を何か分かった積もりになって、一方的に親近感を抱く、或いは何か優越感を抱くのと然程、そうした行為は変わらない。

 ただ、飽くまでも、映画の中で描かれている男達は、銛を投げている事以外は、不確かであり、彼等が狙っているのが「魚・影の」なのか「影・魚の」なのかは、映画の演出からは不明である。

 然し、確かな事はもう一つあって、それは魚が「どこにもいない」事である。無論、それは少女の見解であって、もしかしたら目には見えない(少女にとっても、観客にとっても)魚がいるのかも知れない。だが、見えているものは、影しかない。

 

 

――4

 作画のテーマは「正確に描くこと」ではなく「感覚の再現」であるとする宮崎駿の見解に対して、押井守はそこに「身体が立ち現れる」かどうかがテーマであると、前出のインタビュー中で彼は述べている。

 ここでいう身体とは、存在なのか?

 押井は、「存在感を出すためだけに動かしている」とも述べている。但し、その後に、「感覚の再現」ではないと主張しているから、それは存在自体を出そうとしているのであろう。

 ただ、それは作画――アニメーションでは不可能であるのかも知れない。というのも、アニメーションで可能なのは「表現」だからだ。表現としてスクリーンに出力されるものは、その記号が意味する意味それ自体ではない。存在を表現すれば、存在の記号が表示されるのであり、存在それ自体は隠れてしまう。存在が現れる為には、それが表されてはならない、という困難が伴う。

 動いている身体は一枚一枚の絵では表せず、不完全なそれらが繋ぎ合わさって出来たものから「立ち現れる」身体は、果たして存在ではない。

 

 小林秀雄ではないが、「存在が身体している」ようすを描いてみた所で、それは「身体している存在」の画である。

 だが、仮に画家が、存在が身体しているようすを描きたかったのであれば、画はどれだけ彼が努力した所で彼の望む通りには仕上がらないだろう。

 

 映画の中では、どれだけ銛を投げようとも、魚はそこには居ないとされる。

 だとしたら、存在が身体しようとしているさまを描こうとする人の試みは、決して達成されないだろう。所詮、どれだけ足掻こうと、もがこうと、立ち現れるものは、身体であり、存在ではない。影であって、意味それ自体ではない。

 

 

――5

 「身体」という、押井監督の問題意識の“類型”は、例えば、漫画家のつげ義春にも見出すことが出来ると思う。

 つげが1968年に発表した代表作「ゲンセンカン主人」は、ある鄙びた湯治場を訪れた男が、そこに以前からいる老人たちから、彼「が」旅館・ゲンセンカンの主人にとてもよく似ている――と指摘される場面から始まる。

 此の作品も、「天使のたまご」と同様に、ファンの間では根強い人気を誇るらしいが、皆目、真面な解説というものが為された試がない。というのも、やはりそれは、内容自体が難解である、というよりかは、物語自体が、内容足りえない――本来「現す」べきところを「表」せざるを得ない――技術的困難から来る難解さが原因として考えられる。批評しようにも、批評家の方も、物語のテーマを、物語自体から取り出す事が困難なのである(其れは、正に、魚の影に銛を投げるような行為であり、投げた先には何時も、魚はいないのである)。

 さて、この「ゲンセンカン主人」という作品についてだが、つげ自身は、自作について、かなり自覚的に内容に取り組んだと述懐している。そして、物語の中では、前世と現世の因縁を説く老婆が、前世なぞないと言い切る男(ゲンセンカン主人、主人公の男が瓜二つだという)に対して、もし前世がなければ、今生きている自分たちはまるで、幽霊ではないか――と恐ろし気に語る場面が描かれている。

 

 前世の因縁が、来世である所の現世に反映される――という発想自体は随分人気があるらしく、その事は昨年2016年に大流行りした映画の興行収入が示した通りであろう。

 新海誠の「君の名は。」がヒットした最大の要因は、「何故、自分が存在するのか?」という問いに、「前世からの因縁」という非常に古典的かつ安直な答えを提示したからであろう。是によって、人々は、ゲンセンカンで湯治をしている老い先の短い老婆の様な不安に苛まれる事のない、幸福な思考停止状態に陥ったのであろう(果たしてその「おまじない」の効能は、どれ程効果を発揮し得るかは、つくづく見ものである)。

 

 遡れば、戦後は1960年代後半から、既に自覚的な問題として顕在化してしまった、此の手の実存的不安から逃れる術は、実際何処にもないのである。

 戦前に於いては早くも、1920年代には既に立ち現れていたが、その問題が、果たして真剣に取り扱われたならば、戦後という言葉は恐らくありえなかっただろうに思われる。また、「前世」と同じく、「終末」もまた便利な言葉であり、「決戦」、「最終戦争」、「ハルマゲドン」といった言葉は、真剣に此の問題に立ち向かう事を拒む人々にとっては、例えその結果としてどれだけの代償を払おうとも、『取り敢えず、何もしないよりはマシ』という発想から、暴力的選択肢を採るのだろうとも考えられる。彼等からすれば、所詮、未来がバラ色だろうが、真っ暗だろうが構いやしないのである。彼等は、自分の過去を「暗黒時代」「黒歴史」として恥入って、自らの口に閂を掛けるだけの羞恥心はないのである。仮にあったとしても、彼等はその恥を知るを事を決して望まない。というのも、気が付いてしまったが最後、その恥や罪を雪ぐことは決して叶わないからである。気が付かなければ、ないも同然である――と、彼等は考える。だが、それは人と成っては、手遅れである。『有りの儘の姿を見せて生』きていけるのは、ヒトデナシだけである。

 閑話休題

 

 

――6

 偶然と必然の問題について寺田寅彦が議論していたのが1930年代であるから、もう大分前の話である。円城塔の師匠に当たる、東大の金子邦彦が「カオスが紡ぐ夢の中で」という本の中で此の寺田寅彦の「物理学序説」を紹介したりしていたが、Amazonで検索する限り、単体で新版が出た形跡は確かめられない(2017年1月9日現在)。

 

 「天使のたまご」という作品の根底にあるだろうと思われる問題意識は、「胡蝶の夢」から延々続くものである。

 自分と言うものが此処にいる確からしさを担保する理由や由縁が失われたり、損なわれたりした後、如何にして「身体」を取り戻すか――。此の問いを発する事無く、或るは、無視して「天たま」を「観る」事は難しい。

 

――7:一旦の終わり

 1999年に放映された「serial experiments lain」も、此の系譜に連なるだろうと考える。そして、リアル・ワールドに於ける「玲音」と、ワイヤードに於ける「レイン」の乖離を、分裂病や統合失調症と絡めて、精神分析の見地から語る事が出来れば、「アリス」以降の20世紀初頭から続く、ナンセンスを巡る運動との連関も語れそうだが、兎角この辺りは込み入っているし、其々が大分の分量の文章になりそうなので、正直、今年いっぱいで終わらせられるかも不明で途方に暮れてしまう。

 

 中二病と言うよりも、5歳児が夜中に眠れなくなって泣き出す原因でありそうな問いと、これを忘れようとして、取り敢えず手を動かし・体を動かし、忘れようとする暴力的な衝動との関係を、「天使のたまご」という映画は描いている様に思う――というのが、一先ずの現段階で無理に約めた自分なりの見解である。

 

 取り敢えず、見取り図は未だ大分、しわくちゃだが広げられたと思っている。

 

308

君も僕も、あの魚たちのように

とっくにいなくなってしまった人たちの

記憶でしかなくて

本当は誰もいない世界に

雨が降っているだけなのかもしれないんだ。

…鳥なんか始めからいなかったのかもしれない。

 

(同、p123)