はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

ゴジラと貞子、ヤリキレナイものについて

ーー1

 現実と虚構のせめぎ合いの中で、モニターの向こう、スクリーンの向こうから観ている此方側へ近づいて来る、映画の中の怪物は、いづれも自己増殖する。

  当然ながら、自己増殖する彼らにとって、自己の複製との関係は親子と呼ぶことは出来ない。いづれの個体も複製の一つに過ぎず、彼らは皆、孤児であり、捨子である。

 

 彼等は亡くした母を思うて泣くと同時に、自らを作り出した父を恨んで殺そうとする。父に母の代わりは勤められない。というのも、父もまた、我が子同様に母なき子であるからだ。

 

  父となるものは、二度母を失う事になる。一度目は産まれた時、二度目は妻を亡くした時である。これは役割的な話であって、生理学的な性別によらない。

  子供は、母の胎内に回帰しようとする。だが、そもそも子が母親の胎内の宿った瞬間に、もう全ては手遅れなのだ。母となってしまった者はいづれ子を残して死なねばならぬ。父となった者は、我が子に恨まれ滅ぼされる。宿ってしまった子は、その安住の園から追放される運命を背負う。

 だからこそ、親は子を捨てようとする。其れを許さないのは、周囲の人々である。というのも、彼等もまた、誰も親になる事を望んではいないからだ。

 彼等自身も孤児であり、母親に、故郷に、「ふるさと」に帰りたがっている憐れな子供たちなのである。

  そうして、その憐れな子供同士が、互いに寄り集まって慰め合うのが集団の、社会の目的である。互いの不足は、決して埋めることは出来ない。二人いるのに席が一つしかないような状況で、半分こして腰掛けても其れで十分な用が足せる訳ではない。

 そんな、社会の状況の中で、うっかり産まれてしまった「廃棄物」の中に、子供もある。悲劇は、死んで流れていく事ではなくて、中途半端に産み落とされて、放逐される事である。

  「産まれて来さえしなければ、こんな苦しみを味わう事もなかったろうに」と悔いたところで、憐れな廃棄物には浮かぶ瀬もなく、糞土の中から産まれたホムンクルスや、死体で出来たフランケンシュタインの怪物、ロボットらと同様に、彼等「ヒトデナシ」は、未だ生きている母を前に駆け寄る事も泣きつく事も出来ず拒絶され、父に対しては感謝の礼を尽くす義務が課される。

 

ーー2

 ゴジラと貞子の本質はこの廃棄物である。 彼らは、ただ只管、人間に対する義務を背負わされる存在である。

 しかし、一方で彼等を垂れ流した人間達の言い分も、本質的に彼等と大差ない。あるとすれば、産み落としておいて、見て見ぬ振りをする連中は、自分達の義務を子に押し付けたーーという一点であろう。

 

 即ち、彼等は親となれば最早、自らの子供としての座を譲らねばならないのである。第二の人生なぞありはしないし、やり直しが効く事なんぞただの一つもありはしない。人生は一度切りであり、一度傷がついたならば、その傷は決して癒える事はなく、最後はそれが元で死なねばならぬ。(言わずもがなだが、この怪我こそ、臍帯の切断に他ならない)

 

母ならば子らの成長を待たずして、父ならばその子らによって、滅ばねばならず、それが嫌なら親にならない努力もあったろうに、作り出してしまったのだから、後でどれだけ悔いたろうが後の祭りである。

 母を失い、恨みから父も殺したヘンゼルとグレーテルのきょうだいが、森の中で成長して、所帯を構える事は容易に想像出来るが、果たしてその関係が禁忌を犯すものとなった後にも、彼等自身が自らの親に倣うか否かは果たして一概にどうなるか知れたものではないが、兎も角、父という、母なき後の制度としての社会のあり方を否定して、解体した後に家も自ら焼いてしまった子供達にとっては、一体これから自然の中でどうやって生きていくという事が最重要課題となる。そんな中で先ずは、自らの姿を何かで隠すーーという行為を真っ先に採る事は成る程実に合理的であるように思われる。

 

 傍目には、何度となく繰り返しているように判ぜられるが、しかし、親という範を持たない・知らない子供達にとってみれば、彼等の世代交代は、彼等一代毎に固有の現象として当事者的には把握される訳で、其処に何等の問題も生じない。例え傍目には、結局、因果の鎖から逃れられていないと見えても、彼等に見えているのは一本の線分であり、その両端は綺麗に断絶していて、後にも先にも彼等の生きた分以上以下もない。

 其処には、与えられた分も、また他に押し付けた分もない。見えていなければ、あると思わなければ、実際にそれ以上の問題は存在しないも同然である。

 しかし、一度、自分の義務ーー押し付けられたものを感じてしまったならば、それが被害妄想だったとしても、最早彼彼女の人生は個々に閉じたものではなくなってしまう。「前車の轍を踏まない」という意識は、自分が親の負担するべき負い目を自らのツケとして払う存在である事を認めた事となる。すると、例え親達がーーいけしゃあしゃあとーー「そんな事は思っていない」と述べた所で、その事実いかんに問わず、彼彼女の生涯は先祖代々の因果を死ぬまで背負って生きていくより他に選択肢のない、苦役でしかなくなってしまう。

 不幸を託つ事も出来ない。というのは、世の中には、如此く、他人に黙って手前のツケを押し付けのうのうと生きていく厚顔無恥カッコウの親と、その無知につけ込まれて誑かされて、挙句泣き寝入りするより仕方のないものの、それ以外の生き方の選べないともがらの二種類しか存在しないからである。

 此の世には、DVの加害者と、そんな加害者に依存している被害者しかいないのである。

 

ーー3

 ゴジラや貞子は、言うなればそんな、被害者にとっての本当の意味での救い主である。

 払うべきツケは、払うべき者が払うのだーーという事を徹底するだけの力(物理的な)を持つものは現実には極々限られ、かつその使用も非常に限定されている(専ら其れは、カッコウ達の努力による)。

 『神がやらねば「人」がやる』というセリフはテロリストの常套句、自己正当化の方便として取られてしまうが、「人」ではないヒトデナシがする分には何ら問題がない。其れが怪獣(ゴジラ)、怨霊・ウイルス(貞子)、人造人間(巨神兵エヴァ)であったならば、尚更構わない。人の世界の理を超えた、超常の存在の到来を期待する人は大勢いて、そうした、「白馬の王子さま」ーー自分を救い出す為に変わりに戦ってくれる騎士ーーを夢見る人々が結果としてアイドルの様な超常的なヒトデナシを生み出す。しかし、彼等も救われた瞬間に、自分達を支配していた連中と同じように振る舞い出す。

 と言うのも、結局、支配ー被支配の関係に甘んじる様な手合いは、支配されてやる代わりに、自分が相手にとっては欠くうべからざる存在になろうとしている場合も往々にしてあるからだ。

 

ーー4

 しかし、ヒトデナシにとっては、人の世界の理屈というものは関係なく、仮に傅かれて、支配して下さいと懇願された所で応える事は出来ないのである。だが、自分達のささげ物を受け取らないと憤る人々も間々いるもので、結局、彼等も敵に回したヒトデナシは、英雄から一転して、度の過ぎる社会の危険因子として排斥されてしまう。

 

 排泄物もとい人間の廃棄物であるヒトデナシが、人のツケを払わされるのは、畢竟、彼等がヒトデナシという呼称の様に、「人ではない」何かとされるからだ。

 幽霊にせよ妖怪にせよ、ヒトデナシは所詮、人間の目には、その人の見る事の出来る形でしか捉えられない。其れは結局、彼等の「見たい様な姿形」で現れている事に他ならないのである。

 

 有り難い事だろうと巫山戯た事であろうと何だろうと、所詮は、感じる人の把握出来る形でしか受容されない様に、ヒトデナシが虚実皮肉の「幕」の向こうで、人の見たがる姿で此方に迫って来る限りは、人に都合のいいように振り回された挙句、打ち捨てられ、顧みられる事もない。

 

 怪獣や怨霊は、そうした忘れ去られたヒトデナシのヤリキレナイ恨み辛みのシンボルとなり得る。

 ただし、其の所業は、都合のいいように正体や心中を察せられ、蹂躙され続けたモノが「復讐」しているのではない。自由が、人間にとって真の意味で理解出来ない様に、ヒトデナシの意図は汲み尽くせないのだ。

 

 人が泣く理由が喪失にあるとしても、如何して其れを悲しんだりして、泣いたりするのか、結局、其処ん所が分からない内は、人はヒトデナシに踏み潰されたり焼き殺されたり、呪う殺されたりするより仕方がなさそうだ。

 

 せめてもヒトデナシを理解しようとするのであれば、其れらから逃れようとせず、しっかりと抱きとめるだけの勇気とか、そういった覚悟は必要なのだろうけれど、果たしてそんな覚悟のある奴は、ヒトデナシに違いない。