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はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

映画の感想:『虐殺器官』(2017)

 (2017/2/4:加筆修正:2017/2/5)

 

 1

 昨日『虐殺器官』をみた。ああいう仕様なのだと思ってみた。初めてハヤカワ文庫を読んだ学生のイメージ映像を観ているようだった。でもそれが良いのだろうと思った。

 伊藤計劃作品の入門編としては、いいのかもしれない。『屍者の帝国』がファンタジー映画だったのに対して、『虐殺器官』は映像メディアの強味を活かして、近未来のテクノロジーを具体的に観客へ示してみせた。それだけでも十分にこの映画は映像作品として、意味のあるものであったと思われる。全体の印象として、随分『お喋りな映画』という印象もあったが、それも、なるべく観客(普段からこの手のジャンルの作品に慣れ親しんでいない人)への配慮だったと、善意的に解釈してもそこまで恣意的ではなかろう。

 飽くまでも、映画は大衆向けの媒体である。劇場は決して、特定の人々に開かれているのではない。確かに観客は、一人一人を見れば、客席からスクリーンに対して、一対一で相対している。けれども、劇場という空間は元来、複数人の人間で共有されている場であり、プライベートな空間ではない。だから態々、上映前に、「前の椅子の背を蹴らないで」云々のマナーについて、注意が流されたりもするのである。

 作品自体は公共的で均一である。しかし、それを鑑賞する客席にはムラがある。そのムラについて目を瞑るか或いは取るに足らないとする人の中には、経験その物が共有されていると解する人もあるようだが、それは余りに大雑把過ぎる嫌いがあると筆者は考える。

  例えば、筆者は映画を観ていてその雰囲気に既視感を感じたのだが、スタッフロールを観て納得がいった。音楽が『相棒』でお馴染みの池 頼宏氏だったのである。のっぺりとした顔と血糊がふんだんに使われた映像は、テレ朝の看板ドラマのスペシャルバージョンの印象を否めなかったが、それは私(筆者)の頭の中での経験である。

 見解は言葉にすれば、映画の様に共有する事は出来るかも知れないが、その意味までは共有出来ないと考えるのが筆者の立場である。しかし、それでも筆者は敢えてここでは、映画を共有可能な経験であるという前提に立って論じようと思う。それはアニメ映画を「大衆娯楽」だとする場合に、映画が大衆にとって共通の経験として認識されているという前提に従ったまでの事である。

 だから、自ずから本稿では、『虐殺器官』のキャラクターデザインとか、声優とか、その他諸々の「俗っぽさ」を理由に映画を批判は有り得ない事になる。寧ろ、本稿ではその「謙虚」な、或る意味で「無難」な態度を批判する事になるかもしれない。

 いっそ手を抜かずに、『屍者の帝国』ぐらい、換骨奪胎すればよかったのに、という批判も可能である事を筆者は提示したいのである。それは逆説的かもしれないが、原作というものと一切乖離して独自の世界観を作り上げたならば、原作ファンには総好かんを喰らったとても、作品としては自立する事が出来たからだ。帯に短し襷に長し、というのが最も始末に負えない。論ずるにしても、そもそも、論ずるに足らないからだ。

 

 2

 本稿を執筆するに辺り、彼是検討を重ねた結論としては、映画自体は論ずるに足らず、というのが筆者の結論である。いっそ清々しい位、我田引水がされた方が、批判するのも容易いのである。ただ、それでは曲がりなりにも感想を述べるという主旨に反する。ただ、何処を批判すればいいのやら、分からない。際立ったものがない、只管に平坦な映画――というのが、筆者の感想である。

 しかし、それが此の映画の意図する所だという、穿った見方も出来なくもないから、困った所である。あれだけ饒舌な映画なのだから、余計その平坦さを際立たせる事も出来ただろうに、と思ってしまう。形ばかり大衆向けで、しかしその分かり易い言葉で以て語る所はそうではなく、為に余計まどろっこしいのでは本末転倒であろう。

 話にどれだけ尾鰭を付けても良いだろうが、言いたい事はシンプルな方が良い。しかし、内容がそう単純でないならば、単に画や言葉を易しくするだけではなくて、その論調、展開自体も易しくするべきである。

 『虐殺器官』にとりても、その工夫がなかった訳ではない。色に例えてもいいだろう。極めて出色の出来であった原作の色彩を表現するのに、今流行りの絵具では不足していたのである。色は言葉と置き換えてもいい。問題点は恐らくそこにあるのだろうと思う。その上で文句を言うなら、もう少し観客に対して、挑戦して呉れてもよかったのに、と言いたい。ただ、その挑戦に応じられるだけの観客が少ないのも現状で、だからこそ、今回はその裾野を広げる為に、工夫したのだろう。とは言え、それでよりにもよって伊藤計劃に目を付けたのはミスチョイスだったと思う。或いは、それが制作者サイドの挑戦だったのかも知れないが、勝負は伊藤計劃の圧勝であった。これは如何にも覆らないだろう。なお、筆者は『屍者の帝国』について、小説は円城塔の小説だと見做しているし、映画も映画で、小説とは異なる、独自のものと見做している。

 

 3

 兎に角、相手がまずかった、としか言いようがない。

 ただこの失敗を機に、昨今の安易な映像化の傾向が少しでも鈍る事を願いたい。ただ、鈍りはしてもなくなりはしないだろう。何故なら、もう既にコンテンツを大量消費する仕組みが出来上がってしまっているからだ。それに自覚的になった所で、気が付いた当人も、その機構の中に組み込まれてしまっているので、如何にもならない。今後も会社も人も潰されるだろうし、コンテンツは次から次へとオワコンに認定されていくだろう。ただ、一瞬でもブームになれば未だ好いのかも知れない。三面記事の話題にさえならないで消えていくものの数が圧倒的に多いからだ。

 けれども、そんな状況がいつまでも続く事はないので、静観出来るものなら、していたいものである。ただ、そうした静観もその内出来なくなるのだろうという気もしないんでもない。物事にはいつか終わりが来る。故人の遺産を食い潰し、漸く延びて来た若芽も摘んで消費してしまう、無計画な仕組みはいづれ何処かで破綻を来し、その時、多少なりとも秩序だって見えた体制がどの様に瓦解するかについては、敢えて此処で言う事の程でもない。

 『虐殺器官』は自身の感情を制御して、只管に貧しい人間同士の相互に潰し合う為だけの紛争の後始末を引き受けなければならない、中継ぎ的・中間的な存在の平坦な感情を観客に伝えている点では「出色」の作品である。どうか、自分の生きている内には、そんな面倒事置きませんように、と願いつつ、日々を齷齪生きている小市民の期待が結局の所、状況を益々悪化させているという事がよく描かれている。

 然し、最後に余計な尾鰭を付けるとしたなら、映画のラストシーンについて、あのようなメタ的解釈の可能な演出は観客を困惑させるので好ましくない。もっと大衆にも分かり易く、ストレートに演出して貰えたら、後で大いに盛り上がる事が出来たろうに、此の点、返す返す思うにつけて残念でならない。