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はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

積極的■■主義(試論)

 試論 積極的■■主義について

(自主検閲・伏字二文字については適宜補われたし)

 

 兎角世間は■■、■■と、そればかりが唯一絶対の真理の如く、それに勝る価値はないという風に申しますが、一言に■■と申しましても、大凡これは積極的・消極的の二つが御座います。

 まず、専ら説かれます、■■というのが、消極的なものになります。というのも、これは否定(でない)から導かれるものであります。対しまして、積極的なものは「である」であります。

 消極的■■は、兎角、何からでも導く事が出来ます。ですから、例えばこんな一例もございます。

 

「ネェ、お父さん、今日の晩御飯、何になさいます?」

「んん、何でもいい」

「なぁんでもいいって、そんな……そう言って此の間、豚の角煮は嫌だとか言ったじゃあありませんか」

「ん、じゃあ、豚の角煮でないもの」

 

これが、家庭に於ける消極的な■■の実現に至るプロセスであります。

 対しまして、是が積極的なものになりますと、厄介なのであります。

 

「お父さん。今日の晩御飯、カレーですよ」

「俺はサバの味噌煮が好い」

「未だ、昨日のカレーが残ってるから、カレーですよ」

「いいや、絶対、サバの味噌煮だ」

 

ここで例えば、お互い、譲歩して、サバの味噌煮カレーが其の晩の献立と成ればいいのですが、現実はそう上手くいきません。果たしてこれがカレーと、クサヤのなます和えだったら、大変な事になります。

 

 そういう訳で、積極的な■■主義というものは、中々流行らないものです。

 なので、リアリスティックな人は、こうした闇鍋が完成しないように、積極的な■■主義を消極的■■主義と呼んでみたりします。

 別に、そう呼ばなくても、代わりに、消極的な方を積極的だと言ったりします。

 

 ○○でない■■は、何だって■■と言えるのです。だから、「でない」■■は好まれるのです。何故なら、例えば、「ゾウさんでない■■」と「タンポポでない■■」があったとしても、この「ゾウさんでない」そして「タンポポでない」■■はあり得るからです。

 でも、これが「である」■■だったら、大変なのです。

 「ゾウさんが■■である」で「タンポポが■■である」でもあると、ゾウさんとタンポポがどっちも■■と言う事になります。

 

 これは、結果として、タンポポもゾウさんもお互いに、随分かけ離れているようですが、同じ■■だと認めれば、なるほど、こういう事も出来るのですが、実際の所、そうやってどんどん、「〽あれも■■、これも■■、たぶん、■■~」なんて言われると厄介です。

 

 何が厄介なのかと言えば、結果として、■■が何なのかよくわからなくなるからです。

 煎じ詰めれば、そうするほど、何が何だか分からなくなるのです。

 でも、煎じ詰めたる「である」■■と「でない」■■は決して同じものではないのです。これは確かです。

 

 なので、最終的に、この二つの■■主義は、何について語っていようとも、どういう方法で突き詰めていくかという、態度の違いから、結局、争う事になります。

 そこで、第三の■■主義という立場では、「である」且つ「でない」■■というものをおこうとするのですが、それがありえるのか、という所で「である」「でない」双方から突き上げを喰らう訳です。

 

 

 大雑把ですが、■■主義について書いてみました。

 なお、この■■には、どんな文字も当て嵌まる事が出来る、というのが、私の見解です。

 そこで、若し、お時間ある人がいらっしゃいましたならば、試しにこの、

「■■にはどんな文字でも当て嵌める事が出来る」主義を、■■に当て嵌めてみて下さい。そして、もう一度この文を読み進めてみて下さい。それで、本当か如何か確かめてみて下さい。

 どうぞ、よろしくお願いします。