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はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

バター・マーガリン・マヨネーズ

  1

 

 悲しみの向こうへと辿り着いたら其処はジャパリパークであった。

 

  00年代の後半に限界を迎えたハーレムは、バトルロイヤルの末に共倒れと化し、衰退したジャンルはホモ倒れとなった。

  ソドムかゴモラか知らねども、そんな辺境の土地の些細な変化とは全く関係なく、時勢は徐々に変革が兆し始めた為に、恰も連動呼応しているように誤解する諸氏もあるくらいだが、ブームとしてのホモ倒れは常にハーレムの代用品として、バターに対するマーガリンの如く、これまで延々普及し消費されて来たのである。

 

   2

 別にマーガリンだって、敢えてバターの代用品と位置付ける事は特に無い。けれども、昨今の事情を鑑みるに、所詮はマーガリンもバターの代用品で、更に此のバター、もといハーレムも実はマヨネーズの如く、食材本来の味を誤魔化す為に過剰に追加された脳内麻薬分泌成分であった。

 

  3

 斯くして此のハーレム・バターのマヨネーズ的使用は80年代以降何にでも及ぶようになり、慎吾ママ的怪物を生み出すまでに爛熟する。

  そして、とうとうある一線を迎えたのが2005年頃であり、象徴的な破綻が描かれたのが2007年の『スクイズ』だったのである。

 

  4

 恋愛というものは、それ自体非常に陰湿なものであり、土台動物は其れで命を落とすことも更にあるくらいだから、元来、傍目には見るに耐えない野蛮なものである事は、敢えて此処では言うべくもないかもしれない。

  殊人間に限って言えば、「動物化」という言葉のある位だから、自分達は無関係の超越的第三者を気取っている態度が主流であるようだけれども、生憎と人間も生まれは動物である。

  「人は生まれながらにして人なんだ」という被造物史観に肯定された現代に於いて、動物から人となりて、また動物に戻ると言うのは、其れ自体、何を言おうとしているのか分からない。或いはもうそんなことを言うだけの熱も冷めてしまって、今更恥ずかしくなって来たりもしたのかも知れないが、其れだってもう遅い。遅過ぎた。

 

  ーー戦争だって? そんなもの、もうとっくに始まってるさ。

 

  5

「帰りたい」けど「帰れない」故郷としての動物と人間とは「さよなら」するしか仕方がない。

  此の道はいつか来た道なのである。後はもう人間、潔くカッコよく生きていくよか仕方がない。口笛吹き吹きひとり旅でも、一条の光のみを頼りに坂道を下って行くのも、大して変わらない。

 

  マヨネーズに浸かったご飯を食べる生活をしていると、必ず不幸な結末が待っている。そんな事を知っていても、人々は脳内物質に夢中で、本を買う金があったら、野菜マシマシでラーメンを注文して、其のヘルシーな丼の中で固形化したツユを啜って愉悦に浸っている。

 

  今やマーガリンの時代も終わりを迎えて、背脂の時代である。

 

  6

 其れが悪い訳ではない。決してそうではない。

  けれども、其れはもうバターでもなければ、其の代用品ですらない。

  然し、其のバターさえも本来は代用品であった。ハーレムはパラダイスの代替物であり、然し其れさえも此の世にはあり得ないユートピアであった。

 

 キツネはウサギを食べてしまうし、オオカミは赤頭巾を食べてしまう。マーガリンはバターの、バターは本来、肉に付いた血や脂の代用品である。

  血で血を洗う抗争の代償は、得体の知れない工場である。メトロポリスの地下深くで、或いは野っ原の片隅で、犠牲は最早其の声も上げることなく、生あるものは今や無生物に限りなく近く、動物はいよいよ物化して動かなくなっていく。

 

 血や肉を、滴り落ちる脂を舐めては、飲み食い啜る野蛮な人間の食事は、代用品で腹を満たしている文明人の目からすれば化物の如く映るのだろう。

  然し、人間の様に飲み食いしているようで、其の実、自らは工場の内にそうした不都合な過程を押し込めて、対価だけは確りと受け取って、無垢を装い振る舞うよりかは、どれ程野蛮な生活の浅ましさの方が誠実と言えるかも知れない。

  但し、白日の下に曝されても、野蛮な所業は決して其の忌まわしさが無くなりはしない。

 

 鍋に上で柄杓の丸い背で濾された分厚い脂身は獣の背より摘出され、其れが舌の上にじんわりと広がる甘みを齎すのである。其れは決して工場の中で生み出されたものではなく、動物の体内にあったものなのだ。

 其のスープがどれだけの忌まわしさを漂わせていると分かったとしても、美味しいと思うことは止められない。

 

 ーーくやしい!でも......

 

  7

 何も感じないというのは、何もしないことである。とは言え、食わなければヤリキレナイ。やるせないモヤモヤに救いもなければ、明日も続く。

 

  「どうしてお腹が減るのかな?」という素朴な問いは日々の充足、リアルな胃袋の満足により、豊かになればなるほど如何にかして忘却される。

  食べてしまえば忘れてしまう、というのでもないけれども、うかうかして食べ過ぎていると、ある日突然ザックリ腹を切られるかもしれない。

  そして、当然だがそうなっても、童話のようには自由ならないもので、消化された赤頭巾とお婆さんは救出もされないし、腹を割かれたオオカミも生きてはいけない。一人、残るのは猟師だけだ。

 

  8

 然し、うっかりひょっとしたら、オギャアと産まれて来るものがあるかもしれない。だとしたら、猟師は忽ち助産師の仕事をしなければならなくなる。

 中には誰もいないと思ってたら、ポーンと飛び出して来たビックリ箱の中身みたいな無邪気なそれらを目の当たりにした時、一体猟師は戸惑うだろう。

  然し、だからと言って、うっかり逃げ出してしまったら、本当に元も子もない話である。

  では、如何するのか?

 其処は素直に親子丼に綴じて仕舞えばよろしいのである。

 

  9

 食べて食べて喰われて食べて、食べて食い倒れて眠る迄、食べるだけの欲望のある内は、多分、ハーレムの夢を見続ける事は出来るだろう。

 第三のビールもといマーガリンだって、何だって作り出す事は出来る。虎も回ればバターになる。豚もおだてりゃ木に登るし、飛行艇だって操縦出来る。

 

 ーーラピュタは滅びぬ! 何度でも蘇るさ! 

 

 人工の大地、人工のバター、パライソ、大都会への憧憬は空腹と共にある。尽きる事なき飽くなき空腹は、常に人類と共にある。

 

 空腹である限り、人は馬鹿の侭であり、だもんだから、例え火の中水の中草の中、森の中、土の中から天上遥か雲の中、美味しいご飯を求めれば、東京砂漠の三千里さえ物ともせず、氷を踏んででも進軍するのである。

 

  旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる

 

 嗚呼、可賀ヤンデレ芭蕉翁はとんだヤンデレである。

 建前は幸福の実現だろうが、其の実は幸福追求権を行使するのが楽しくて楽しくて仕方がないのである。嘘つきは、ひと所に住んで人心地を得るよりも、不毛地帯をひた走るのが好きなのである。「マッドネス、マッドネス」とインド(撮影地はスリランカ)の山奥で呟く軍人の嘆息も聞こえて来そうではある。

 

  10

 「ようこそ!」と迎える娘も、未開の地に住む人喰い人種かもしれない。用心には用心を重ねて、パースエイダー一丁さらしに巻いて流離い人は百代の森を抜けて行く。

 

  11 

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
 

  12

  嗚呼、隘路は正に此処に極まり、童貞も正に此処に極まる。

 お釈迦様は林の中のゾウの様に歩めと仰ったが、当人はリア充ではないか。何だこの野郎。

 

――お、怒ると人間、お、お腹が空くんだな。

 

 午餐を得る為、以て擱筆とす。

 (平成丁酉二月末日)