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はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

蟻の門渡り

  

  1

 私は私で、他人は他人。だから例え、自分がガラス瓶の培養液に浮かぶ脳髄が私の全てだったとしても、巨大なコンピュータの記憶回路が私の全てだったとしても、私は人間だ……云々。

 

 だから何だ、そんな事。

 並大抵の人間は、そんな事を言ったところで意味なんかない――。

 然し、そう思える程度の、言うだけの甲斐もない人生は、果たして、そんな事を言わねばならない程、惨めな凡人からすれば羨ましいものである。

  

 サルにはなりたくない、と本気で思ってみたりする。

 然し、そんな事考えている辺り、もう人としては結構終わっている。

 二十なんぼで大学の教授にでもなったならば、そんだけの台詞も吐いていいのだろう。然し、精々、高校を卒業した位で言っていいような、思っていいような言葉ではない。

 

 人が何であるとか、人生の意味なんて知るよりもまず先に、恥を知るべきである。

 然し、是が如何して人間、分からない。

 

  2

 振り返ってみると、人生は恥でしかない。生きている事、其れ自体が、恥である。其れを知れば、少なくともアナァがないとか、其の中に身を隠したいと思ったりしなくなるかもしれない。お母さんのスカートの中に隠れて居る必要もなかろうものと考えてみたりするのだが、如何で、洞窟の中に引き籠ってみるのも乙か如何か、其れは実際、経験してみた事がないと、分からない事かもしれない。

 

 生憎と、自分にはそんな経験もなければ、幾らか布団からも食み出した我が身の恥をしっかりと梱包し隠しおおせたも例もない。なので、爪先だけは常に裸体である。

 其れ故、露出狂の謗りは甘んじて受け入れるしかない。先っちょだけだから、と看過するには余りに鋭敏過ぎる小指の感覚は厄介なものである。だが、其れも事実と認めて、照れるしかない。

 身に余る光栄は店に行って特別に誂えなければならない。だが、其れも其れでイヤらしい話である。

 

 人は生まれながらに人で御座い、とふんぞり返る内は、人間、一体何様だと何処の誰から言われても仕方がないものと思われる。

 一体、いつからそんな人が誇れるだけの肩書になったのか――其れは一先ず、考えないでも構わない。人間である、という事、何ものかであるという事、其れを一々名乗る事に、何の甲斐があるのか。

 自分の名前然り、位階勲等は価値が在ろうとも、其れは自分のものではない。寧ろ、どれだけ価値が在ろうとも、己が所有に帰す事により、其れ等は使用済みの、二束三文の価値もないものに貶められる――というか、飽くまで尺度であって、其れは自分の伸長とか体重を表す何か特別な記号ではないのだ。俗的なものである。所詮、名誉も恥なんぞも。

 

  3 

 超俗的な人間は、恥も名誉も超越している。

 そんな「計量し難いもの」としての振る舞いは、割合、作為的に行えたりもする。襤褸を纏い、髭を垂らして、或いは髪を振り乱しても、其れは野放図な態度が世間の外聞を超越しているに過ぎないので、内面までは現し得てない。

 

 畏敬の念は、異なる次元の間で働く。だから、相手と同じ土俵、同じテーブルに座ってしまえば、忽ち其の胸のときめきは霧散してしまう。オフ会の作法は、日々の画面越しの付き合いとは勝手が違う。

 次元間の移動は、現実の拡張という形で行われ、拡大した其処での尺度に照らしてしまったら、もう其れ以前の遠慮では不十分になる。手品の種、一挙手一投足の意味は、知って仕舞えばもう其処に何の美しさも存在しない。あるのは技巧的な素晴らしさであって、美しさと素晴らしさは別物である。素晴らしい映像の美しさは、其れが如何撮影され、如何加工されたものだとか知って仕舞ったら、何処かへ蒸発してしまう。

 

 例え虚構であったとしても、意味の確定しない内は辛うじて担保されている美しさはなくなってしまう。

 ゴジラも貞子も、スクリーンの向こう側に居るから無敵なのであって、現実に現れてしまったらもうそんな事もない。

 

  4

 猿が裸であるからといって、一々怒る人もいない。

 でも、人を猿と呼んだりすれば其れは侮辱になる。其れは、猿という言葉が侮蔑の意味を有しているから、というよりも、自分が人間である、人であると「思い込んでいる」事を思い知らされるからではないか、とわたし自身は考えていたりする。

 猿を見て自らの恥を思い出す――そんな事があるとは俄かに思わない。けれども、自分が別にいつ何時、檻の中にぶち込まれる事がなくはない事を分かっていると、動物園に行く事が心苦しくもなったりするだろう。

 更に、そんな時に動物の声なんて聞いたら、愈々居た堪れなくなる。

 其れは、小さい頃に、言葉足らずで嗤われた経験のある人間程抱く傾向のある、ある種の懼れなのかも知れない。発音を笑われたり、声音を揶揄われたり、そんな経験が人間と動物の境界を愈々曖昧なものに感じさせるのかもしれない。

 すると、最早、気持ちとしては目の前の柵や格子は何の役にも立たなくなる。彼方と此方に何の溝もない。空堀も地続きである。向こうに居る馬や牛、象や家鴨と自分に何が違うものか。

 

 然し、不図した弾みでそんな夢想も弾け飛ぶ。

 突然目の前で行われる、放尿、排泄、etc……。

 

 北海道は旭川の動物園で見た、濁った黄色い湯の中で縦列を成した三頭のカピバラの、雪入り混じる小雨の降りしきる最中、声を上げながら代わる代わる交っていた光景を思い出す度に、私は自分が人間なのだと言う事を、嫌悪の情と共に確かめる。

 

  5

 ずっと激しく殴り続けいる自分は、同時に殴られている壁でもある。

 

 名誉のリストに死はもう疾くに記載されていない。だから、自分自身、木に登って其処からぶら下がる事も、自分の死に体の身体を山の頂に担いで据える事も、結局益々自分を苛む事になる。

 多くの人にとって、誇りなんてものはダニの死骸と大して違いがない。そんなものは「マイナスイオン」で分解してしまえるなら、如何にかしてしまいたいものなのだ。所詮其れは最早、積もりに積もった、爪や髪の混じった老廃物の蓄積でしかないのだ。

 

 今更、自分の書いたものを読み返してから、死にたくなってダム湖の畔を深夜に一人歩くよりかは、伊勢佐木町マクドナルドでプレミアムローストコーヒーを飲んで、セブンイレブン立川砂川町店の肉まんに齧り付いた方がずっと恥もかかないで済む。

 

 どうで自分の様な人間である。棺桶に入る前は、新宿駅の地下通路でリヤカーを牽いて蹲っていたりするのだろう。然し、きっとそんな懐には岩波文庫の一冊でも忍ばせているだろうし、相も変わらずコーヒーは飲んでいるだろうし、御茶ノ水当たりのお堀に浮かぶ事も決してないと思う。そうでなくとも、川﨑辺りの多摩川河川敷をほっつき歩いたり、歌舞伎町のポリバケツを漁る事もしやしないだろう。そうだと信じたい。そうあろうと考える。

 然し、思えばこれが自分の憬れた人間の姿なのだ。己が理想へと、自分は着実に近付いている気がする。然し、そういう気がする内は、未だ未だ修行が足りないのだろう。

 精々が所、是が限界である。