はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

成金チキンナゲッツ

 

 病気なのでひとところに止まることが出来ずに彷徨いている。

 アザートホース並みに退屈している。だが、インストゥルメンツが元気に賑やかししてくれている訳でもない。

 振り子時計の単調な音も結局、退屈である事には違いない。余りにも真面目過ぎる嫁は苦手である。

 

 故に気が違いそうになる。居た堪れず外へ逃れる。幾分懐が暖かければ幸いである。何処へなりとも気分に任せて遁走する。ただ、晩御飯の時間には帰らねばならない。空腹は絶対である。

 

 ネタに尽きると歩くのであるが、しかし結局の所、自分は机から遠ざかったに過ぎず、タスクそのものが存在し続ける限りは延々と私の仕事は中断されたままである。古今東西の例に習って、机か自分を窓外に放り出さねばならぬ。

 飛び降りたくなっても、生憎と高所は悉く立入が禁止されている。居室は二階で裏は茂みである。猫の盛り場に落ちて死んだならば、本物の狂人である。

 しかし、なまじっか、そんなに普段から狂態を晒しているかと言えばそうでもない。だから多分事故で済む。

 退屈で死んだならば、甚だ屑の極みと誤解されるだろうが、私自身の生まれと育ちからは人生の意義なんぞ、価値なんぞはその程度の指標しか見出せないのである。

 だから精々、野垂れ死ぬ口実を作る意味もあってもそもそと自分は道の真ん中を歩いてみたりする。

 

 散歩は果たして、クロッキー用紙と某バーキンのチキンナゲッツ10ピースを購入して毎度終了する。何を描くのでもないのに無駄遣いし、これにより、私の無聊は億分はマシになるが、後悔が伴うのは致し方ない。

 別に三鷹タリーズでも、立川のクリムトでも、構わないのに新宿のバーキンに行くようになったのは、偏に退屈故にである。儘ならない事も多いが、出来る所の行為も悉く退屈なれば、最早遠くへ逃れるより仕方がない。発想の貧困と嗤われようと、現に自分は貧しいのであり、そんな自分ではどうにもならないことを批判された所で言葉を返すべくもない。

 だが、この諸々の欲望が歩くだけでは遂に治まらなくなった時、強力な刺激を求めて奇行に走る事もある。

 この間は、マスタードを壜から掬って食べてみた。一口目は意外の刺激で、二口目にソウセージが欲しくなり、三口目にチキンナゲッツが欲しくなった。

 嗚呼、チキンナゲッツーー芳しきその香りの想像に負けてスーパーへ行き、冷食コーナーで安いのを見繕いレジへダッシュし、直ぐ帰宅してレンジでチンした。

 マスタードの魔法は二回まで続いた。しかし、最早魔法は三度まで続かなかった。コーヒーはもう常飲料になって久しい。刺激はないよりマシである。だが、最早心地よい刺激は初めてと比べれば鈍になってしまった。

 元々禁欲的に生きてきたつもりである。所謂世間並みの娯楽には手を染めていないお陰で比較的チープに済んでいる私の無聊は、しかしその貧困さ故に下等であり、惨めである。

 缶コーヒーの飲み比べなんてのもその例の一つである。ただし、下等であるからといって、賤しいという訳ではない。上等の中にも卑賤なものはあるだろう。しかし、汲めど尽くせど、一回こっきりのこの娯しみは長続きしない。

 

 触覚的な刺激は愈々私にジム通いを勧めて来る。

 或いはちゃんと毎日大学にも行けばいいのである。軽いハイキングで汗を流して飯を食う。

 理屈の上では其れで十分な刺激は得られる筈なのに、その為の高い学費を取っている筈なのに、何故か自分は貧しい儘である。

 なまじ、期待し過ぎたという事なのだろうか? 

 

 幻滅した、と何度かひとに言われた経験も持つから、あんまり自分が期待してハズした経験を殊更話したい気分にはならない。

 寧ろ、自分は実の所、がっかりしたような経験もそうないのだ。先に述べた通り、私は禁欲的に生きているから、そんな過剰な期待をしたりは普段しないのである。

 ただ、その分「お代わり」を所望する。何せ器が小さい為に、一遍に賄えたりはしないのである。

 

 百円二百円の買物をチマチマ済ませて其れで人生をチープなものにしているのは事実だ。しかし、所詮それは材料に過ぎなくて、肝心なのは私の人生そのものである。経費は安く抑えた方が得である。態々、時間を潰す為だけなのに、抹茶フラペチーノのトールを注文する必要を自分は感じない。日曜大工で用が済むなら業者に頼む必要も特にない。

 とは言え、自分で出来るからといって全て自分で賄おうという積極的な気持ちにもならない。ただ、何か測る際の尺度があって、それに掛けて彼此計算したりするのである。

 

 だが、なまじ自分の人生は極端に貧困なので単位が些か小さ過ぎて、みみっちくなりがちなのである。それもこれも、生まれと育ちの問題である。これもまた長短を併せ持つので、一概に悪いとも思われない。

 けれど、給料日にチキンナゲッツ50個を奮発して購入し平らげた時や、五玉豚骨ラーメンの替え玉を注文した時なんかは、流石に自分でもその貧乏性に嫌気がさして、店を出てから一人泣きそうな気持にもなった。

 

 本に関しても、友人の話を聞きながら、自分のみみっちさに悲哀を抱く。

 だが一方で、別の友人家族の月に一度の楽しみがファミレスでの外食であると聞いたら、それは大変いいことだとも思う。

 自分の計測器は多分に生育環境に適応したものである。この頃はつくづくその事を思い知らされる。

 別に自分はモンマルトルのキャッフェにもいなくても、セブンイレブンのコーヒーで十分寛げるのである。

 普遍的感性があろうとなかろうと、厳然と存在する否応なきヒエラルキーを憎む事もなく、ただただ嘆息するばかりの自分は病気である。欲望は水平に駄々滑り、羨望は憧憬へ、憧憬は