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はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

カレーにルー

 

 ルーのないカレーは、味噌のない御御御付けである。

 

 とはいえ、ルーさえポチャンと落とせば、取り敢えずはカレーっぽさはある。だが、カレーには具があったらなぁ、と考えてしまう。

  無論、具無しカレーというのも、考えられるには考えられるけれども、それは余りにも寂しい。それでは駄目だという積極的理由もないけれども、何かあれば、もっと美味しくなるのではないかしら、と考えるのが人情というものである。もとい、欲と言うべきか。

 

  西鶴先生曰く、人間は欲に手足の生えたものであるとか。もっとも、動物四十億年の歴史は、胃袋の進化の歴史であり、これに尾鰭や手足が生えて泳ぎ出したり駆け出したのが、今の動物の一派である。

  果てしない欲は胃袋からやって来ていると考えてもそう間違いない気がする。欲望は、目が美味しそうなものを見るから生まれるのである。だから、欲望の起源は胃袋である(多分)。

  当然、胃袋が進化したのが人間であるから、大層な脳味噌も、胃袋の付属品である事に違いはない。色々な機能が集約した脳だけれども、特に想像する機能は非常に重要である。

  想像してみて「これはマズイ」という事が食す前に分かれば、これほど結構なことはない。生憎と、実際社会はそれでも飲み食いせねばならない事も多々あるのだが、果たしてそれは脳味噌の持ち腐れとでも言うべきか。

 

  そんな胃袋の付属品、脳の拡張が進む昨今、それよりも何よりも、胃袋の拡張が進んだこの時代、電脳の海は生憎と単体では未だ人間の空腹を癒すにまでは栄養価のない代物である。

  だが、深夜の飯テロで腹は膨れないが、却って自分でも気付いていなかった身体のキャパシティに気が付いた人間は、モニターの前から離れて、或いは最近の事だから手に持ったまま、いそいそと誘い出された哀れな白火取の如く、深夜のコンビニの餌食になる。もとい、自分でも呆れるくらい沢山買い込んで、後悔する事になる。

 

 コンビニエンスストアに代表される21世紀初頭の現在の流通ネットワークは、良くも悪くも今次の時代の代名詞である。それと並んで、通販というものがあるが、現在は、この通販とコンビニのネットワークが地下鉄宜しく相互乗り入れする時代である。

  更にここに、古くからある人間というメディアが介在すると、事態は愈々複雑を極める。

  稍もすると忘れ勝ちだが、人間というこの二枚も三枚も舌がある生き物は、しょっちゅう嘘をついたり誤魔化したりいい格好したりサボったり何やら随分首尾一貫性もない出鱈目な行動をする上に、何かと言えば、時代の所為だ、技術の所為だ、社会の所為だと責任転嫁に遑なく、反省し、悔い改める事もせず、只管「アレってどんな味なのかなぁ......?」と妄想に耽る胃袋のネットワークなのである。共有される情報はと言えば、先ず「アレがウマイ!」「コレはマズイ!」「オイシソウ!」「ヒドい味!」と言った事くらいしかない。

  そんな胃袋のツイートのファボ、リツイートが伸びれば伸びるほど、何処かで誰かが過労で死んだりするのが現代という時代なのである(かも知れない)。

  閑話休題

  かのように、人間は自身を媒介項として、ネットの世界と現実の、ナマモノの世界を繋いでいる訳だが、此の距離は実に、脊髄の距離に相当しており、自宅からコンビニまでの例えば200メートルは、拡張された脳と胃袋の距離なのである。もしこれを、一個の生き物の身体で補おうとしたら、無茶苦茶大変である。それを人間という生き物は寄って集って巨大な身体を構築したといえそうである。

  21世紀の脳味噌的には、何だか知らない内に見えない世界が広がっている様に「感じたり」してる訳だけれども、そんな事考えながら食べてるファミチキはタイやアメリカから海を渡ってやって来てたり、コーヒーなんかは言わずもがな、遥か太平洋の向こう岸から金波銀波の波越えた「普段の味」であったりする。普段食べてるレトルトカレー、普段食べてる松屋の牛丼、何も何も、巨大な外部記憶装置に保存された膨大なネタ画像の、その一々のソースが最早何処から来たのかとんと分からぬように、今日日、生きてる人間にとり(ありがたい事には)、そのリソースが何処から来てどんな紆余曲折があったのかは、知ろうと思っても中々分からないように世の中というネットは出来ている。

  さてもさても、げにこの事こそ、真に讃えられるべき人智の偉業なのである。カレーのルーが如何やって出来るのか、それを知らなくても、カレーが食べられる。今夜のオカズが誰なのか、過程を知らずに消費出来る喜びは、鶏を此の手で締めずとも唐揚げの食える喜びと類の同じ喜びなのである。

  素直に飯が「美味しい」と喜ぶ事が出来るように、有史以来の歴史は殊、此処数百年の間に飛躍的に進歩し続けている。「御飯を食べる為に」「美味しい御飯を食べる為に」、そして「美味しく食べる為に」人類史は着々と発展し続けている。

  蓋し、人はルーのみに飽き足らず、人参とか玉葱とか馬鈴薯を入れたくなってしまうのである。胃袋の食欲は尽きる事がない。

 

「如何してお腹は減るのかな?」

  人類永遠の謎である。

ーー味噌にはダシを、スイカには塩を。

 

 

  所で、脳味噌の延長ばかり話してしまったが、最後に胃袋の延長の例について少し検討して擱筆としたい。

  先ず竃だが、これもある種の胃袋と考えるべきか、悩ましい所ではある。なので此処では傍に置くとして、代表的なのは鍋であろう。

  そのままではとても食べられたものではない、固〜い食材も、一晩コトコト煮る事で、よくよく消化のいい食べ物になる。レトルト食品も胃袋の延長にあると考えてもいいかもしれない。するとなると、電子レンジは如何なものか? 考えは尽きないが、キリがないので此処らへんで。