はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

かたち造ること

 

  一、

九段下の駅から北の丸公園に歩くまでの間の事であるが、友人と話す内に、自分は友人が立てたプランの枠を超えて、好き勝手に遊び始めていることに気が付いた。

 それが明白になったのは、旧近衛師団司令部庁舎、現在国立近代美術館の工芸館に立ち寄った折であった。

 「いつになくテンションが高いですなぁ」と、些か戸惑いながら友人が言ったので漸く自覚した程であった。

 

 興奮と驚きは常に想定の範囲外からやって来る。

 「今に来るぞ、きっと来るぞ」という、想定内に捻じ込まれた意外性は、北の丸公園の中で、六芒星の並んだ科学技術館の外壁を見掛けた時に感じた物であったが、其れと、司令部の威容を青空の下で目の当たりにした時の喜びは、異質の感覚であった。

 工芸館の展示を見た後、公文書館に行く予定であったのを、時間にゆとりがあるからと其の儘、砲台跡のある千鳥ヶ淵緑道を歩いて、眼下に首都高速道路とお堀を認めた時、或いは小径を通せん坊する、思い切り伸ばした腕で一抱えあろうかという松の巨樹に出会した時、こんもりと茂れる青葉の中にぼうぼうと燃えるように咲いたハナミズキの白い花群を認めた時や、思いの外小さかった砲台跡に立った時の感覚。

 其れ等は皆、地図に当たれば予測出来る所のものばかりであったか、といえば、否であろう。

 其れ等の発見者は唯私一人であり、案内をして呉れた友人が用意して呉れたものではない。

 

 当然ながら、其れ等は全く何一つとして私の為に用意されたものではなくて、他にある目的の為にか、整備されたものに相違ないのであった。

 が、然し其れ等を私は「借りて」我が景色としたのである。交番の花壇の薔薇の花を愛でたのは自分であり、堀に流れ込む淀んだ水に写った首都高の車を褒めたのも自分である。

 其の時、私は鑑賞者として其処に立ち、其れ等彼等を見て愛でたのである。

 松が目出度く有り難いのは、其れ等が本来、神聖な樹木であるからではなく、先ずは其の巨樹が愛でられる事が出来るからこそ、縁起も能く、尊重する事が可能なのである。

 

  決まり事は、形許り守ったところでも、其れがフリである事は屡々自覚される所である。

  では、フリではなくて、実際に其の意味するところを知る事は如何いう事なのか、というと其れは一言で言えば、其れに熱狂する事であり、妄動する事であるーーというのが、今度の経験を踏まえた上での見解である

 

  屡々、知り合いの人が、銘々各自の尊ぶものを「尊い」と呼ぶ感情が、久しく私には失われていた訳であるが、此の程、はたと気付いたところ、自分は寄り道をして、惑っていたのであった。

  幸い、今度は皇居周辺の地理名所を知悉した友人が着いていて呉れたお陰で、迷子に成らずに済んだものの、果たして、友人が居なければ私は大の大人でありながら、お巡りさんのお世話になって居た事だろう。そして屹度、神保町の小路にも入らなければ、神田明神の前祭の奉納神楽を鑑賞する事もなかったであろう。

 ゴジラに壊され、火の海になった、虎ノ門広場を左手に遠く望みながら、新緑の傘の下、木漏れ日のさんざめく千鳥ヶ淵の緑道を野郎二人で歩くのは、甚だ異様であり滑稽であるが、果たして其の実態は、燦々と輝く太陽と木の芽時の陽気に当てられて戦慄し興奮状態に陥った男と、そんな事になるとは知らずうっかり呼び出して仕舞った不幸な男が後を追うーーという、そんな有様であった。

 

  二、

 公園というものはタダではないのだが、其れが税金で維持されているとは知りつつも、或いは自分達の学費で賄われていると知ってても、学生や市民が図書館や博物館・美術館に縁遠い様に、公園もまた、基本無料という理由で、中々利用客が少ないというのは、全く市民権教育の敗北とも言うべきであろう。

 元来、市民の憩いの場であろう筈の公園や他の文化施設が軒並み赤字で、老朽化だ経費削減だ、問題を山積し、挙句に学芸員が事もあろうに議員大臣により「癌」呼ばわりされる現状を作り出した社会が、如何で市民社会である筈もなく、其の構成員も当然、十分な教養を持っているとも言えないのであるが、如此く大上段に構えれば部分を抜き出し、木を見て森を見ず、其の癖、全てを理解したかのように踏ん反り返る、知ったか振りの得意な連中が、息巻いて反抗してみせ、曰く「自分は馬鹿ではないから、態々公園なぞ歩かなくても、其の良さは熟知している」と、息巻くのは必定であろう。

 然し、彼等が知る所の「良さ」と言うものは、飽く迄も、 行政等が彼等に提供するサービスの質であり、彼等自身が見出した、創出したところの価値ではない。

 

 例えば、彼等は道の真ん中に松の木がドーンと聳えて居るのに出会した時、其れが如何してこんな所に生えているかと困惑し、説明を求めるのである。

 そして、特に自分達が「其れは正しい」「全うである」と思えない説明が与えられない場合、直ぐ様、「こんな邪魔なもの、退けて了え」と叫ぶのである。見上げて、其の大きな枝振りに感激する事もなく、幹の太さから、一体何れ位前から存えているのだろう、とも思いを巡らす事もしない。

 自ら積極的に、其処に価値を見出せない人間は何時迄も貧しい儘である。と言うのも、結局彼等はサービスを受ける為に、折角稼いだ財産を叩いて仕舞うからである。

 

 「私達をもっと楽しませてくれ!!」と思う人達は、時間やお金を惜しげもなく費やして、行儀良く並んで、炎天下、何時間でも待機する訳だが、果たして其れで得られた価値が、自分達の費やした価値を上回るか、と言えば決して上回る事はない。と言うのも、儲けが無ければ商売にならないからである。支払われる額は元値を必ず上回る様に設定されている。ギャンブルで儲かる事は決してない。

 

  楽しませて呉れるものの多くは、自分が其れを楽しんでいる錯覚を齎しているに過ぎない。酒やクスリの様に、酔わせて惑わせて翻弄する。態と揺らして、船縁にしがみ付かせ、恰も大冒険をしている「かの様に」乗客を楽しませる。

  だが、其れは結局、ごっこに過ぎない。当然、フリでも動揺させているのだから、其処で得られるスリルは本物である。然し、いつかは冷める熱である。焚き付けられたところで、元々湿気ている薪は暫くの間は燃えるかもしれないけれども、其の内、燻って、黒い煙を上げて、最後自然に鎮火して了う。

  工芸館に展示されている数多の精緻な名品の数々も、受け身の客が見るのでは、全く甲斐がない取組みである。興味を持って頂ければ幸いーーという、能く耳にする悲観的な台詞も、詰まる所、来る客の殆どが、美術館とかをガソリンスタンドの洗車機の様に、俗世の塵埃を洗い落として、感性を研ぎ澄ませて呉れる場所だと考えている内は、彼等は寧ろ、其れ等の神聖さを手垢で汚す位の事しか出来ない。

 

  三

  暖炉の火は、凍えた身体を温めて呉れる有り難いものだろうけれども、結局、其れが有り難いものなのは、薪あっての事である。薪は一人でに、ポンと其処らの部屋の隅に湧いて出て来る物でもなければ、結局、誰かが何処かの山から採って来て、運んで、割って、焚べて呉れなければ、暖炉は何の有り難みもないタダの窪みである。

  

 有り難いものは、有り難い由縁があるのだけれども、其の有り難みとは、詰まる所、見る人自身が其処に発見するより他ない。押し付けられた価値を墨守したところで、漆と卵殻で描かれた狐の屏風の素晴らしさは、有り難みは感じられない。

 ただ、此の感覚は見付けようと思って見付けられる様な類いの産物ではない。醒めた意識で見た夢は現実と変わらない。だから、此処で逸脱が必要になる。「想定外」の事態に自分を追い込まなければならなくなる。惑う必要がある。道を失う必要がある。ガイドが居ると、比較的容易であるが、一方で、能く知った人と一緒にいたりすると、初めて目にしたものも既知の範疇に繰り込んで仕舞う恐れがある。

 

 道に迷った其の時に、自分が迷子になったのだと気が付ければ、其の途端に、其の何か恐ろしい様な懐かしい様な、奇妙な喜びが目の前に立ち現れる。見慣れたものは何一つない。というのも、自分が何処に居るか分からなくなるからだ。

 此の時、何か道標を探そうとする内は、真底遊ぶ事なんて出来やしない。何かよすがを手繰る内は、心細さから解き放たれる事がないから、其の内半狂乱になって、レジャーどころではなくなって仕舞うのだ。

 

 此の恐怖を、「ついうっかり」忘れて仕舞った瞬間に、兆す感覚が「有り難み」であり、其れは「尊さ」である。

 

 人によっては、其れを魔と呼んだりもする。絶えず緊張状態にある人は、此の魔がさす隙がない。或いは、魔がさしたりすると、其れに圧し倒されて仕舞う怖さがあるから、其の代替物に安全に飲み込まれようとする。

 けれども、魔がさしてないので、実際は対象に有り難みも尊さも感じていたりしない。

 寧ろ自分なんかは、此の、錯覚こそが人を惑わせる魔である様に考える。

 

  四、

 千鳥ヶ淵を後にして、また九段下に戻って来た自分達は、神保町で昼飯を摂った後、神田明神に向けて歩き始めた。

  最早、予定とは随分、異なった道中を歩んで来た序でに、友人の思い付きでニコライ堂に寄り道した。

 神田明神では、神田祭のお囃子と雅楽の演奏、奉納舞を初めて目にした。着いたと同時に目の前で能楽堂のシャッターが開き、終わった時間も、引き揚げるにはいい頃合いであった。

  偶然であったものの流石に出来過ぎであると思ったのか、友人は頻りに自分の人徳のなせる所だと説いていた。自分は少なからず、其れに同調した。

 

 神社の境内には、「楽しませるもの」であるところの様々なものに溢れていた。境内の建物を初め、獅子舞が踊る御神籤とか、「ラブライブ! 」のポスターであるとか、「ごちうさ」の幟であるとか、何かと賑々しい場にお囃子の音色は不安定であった。

 聴いている自分には、次にどんなメロディが流れるか全く予想が付かない。どんな終わり方をするかも分からない。止むかと思えばそうではなく、将又、急に急ぎ駆け出し始める鼓の音には一々驚かされるものがあった。

 慣れて仕舞えば如何って事はないのかも知れない。けれども、飽くまで其の様に其の様に冷静になって仕舞う事は果たして鑑賞者としては適切ではない。此方も真剣に、惑わされなければならないと考えた。其れは、自分の見たいものを見るために酔うのでもなく、緊張から解放される為に態と油断して見せるのでもなく、相手に自らの意識を託して此方は只管、従う事であった。

 

 演者は、其の演奏や舞を献げる相手がある前提で執り行う。一段低い所で其の様子を見ている自分には、果たして其の相手は決して確からしいものとして普段意識されないものだから、目の前で繰り広げられる一連の行為は、ただ受け身で観る丈では、空虚である。と言うのも、実のところ、彼等は観客が目の前に居るのに、観客を相手に演奏しているからではないからである。

 勘違いした観客は、壇上の奉仕者が、自分達に奉仕しているのだと思い込んで踏ん反り返り、何やらしたり顔で彼是隣の人と喋っていたりする。或いは、彼等の「謙虚な」態度が自分達に向けられたものとも勘違いして、感激したりする。だが、其れは何れも誤りである。観客は自分の背後にこそ気を付けねばならないのである。確かに今、此処に居て、舞台に相対している自分達の背後に立つ、舞台の上の人々が見ている先にあるものを、目前の景色から見出せねばならない。そうする事によって、初めて、価値が創造されるのである。其れ以前になかった価値が其の場に生じるのである。

  別に自分は、奉納の舞等から何か神霊を感知した、と言いたいのではない。

 寧ろ、自分が見出した、創出したのは其の音楽、舞踊の背景である。其れは、能く批判される様に、自分の目の奥に写った風景の投影なのかも知れないが、そうであったにせよ、自分としては、偶然機会を得た舞台から、全く思ってもみなかった考えを自分の中に見出した事に対する驚きは、並一通りではなかったのである。自分の中に潜在的にあった欲望を認めた、といった表現は、正直、事実がそうであろうと、私自身は余り好ましく思わない表現である。例え、同じ事を表現するにも、其処に表現の違いがあるなら、其の差を重視するべきだろうと考える。

  

 果たして、其の奉仕するところのものが、或いは其の様子を通じて思い描くところのものが自分の欲望の輪郭をなぞったところのものであったにせよ、此の輪郭をなぞる行為の一致が、見える景色の差を踏まえても、一つの形式として成り立っている事に自分は少なからず、驚いたのであった。

 これが成立するのは、詰まるところ、自分は其処に集った人々が、今此処に無いものを創造する為であると考えた。其れは決して、能く世間で説かれている様に「思いを一つに」していたりしない。

 何が作られているのか? ーーという問いの答えは一様では無いだろうが、何をしているのか、という問うところの答えは明白である。

 

  五、

 表現は違えど、何を欲していようとも、今此処に無い何かを求めて為すところの様子を見ると、何やら堪えられない感情が込み上げて来る。

 自分にしてみれば、何でそんな、と思う様な事であっても、当人からすれば如何ともしようのない事というものは多々あって、其れ等を何とかしようと彼是迷う程に、愈々、訳が分からなくなって困惑する事も屡々である。

  そんな時に何か明らかな指針が与えられれば良いものだが、そういう幸運というのは滅多にない訳で、そう誰にでもある事でもなければ、大抵は諦めるより他なかったりする。

  其処で、もう一旦道を外れて道草を食ったりしていると、突然、何かが眼前に現れる。例えば、其れは松の木の内に見出されるかも知れないし、首都高の橋脚の内に見出されるかも知れない。ただ、何にせよ、確かな事は、其の内に見出した価値であり、尊さであり、其れを見出すに至った過程である。

 ただ、其の過程というものは、傍目から、醒めた目で見れば、きっと滑稽に違いなくて、というのも、忘れては同じところを行ったり来たりしている様に見えるだろうからである。一瞬、とても有り難く見えても、醒めた目で見れば、所詮、松の木、所詮、橋である。

 瞬間は持続せず、人は専ら其の残像を追う許りである。其の事から離れられる事は恐らく人間には出来ない。ただ、此処で諦めたり、受け身の姿勢に徹する事は、瞬間的には可能である事を忘れさせる。

 寧ろ、瞬間の頻度を努力こそ必要なのである。

 其々は不連続の瞬間であったとしても、其れがかなりの頻度で起こせる様になれば、人は恰も連続しているかのように錯覚する。其の錯覚も極めれば、最早連続しているのと区別が付かなくなるだろう。其の限界までの伸び代は未だ十分に人には残されているものと、私は考える次第である。