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はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

嫉妬の効能

 

  嫉妬について

 

 蓋し、嫉妬ほど始末に負えない感情はない、とは三木清も云うところである。

 嫉妬は、貧困からやって来る感情である。腹立たしさの中でも、取り分け遣る瀬ない怒りのひとつである。

 大抵の怒りは、諦めがつけば治るが、嫉妬の炎は其の「まあいっか」の一言を言おうとすれば余計に激しくなる。というのも、自分の不足を自覚すればこそ、持てる奴を羨むからである。

 嫉妬の場合は、寧ろどんどん炎上させるのが最良である。瞬時に感情を燃焼させてしまうのが最も無難である。というのも、どうせ火は燃えている間消せないからである。

 言わば、此の火は酸素が無い為に何時迄も燻っている、火に非る火である。故に、燃焼に必要な酸素を供給してしまえば、此の火は消えてなくなるのである。

 丁度、「スニッカーズ」のCMの様な調子である。腹が空くから別人に変貌してしまうのであるから、満たしてしまえば元に戻るのである。

 嫉妬という此の陰気な性質の感情は、誤魔化しが効かない怒りである。

 というのも、自分が嫉妬するものは、本気で自分が求めているものだからである。何か持っている相手が憎いのではなく、相手の手の中に其れがあるのが腹立たしいのである。詰まり、持ち主ではなしに、持ち物に対して怒っているのである。自分の手許にあるべきものが、他人の手の内にあることが許し難いのである。

 「金は天下のまわりもの」と、言いながら、何時迄も何処かの口座に眠っている金に対する怒りが嫉妬である。

 嫉妬は其の感情を抱く者、向けられる者双方に取って、厄介な感情である。「リア充爆発しろ」と言う方も、言われる方も不幸である。と言うのも、言う本人は、言うからには決して自分はリア充には転倒出来ないからである。

 嫉妬しないよう我慢することは人をより不幸な状況に陥らせる。「嫉妬する奴は卑しい奴」という観念は、徹底すると、人は表立って嫉くことはなくなるだろうが、自分に何が不足しているかも分からず、闇雲に現状をただ只管託つ許りで、状況を改善しようともしない、愚蒙な状態に人は陥ろうものである。

 無論、唯嫉妬するだけで、何が必要か自明でなければ、其の人は愚蒙である。だからこそ、自分の現状を知悉するにも、徹底して嫉く必要がある。卑しく浅ましく堕落する必要がある。

 其れは、何かに感謝するよりも重要であり、というのも、無い物を感謝する事は出来ないからである。先ずは何をか得べきである。故に堕落する必要あり、嫉妬の必要ありと言える。

 其の必要性は高く、直ぐにも行う必要がある。程度の差こそあれ、何かにイラッと来た時は、其の機を逃さず、直ぐにも行動する必要がある。何が自分に不足しているのか、分かるチャンスと捉えて考え、後回しにしないようにするだけの、寛容さを持つべきである。

 寛容は諦念とは全く異なる性質である。屡々、混同されてしまうが、同じ「まあいいか」という台詞も、寛容故か諦念故かで大きく其のニュアンスに差が生じる。後者には前者の湛える余裕が無い。其の微妙な自己の内部におけるニュアンスの違いが、嫉妬の有無として捉えられる。

 寛容であることが困難なのは、ゆとりを持つことが困難であるからである。詰まるところ、ゆとりを持てるだけの富もなく、貧しいから、寛容にはなれないのである。

 寛容であるように装う為に、諦念することこそ卑しい行為である。ブドウが食べられなくて落胆する方が、「アレは酸っぱい」とか言って何か知識を持っているかの様に振る舞うより、優れている。

 自分は不足しているという事を知ろうともせず、ただ言葉だけ聞いて知ったフリをして開き直る者は、知ったかぶりをするよりも卑しく恥知らずである。というのも、自分は何も持っていない癖に、丸で何か持っているかのように振る舞うからである。

 更にこれよりも恥知らずなのは、昨今に限らないかもしれないが、他人を其の様な卑劣な者として扱う事である。「リア充死ね!」とか叫ぶ人に同情する事、他人の持ち物に嫉妬している人を見て、自分が少なくとも其れより豊かで優れていると考える事こそ、最低の行為である。自分も嫉妬している事に気付ける内が未だマシである。恰も、自分には何一つ不足が無い様な調子で生きている事こそ、恥じるべきである。嫉妬は、また恥を知る手掛かりでもある。

 嫉妬は恥じるべきであり、慎むべき感情ではあるが、自分に何が不足しているか知る為にも、冷静に分析するべき感情である。

 例えば、いつになく他人に対してヘイトが溜まる時には、相手の何に対して自分が気になっているかを分析し、何に嫉妬しているかを知る事が出来れば、無用な諍いは避ける事が出来る。そして、案外其の原因が、寝不足であったり、栄養不足であったら、其の不足を補えばいい。ただ、其の不足を補う事が容易ではない場合が殆どであるから、嫉妬というのは甚だ始末に負えないと言えるのである。

 然し、其の場合、実際に始末に負えないのは、如何にもならない状況である。其れが責任転嫁であると他人から責められようとも、だからと言って、他人の財産や配偶者を横取りする事が許される筈もない。だが、そう暢気な事を言ってられるのは例外的事情においてのみである。

 

 嫉妬の感情を分析した後、そんな暢気な環境から離れて豊かになろうと、寛容になろうとするか、或いは現状に留まって諦念を憶える努力をするか。其処から先は最早個々人が夫々考えねばならない事である。夫々の価値観に依って決断すべき事柄に、ああせい・こうせいと他人が兎や角口を挟む謂れは何処にもない。相手が何かを仕出かしたら自分に害があるとか、そういう理由で止めさせた時も、相手の価値観には頓著した事にはならない。

 「汝自らを」求める限りにおいて、嫉妬は拗らせるべき病である。持てない自分を恨む人は、嫉いて妬いて、焼かれるべきである。

 自分には無い物を持っている他人を恨むだけで満足する程度の人は、なるたけ嫉妬しないよう、耳目を塞ぎ緘黙するべきである。