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はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

「神対応」

 

 神対応は、人を人として扱わない。対応する側は、相手を神として扱うからである。

 甚だ失礼な話である。一方で、神対応を受けたとして、相手を称賛したりする人は、自分が神になったと勘違いしているのか、或いは、目の前にいる人が神である、と感じたのかも知れないが、果たしてそんな軽々と人の手による仕事を、神の御業と平気で呼んでしまうのは全く軽率であろう。ズボンは木に生るものでもない。

 どれだけ立派で素晴らしい仕事も、全て人の業である。自然を称揚し、人為を悪と呼んだ所で、人は電気失くして生きられないし、何処か遠く自分の住所から見えない所に発電所は在るのである。

 

 あなたは神だ、と褒め称えれば、神として振る舞う事を相手に強いる事である。神対応を行えば、双方にとって負担となる。其の場に居ない神を巡って、其の役を演じる事を、お互い相手に強制させ、強制される。

 人は何かを祀り上げる事が出来るが、祀られる対象である神として振る舞う事は出来ない。神対応をする事により、相手に神として振る舞う事を欲するのは人であるが、果たして他人に期待し得る理由を持つものは何処にもいない。

 ただの人が他人に何か求める事は、分不相応である。神がどの様な事をしたかは、神話の語る所である。凡そただの人には出来っこない事ばかりである。人間の分際で、神の如き態度で他人に接すれば、其れ相応の報復されて然るべきである。

 人間には神の所業の一つにも、その対価を支払う事も出来なければ、受領する事も出来ない。

 

 神ならば、此の位の仕事は容易であろう、と相手を神として祀る事で、人として相応しい地位から追い落とし、また、何か不都合があれば、人の分際で神を気取ったペテン師だと迫害する。そんな資格を持つものは人ではない。

 よかれと思って賛辞の積りで寄せているのかもしれないが、他人を神と呼び、自分勝手に理想や幻想を投影して、義務を背負わせた責任を全うし得るだけの能力も持たないのに、ただ相手の不甲斐無さを批判して、幻滅する振る舞いが許されるのは、人でなしのみである。

 

 態々自分から人である事を辞めたいのであれ、他人を巻き込む謂れは何処にもないとされる。

 通り魔を批判する口が、誰かの仕事を神対応と呼ぶならば、それが素直に、自分の欲望を満たしたいが為に、相手を、木偶や藁人形、木や紙で出来たお札の様に扱うのだ、というつもりで、「神対応」という言葉を用いるのではない限り、矛盾である。自分が神として祀り上げられたい、或いは誰かを神として祀り上げたいからと言って、他人に干渉する理由には毫もなりやしない。

 人間は、所詮人間である。