はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

それいけ! ルサンチマン 【月に行く道程(1)】

 

  1

 

 「私を月に連れてって」

といえば、相手がその沽券にかけて送り届けてくれたのも今は昔の話。

 別に、そう意地はる理由も、よくよく考えてみたら特に無し。月に行って何になる。別にチーズの塊でもなかろうが。

 

 大金塊が埋まっていようとも、それが誰かの金時計にならなければ、採算も取れない。

 火鼠の皮衣、燕の子安貝、蓬莱の玉の枝の時代から、サンプルリターンは当然の事、要は「月へ行く」のは相手の覚悟を試しているに過ぎず、所詮は其れが目的ではない。

 

 手段としての有人飛行なんて、其れ自体、意味が無い虚しい行為である。

 そんな骨折りするよりも、安物のベッドの上でギシギシ遊んでた方が余程楽しいであろう。

 「打上げ」の瞬間の高揚が、仮に開発者達にとって最高の幸福であるとしたならば、多分、人類は決して月面に到達しなかった筈である。

 問題は常に「如何に解決するか」なのである。打上げたはいい。問題は其の責任を如何にして取るかーー其れのみなのである。

 

 本来、月旅行者が試すべきは、覚悟でなしに相手の能力である。

 無論、当然のように、中には其の相手の能力を試している人もあろうけれども、問われた方が察しの悪い輩であったら、トンデモナイ目に遭うかもしれない。

 「月に行きたい」とか、妙な事を抜かす気持を斟酌せず、取り敢えず、行きたいと言うのだから、行かせてやったが、其の所為で大いなる竹箆返しを食らったーーという、『理不尽な目に遭った』人の話は枚挙に暇がない。

 だが、好い加減、学習するべきなのである。そういう無理難題を吹っ掛けて来る得体の知れない連中と関わりを持った人の物語には、必ず不幸な結末が待ち受けているのだ、と。

 

 不幸にして、うっかり関わりを持ってしまったが為に、人が負うた目は残酷なものばかりである。ある者は飼い犬に噛み殺されて、またある者は文字通り、腰の骨を折って敢え無くなってしまった。

 しかし、何となれば、不幸だと同情されるのは、其の犠牲者では無く魔性の者である。其処に、同情を寄せる人間の傲りがある。翻弄されているのは己なのである。

 

 相手は当然だと思っている。自分が其れだけの要求を課して、漸く相手と自分とが対等だと考えている。其処には決して、相手に対する敬意とか、配慮とか、労わりとかは微塵もない。

 其の癖、自分では空も飛べやしないのである。精々、待つ身は憂いもの、とか宣って寝床でゴロゴロ転がっている位が関の山である。

 

 そんな奴の要求を、何故そんなに叶えてやらねばならぬのか。

 ただ、其の理由は、開発者の裡に秘められている。

 

 

  2

 

 寝ている奴を叩き起こして、夜中窓から満天の星空へスウィングバイしなければならない、と人を駆り立てるのは、強迫観念であり、罪悪感である。

 そして、其の罪悪感は、本来なら目の前にいる、寝ぼけ眼のオタンコナスに向けられるべき怒りが素になっていたりする。

 

 相手に対する怒りが、深ければ深い程、相手は望んだ遠い所へと、高く、高く、放り投げられる事になる。

 地球の重力圏を抜けるには、かなりの怒りが自分に向けられなければならない。其の為には、足場となる連中には存分に、憎まれなければならぬ。

 

 本心から言えば、そういう過大要求をして来る連中は、「棒ほど願って、針ほど叶う」を地で行く連中である事が大半である。

 「どうせ、出来っこないもの」と、端から期待もしていなかったものだから、いざ、舞い上がってみたら、受身が取れずに地上へ真っ逆様に失墜する。

 そして、そんな、相手の無様な姿を、見たいとも思わないのが、人情というものである。

 ならば、月とまでは言わず、火星でも木星でも、何となれば、最寄りの恒星まで送り届けて遣ろう、とするのが、真に之甲斐性と呼ぶべき行為であろう。

 

 然し、其れでも此の行為が、本質的に虚しい行為である事には変わらないのである。

 何故なら、行為が目的で無しに、相手への挑発の、報復の、手段となってしまったからである。

 人によっては、はじめから、宇宙に行くというのは口実で、相手と丁々発止やり合いたい欲望が、当人達をして、月に向かわしめたのだ、とか考えてしまう事もあるだろう。

 成る程、確かに其れは一理有るかも知れない。 けれども、其れでは益々、虚しい許りではないか。

 

 「月に行きたい」とまで、憂しと思えば此の世を恨む気持が、手近な宇宙航空開発研究者に向けられたのかも知れない。

 毎日何も変わらない、退屈な、地上での生活しかない「ココ」から何かの弾みで遠去かりたい、と思う欲求が、天井のシミを眺めている間にジワジワと胸の裡に広がっていったのかも知れない。

 今現在の境遇に対する、憎さ余って何気無しに、揶揄い半分に言ってみたセリフを真に受けられた日には、当人とすれば、そんな些細な一言で、何時迄も続くかのように思われた此の「日常」にピリオドが打たれるとは、全く想定の範囲外の事であったろう。

 

 失言とは常に予想外で、想定外の反応を引起こす。軽弾みな一言は、注意力散漫な時に呟いてしまい勝ちである。

 

 そんな、不幸な事故を起こさない為にも、「ゆとり」は不可欠なのであるが、此の大事な余暇も、其の過ごし方を知らねば、結句、甲斐のない時間になってしまう。

 旅行に行った先でも、見知らぬ天井に飽きてスマホを弄り始めたら最後ーーと思って、間違いない。 

 「ゆとり」は時なり。時は金なり。故に「ゆとり」も金なれば、其の"使い時"も往往にしてあって然るべきだろう。

 

 折角の財産も、然るべく、其の使途を弁えた人でなければ、持つ事も難しい。如何に所得が倍増しようと、最低賃金が上がろうと、其れで勝ち得た財産を運用する術を持たねば甲斐がない。

 ただ、何に価値を置くかは人夫々というのも確かである。

 然し、「他の時に出来無い事」だから、休みの日にしよう哉、という理由で何か手をつけるのは、聊か使い方としては勿体無い気もしないではない。というのも、其れは決して其れが「したいから」するのではないからであって、詰まりは消極的な動機に過ぎ無いからである。

 

 

  3

 

 「何の為に生まれて、何をして喜ぶ」というのが分からない。其れが困って、其れが悩みだ......。

 

 甚だ贅沢な悩みーーと、今次言えなくもない。

 だが、果たして、此の位の「ゼイタク」も自由ならぬ程に余裕ない状況というのは、甚だ貧しく、切羽詰まった状況であると言わざるを得ない。

 

 真に、人間にとっての幸福とは何ぞや、と考える暇も無しに、何の己の経済的発展だか知れたものではない。

 元々が貧しい状況からのスタートだったからとはいえ、果たして何時迄も、昔からの習い性で考え事はしない癖を直さないというのでは、圧倒的成長も無駄な骨折りである。

 

 また、実際にも余裕が無いにも拘らず、其の不安を紛らわす為に、矢鱈状況が改善しているかの様なスローガンを掲げる一方で、語気を荒げて不平不満を述べる代表者に対して、

「根も葉もない噂話を言い触らして人心を煽り、世の中に無用な緊張を齎している」 

等と、自分の事は丸で棚に上げて、いけしゃあしゃあと捲したてるのに忙しい人々の、印象操作も、また、詰まる所、要らぬ御節介であろう。

 

 斯くある事が幸福である、と言う様な事を未だ人々の納得する言い方で提示し得ぬ内は、当分の間、何方の努力も水泡に帰すだろう。

 世の為、人の為、というのが、結句建前として、口実に過ぎなくならざるを得ない所以は、何方の幸福も受け入れられていないからであろう。

 

 そんな「誰の口にも合う」ものはありもせなんだ、というのが今日の通説であり、多分、今後数世紀の間は、変わらぬ合意として広く世間で共有される事だろう。

 だが、世は徒然に変化し、何かの弾みに根底からひっくり返ってしまうものである。何も悪い方許りにでは無いだろう。

 或る者にとっての不幸が、我が身の不幸である筈もないのだが、如何して人は他人の不幸に無関心でいる事を善としない。其れと言うのも、いづれは自分が困った時に、顧みられないと不幸であるから、という消極的な理由からに其れは過ぎないのである。積極的に、隣人に手を貸す理由が見当たらない内は、誰しもが納得する様な幸福なんて定規は見付かる筈もないのである。

 

 美味しい話には裏があり、見ず知らずの人が、何か素晴らしい物を自分に故もなく呉れる、という事は先ず有り得ない。

 況してや、自分の顔を千切って渡すものに、怪しいものではない可能性は、万に一つも存在しないーー。

 こういう「偏見」に満ちた人類の約三、四千年の歴史に於いて、何が幸福か、という問いは余りに難解であり、故に二十一世紀初頭の現在に於いては、ネタとして消費するより他に仕方のない有様が続いている。

 

 自分の望みも分からぬ内に他人の願いを知る事も出来ぬであろう、と考えるのは強ち悪手でもなかろうが、其れだからといって、何ら自ら考えもせずに、只管相手の機嫌を損ねぬ様に服従するのみが選択肢、と信じ込んでしまうのも、何とも愚かしく嘆かわしい話である。

 

 「月に連れて行け」というので、宇宙空間に放り出したーーというのでは、あんまりに乱暴な話である。

 其れでいて、何か其れは、自分から惜しみなく奪ったのだとか抜かすようであれば、知ったか振りも大概にせよ、と言いたくもなるのである。

 誰も何も、奪ってもいないし、与えてもいないのである。ただ、其れは形式だけ見れば、彼方のものを此方へ、此方のものを彼方へと移し替えたに過ぎない。

 

 肝腎なのは、そうする事で何が増えて、何が減ったか、という事であろう。

 其れはただ、動き許り見ていても分からない事柄である。

 

 

  5

 

 月に行く或いは月に連れて行く事が幸福なのか分からなくても、いつかきっと、答えを告げられると、何の努力もせずに信じられる程に人は単純ではない。ただ、只管何もしなければ、有るのは沈黙許りである。

 

  努力して漸く何かそういう期待を維持し続けられる事を幸福だと考える事は論外としても、期待する許りでなしに、自分で何か考える事をしてみる事は、何もしないで只管待つ身であるよりかは、一寸は問題の解消に役立つのではないか、と考える。

 

 然しながら、ともあれ、此の様に「自分で考えてみる」事は、稍もすれば、其れこそ、此の世で一番、恥ずかしい奴として世間の嘲笑の的になる危険が伴い、挙げ句の果ては袋叩きに遭う可能性さえあるので、各々十分覚悟した上で、実践する事が望ましく思われる。

 然し、何の途、どんな努力を尽くした所でも、一切虚しさに併呑されてしまう様ならば、多少の危険を冒してでも、月に連れて行く前に、或いは月へ行こうと思う前に、其の道程に於ける幸福について一考する価値はあるだろう。

 

 地上に立てば、月は随分と高い所にあるように映るが、実際、巨視的に捉えると案外、月と地球との距離なんて大した事は無かったりする。

 

 

  永らえば またこの頃や しのばれむ

  憂しとし見し世ぞ 今は恋しき

 

 何ぞ、考える事は無意味と思われ勝ちではあるが、果たして無意味と見做される物事は、対して意味有ると思われている物事の価値を支えていたりするのである。

 

 思い早まって、「月へ行きたい」「連れてって」という前に、一服するのが重畳である。

 何も何も、事後にくゆらす許りが嗜みではなかろうが。

 

 

(続)