はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

カバン

  何かと言えば誤解され易いのだが、私は本好きではない。読書は好きでもないし、嫌いでもない。必要があるから、好ましいから読書するに過ぎぬ。学業が好きという訳でもない。ただ物を知らないというのが恐ろしいから勉める許りである。


  本なんて重くて嵩張って、おまけに高くて扱いも面倒臭い。自分で光もせず、夜や雨天の時には読めず、鞄の中でへし折れたりする。安くもないのに重さに耐え兼ねて、鞄のベルトや金具が弾ける事もある。既に四、五個は駄目になった。腰や背骨に掛かる負荷も並ではない。
丈夫な鞄を買う金もなければ、高価な本を其の時其の場で購入出来る現金もない。だから、索引のない、劣悪な書籍を何冊も抱えて歩かねばならなくなる。貧乏人は学問さえ許されぬ。

  貧乏人にとって、最大の敵は身内である。
  そんな役にも立たない勉強の真似事なんか止めろという。其の癖、自分達は何かと言えば骨休めだと抜かして潰しも利かない買物をしてのうのうとしている。
そんな風だからいつまで経っても貧しい儘なのだと言ってやると逆上して、胸倉引っ掴みながら、「誰のお陰で生きてやがる」と唾き飛ばしながら叫んで来る。
  誰のお陰と言えば、詰まる所、其れは斯様な人間でも妻子を持てる様に計らった、何処かの誰かの情けだろう。或いは、所帯を持っていれば、早々仕事を放り出し、逃走を図ろうとは考えるまい、という打算の上での取り計らいであろう。蓋し、社会的信用なぞは、動かないことの価値である。儘ならない程に信用は増す。融通が利かず、他では使い用がなくなる程に、其れは「掛け替えのないもの」として重宝される。誰も始めから、そう潰しの利かないものではないのだし、態々身を粉にして不自由を蒙ろうとする者もない。だから、そうせねばならない理由を付けて、難癖付けられるようにお膳立てをする。
  縁だの絆だの、伝統だの、そんなものには端から値打はない。牛の手綱を1000万円すると勘違いするバカもいない。

 

  鞄のベルトが引き千切れても、懲りずに其れを担いで歩くのは、何も本が好きであるからではない。
  今時金持ちは手ブラである。大きな袋を幾つも提げて手放さないのは、新宿や八王子のホームレス位である。ニューヨークのホームレスに肥満が多いのは、偏った食生活が原因であるというレポート記事を昔読んだ事がある。物持ちが富裕である、というのも今や昔である。
 

  無駄や時間や骨折りをしない為にも、学問は必要である、と説くのも阿呆らしい。初めから、健康を気遣う志向もない人間に体調管理の効能を「納得」して貰うには、先ずは病気になって貰い、其れから快復して貰うのが一番手っ取り早い。だが、ずっと病気で其れが常態化している様な人には、健康こそ異常であり病気である。

  然し、病気の人は健康である事が如何いう事か知らないから、不幸とも言えないのである。飽くまで不幸とは、健康という幸福を知る人しか知らない感性である。
  後悔先に立たず、というが、後悔するにも一刻の幸福感は必要である。

  読書は幸福でもないし、不幸でもない。何となれば、期待である。吉と出るか凶と出るかは、考えても分からない。或る面で賭けである。
  然し、読書の興奮は醒めている。其処に娯楽的要素は少ない。何故なら不安から、自分は本を手に取るからである。借金返済の為に馬券を買う様な気持ちで本を買う。其れで我が意を得たるとしても、翌日には肩凝りもぶり返している。此の頃の空気は、悦に浸るには余りに生微温い。