はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

『永遠平和のために』(1)(紙震楼雑記)

 (1)

 カントの永遠平和論を読みながら、何か書こうかなと思って一年が経とうとしている。

 いかんせん、筆が遅い上に、生活の平穏が常に刀の刃を渡るような状況だから、丸で取り組む余裕がない。その癖、毎日コーヒーは飲んでいるが。

 

 毎日手柄杓ならぬハンドドリップでコーヒーを淹れて吞み下す。その内に新聞で、「飲み過ぎ注意」の表示が出たので読んでみたら、一時期の自分は、殆ど毎日、致死量を鱈腹呑んでいたらしかった。

 以前にも、他人から注意されて調べた時には、まさか100gが液体の目方とは思わなかったので、平気でじゃぶじゃぶ呑んでいたのだが、いやはや恐ろしいものである。

 

 世に言う健康法は試す気にはならないが、病気になる法を実践する程の酔狂人ではない。

 とはいえ、流石に恐ろしくなって来たので、運動がてら散歩の途中で、駈歩するようになった。ジョギングというほどのテンポでもない。

 しかし、その程度でもするだけ益しという話なので、日に何度か走っている。

 

 永遠平和というのはややこしい概念で、というのも「永遠」も「平和」も言葉はしょっちゅう見聞きする所為で、既に自明のことのように稍もすると等閑にしてしまうからである。

 然し、永遠も平和もふわふわとしたイメージなら容易である。というのもいづれの概念も、消極的には導くことが出来ると考えるからである。

 

 現実と虚構の関係は、彼方と此方位の、其の時々によって入れ替わる。

 人によっては、永遠平和が、或いは現実が絶対的な価値として、到達点として捉えられているかもしれないが、此処では別にどんな世界が好ましいという話をしている訳ではないので、価値についての話は割愛する。

 ただ、リアリティの話はこれからする話においては重要である気がする。というのも、其れは距離感の話と繋がると考えるからだ。

 

 (2)

 Wi-Fiが繋げないものだから、仕方無しにラジカセを点けて、テープを流した。ケースラベルに「中森明菜」と書いてあったのに、途中から回し始めたら、何故か美空ひばりの『真っ赤な太陽』が流れ始めた。其の次がシナトラの『カム・フライ・ウィズ・ミー』だった。

 丸で出鱈目である。

 

 自分は決して懐古趣味者でもない。そんなしょっちゅう、「クラシック」と呼ぶに値する物が出る筈もなく、また、其れが世に出た瞬間にはまだ、作品がクラシックーー名品かどうか、分からないものである。

 偶々書店や雑誌で「これは」と思っても、三年くらいは様子を見、其れから実際買って読んでるようにしてると、当然、足並みに遅れを取る事になる。

 其れくらい、世間の動向なんてのは曖昧なものである。向こう三年、五年くらいの視野が欲しい。其れこそ、十年二十年のスパンでブームを維持しようと思えば、瞬間的な高火力は必要としない。だが、ひたすら根気がいる。石の上にも三年、『みーまー』にも十年である。

 

 よく身もせずに飛び乗ったバスがうっかりトンデモナイ行き先で、後から慌てふためくのは宜しくない。後で振り返って、「何であんなもん......」と思うような買い物はしても損である。

 アスナロ的精神では、結局何ものにもなれやしないだろうが、何かと急かせても、苗を枯らす事になる。「助長」というのは元来、そういう諺である。

 カントの永遠平和論も今や古典ーークラシックの域に入るのだろうが、しかし、彼此、此のブームは随分息が長いもので現在も細々と進行中である。其れこそ、美空ひばりやシナトラ並みに人口に膾炙しているものと信ずる所である。

 ただ、あんまりに流行り過ぎていると、おいそれと其れについての感想を述べようという気にもならず、ついつい気後れしてしまうのも、成る程、共通している。

 

 此の頃、古本屋で昔、流行ったのだろう新書類を100〜200円で買い漁っている。すると、其の時期毎に、其れがどんなブームを惹起したのかなんとなく読めて来るのである。

 バッハや古典音楽が何時頃流行ったのか、とか、そういう時代毎のブームが分かると、其の前後に流行った他ジャンルの作品との影響関係も分かって、其れが更に、二十年、三十年、と世代間の相関が見えて来ると、愈々面白い。

 トリビアルな話の種として扱われがちな年代記的な知識は、ハガキ程度の断片で読むよりも、矢張り反物であったずっと面白い。

 

 (3)

 カントの永遠平和論も、古本屋の棚に100円で売られてる位に流行っている本である。

 しかして其れらは、大抵の場合、世に言うオカルト本の類と同じ扱いを受けていると言っても過言ではない。「ノストラダムスの大予言」はミレニアム限定のイベントであったが、果たしてカントの永遠平和論は、いつでも使える終末論として、しかも「カント」というブランドが、其の娯楽の下らなさを程よく隠蔽してくれる。

 其れならば、何も永遠平和論でなくとも、『立正安国論』等でも良かろうものだが、果たして其れ等はとっくに論じられていて、新参者が彼此言うのは気がひけるーーという、またしてもクラシック趣味にありがちな、妙な気遣いが世人にカントを選ばせる動機であろう。だが、煎じ詰めれば、其の「無難さ」は、明治大正の頃より続く『カントは訳が分からない』という、恥知らずな偏見の陰に隠れるから得られる安全であって、自分から態々そんな本気で自分がバカだと思っているのでもなければ(多少とでも勉強する気があるなら)、何も「何でそんなに珍重されるかよく分からないけれども、持ってたり読んでたりすると頭良さそうだから入手してみよう」と真似して格好付けようとして失敗した者の真似をする事もないのである。

 

 ノストラダムスだって、予言ばかりが注目されて、丸でそこ等へんの山師みたな扱いがされてたりするのかもしれないが、医師としての業績などは、非常に興味深いのであるが、しかし昨今、ノストラダムスの名を口に出せば、何かと言えば嘲笑されもするので、自分は滅多に話にも取り上げない。

 何となれば、今次、此の「永遠平和」も随分、怪しからぬ響きを伴って世間一般に蔓延しているので、気がひける。これについては、自分の言いたい言葉はほぼ、ポプ子が述べてしまっている。別に此処に敢えて書いてもいいのだが、自分は何も、其の台詞が言いたいが為に、普段からお膳立てして生きている訳ではない。

 

 自分は決して、そんなつもりがなくても、言葉や台詞に纏わり付いた印象が何もかも邪魔をする。

 仕方がないので、自分で何とかまどろこしくとも、そうした先入観を惹起しないような言葉遣いを選ぶのだが、これが何とも手間であり、余計である。だが、本当に余計なのは、世に流布している印象の方であって、更に其れは偉大な先人が残したのではなく、後世に付けられた無数の余計な注釈から生じたものである。

 自分で先ず何かものを考えようと、先ず、道具である言葉の手入れから始めたはいいものの、何やら掃除してみれば、其れこそ年末の大掃除並みにギョッとする。

 其れはひとえに俗語で物を考えようとしているからだろうが、果たして其れは自分の好きこのみで選んだ事であるから然して苦しくはない。だが、此の頃は、どう足掻いても「所詮、此の程度か」という悲観が浮かんで来たりする。本式の道具を揃えて取り組んだ方が、矢張り正当である。俗語を用いるのは邪道である。

 

 然し、邪道だからこそ、高が知れているからこそ愉快であるとは言える。何処迄突き詰めても、此の『永遠平和』論は正当な評価を受けないだろう。然し、だからと言って不満はない。寧ろ当然である。

 筆者が此処で目指すところの文章は、精々中学生が初めて読むラノベ程度の価値である。其れが切っ掛けで自分で原典を手に取る切っ掛けになりさえすれば其れで十分である。

 寧ろ、ラノベや漫画の意義は、そうした原典に興味を抱かせる所にあると考えるので、其れ単体の価値というものは非常に小さいのではないかと考えてしまう。取っ付きやすい手掛かりであって、何時迄も其処にぶら下がっているのは不適切だろう。物語は現実の鏡像として、再び読者に現実に対する関心を惹起させてこそ、意義がある。ガイドブックの地図を眺めていても目的地に行ったことにはならない。

 

 

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