はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

心よ原始に戻れ(1)【私的大砲考(1)】

 

 * 念のため、続きモノです。コレで完結する訳じゃありません。悪しからず。

 

  1 

 陸軍で頭の古い人のことを「青銅砲」というが、その青銅砲は鳥羽伏見、西南、日清戦争というころの大砲だから、とても古いものである。日露戦争にも一部では錆の浮いた青銅を引ずりだしたこともあったようだが、いま時世界中どこを探しても、そんな大砲は目にあたるまい。

 こう述べるのは、当時歩兵大佐であった櫻井忠温(1879-1965)である。元記事は、昭和2(1927)年6月発行の雑誌『太陽』(博文館) 所収の『弥助砲時代から』である。

 この博文館創業40周年記念増刊「明治大正の文化」は中々読み応えのある読み物であり、櫻井他、パッと目につく限りで、今でも名前の知られている有名どころを挙げれば、三宅雪嶺水島爾保布内田魯庵、山川均、奥むめお岡本一平等が寄稿している。雑多といえば雑多だが、其々の記事が単体で読み物として十分な厚みがある為、奥付にある編者のコメント通り「なるべく多くの人に読んで欲しい」一冊である。(因みに、この号に限って販売価格は特価で2円、特製版は3円とのこと。取り敢えず、当時としては、結構お高い)

 伊予松山出身の櫻井忠温(ただよし)は此の記事を書いた3年後の昭和5年に退役している。(最終階級は少将) 日露戦争に従軍し、旅順包囲戦に参加し重傷を負うも、帰還後療養中に執筆した実録戦記『肉弾』を発表(1906)した所、これが大ベストセラーとなり、所謂「戦記文学」の嚆矢となった。大正13年からは陸軍省新聞班長を勤めていたというから、此の記事を書いたのも多分、その地位にいた頃だろうと考えられる。

 

 さて、櫻井によれば、タイトルにある「弥助砲」とは、大山弥助(巖)が作ったとされる初の国産の大砲のことだそうだ。『十二斤臼砲』『長四斤砲』がそれで、櫻井はこれらを大山の独創による、としているが、前者は幕末に輸入されて戊辰戦争の際に活躍したオランダの「12ドイム臼砲」を元にしており、後者はフランスから輸入した「四斤山砲」の独自改良版であるという。『弥助砲時代から』の冒頭で紹介された「青銅砲」というのはこれらの時期に国内で製造された青銅製の大砲を指すらしい。

 『弥助砲〜』に紹介された文久3(1863)年の薩英戦争の逸話として、イギリスの軍艦が撃った大砲で伝馬船が沈められた際、載っけられていた大砲だけが波間に浮かんだーーという話から分かるように、青銅砲の出現以前には木製の大砲もあった訳で、これは『花火の筒のような竹の箍の嵌った大砲』というから、なんとなくイメージとしては、「ドンキーコング」に出て来る樽大砲みたいな感じなのだろうと推測される。

 

 果たして、記事は第一次大戦後の記事でありながら、ある意味で当然かもしれないが、専ら幕末から日露戦争にかけての時期の記述が大半を占めていて、正直な所、時代錯誤の感も甚だしい気持ちもなきにしもあらずだ。がしかし、飽くまでも此の冊子(というには余りにも分厚い)が「明治大正の文化」を特集した読本である事を忘れてはならない。

 興味深いのは、『弥助砲〜』においては、〈大山さん〉こと大山巌の大砲製作の事績に触れつつ、それと並置して村田経芳(つねよし)(1838-1921)の事績について紙幅を割いている。村田は言わずと知れた、日本軍が最初に採用した国産小銃「村田銃」の開発者であり、『弥助砲〜』には大筒を抱えた23歳の村田の写真が掲載されている。なお、櫻井は弥助こと大山巖だけを一貫して"さん"付けで呼んでいる。他に出てくる人物ーー例えば、大村益次郎山県有朋なんかは、ただ大村、山形、と名字のみで示す限りである。(ただ、暗殺された大村に付いては『あの草箒のような眉の持主』と書いていたり、そうした些細な点から、何とは無しに櫻井の人物評価が伺えて妙である。)

 

 21世紀初頭に生きる自分のような門外漢からすると、「なんで大砲の話なのに、如何して銃の話を?」という気持ちになる。

 だが、それは飽くまでも後世の人間が、何も当時の「お約束」を弁えないで読んだ場合の違和感であって、ちゃんとこれには調べたら訳があるようだった。『弥助砲〜』のっけから登場している青銅砲は後世である今日「和製大砲」と呼ばれるものであり、此の内には江戸時代前期から造られたものも含めるらしいが、此の青銅砲が導入される以前に用いられていた日本の大砲には『石火矢』と『大筒』の二系統があり、恐らく櫻井は「日本における大砲の歴史」を語る上で、此の伝統的な分類に倣ったものと筆者は考える次第である。

 『弥助砲〜』中、『大砲は直接には支那から渡り、小銃は日本から支那へ行ったものである。』とも櫻井は書いており(「三 やみに大砲」) 、此の「大砲」は明代にポルトガルから大陸へ伝わった「フランキー」であると櫻井は述べており、『日本でも昔は大砲のことをフランキーといったものである。』とも文中で述べている。さて、此の「フランキー」こと大砲はどうやら石火矢の事を指しているようである。『もののけ姫』や『忍たま乱太郎』にも登場する此の火砲は室町時代末期に日本に伝来し、『国崩し』(「三 やみに(略 ) の異称でも知られている。  櫻井によれば、如何やら「大砲」は昔は、「フランキー」こと「国崩し」こと石火矢のことを指したが、以来、青銅砲を経て昭和2年当時の用法に落ち着いたーーような経緯であるらしい。

 

 一方、大筒の系統に倣って書いたと思しき『小銃』詰まり『鉄砲』について櫻井は、天文12(1468)年、ポルトガルから種子島に伝来した火縄銃(『種が島』)が、その後大陸へ輸出された、としている。なお、今日此の櫻井の主張した説の真偽の程は、本稿では審議しない事として論を前進させる。

 此の大筒だが、名前の通り、其れは「大きな筒」であり、分類は江戸時代初期まで定まってはおらず、その後も確定的な定義はない儘、和製大砲の出現を迎えてしまったようで、「弥助砲」出現後は、石火矢とも混同されるようになったようである。

 

 (なお、特に此処まで何の断りもなく書いて来た諸々のデータのソースは悉くウィキペディアの記事である。以下も同様。悪しからず)

 

 しかし、此処まで書いてみて筆者自身、息抜きにコーヒーを淹れて一服してみると、此の「日本における大砲の歴史」を振り返る作業が、案外、容易ではないのに驚かされる。自分も此のネタでなんか書こう、なんか書こう.......と思いつつ、いざ資料探しの段になって如何にも手応えがない儘、一年程過ごしてしまった。

 昨年、法政大学出版局から出た『大砲からみた幕末・明治:近代化と鋳造技術』(中江秀雄 著)については、残念ながらその存在を知りつつも、これを書いている只今現在未読である。というのも、持病の万年金欠病の為に長らく店頭で取り置きして貰っていたにも拘らず入手出来ず、また諸事雑多に奔走する間にとうとう執筆するタイミングを逸してしまいそうになった為に、已む無く此の儘執筆した経緯があり、其れ故に此処では、誠に残念ながら前掲著に触れる事が出来ず、内心甚だ忸怩たるものがある。

 

 閑話休題

 

 さて、話は大筒と村田銃(小銃)についてである。

 果たして何度読み返してみても、櫻井の文体の所為もあるのだろうが、仮に彼が伝統的な二分類に倣って和製大砲以後の日本における大砲の歴史(特に此の場合は、陸上で運用する大砲の)を語ろうとして、彼がどのように、小銃を大筒の系統に連ねて、最終的に大砲の一系統に小銃を分けて語ろうとしているのか、其の儘読むだけでは非常に難儀である。

  筆者が思うに、櫻井は、文中に明示はしてないものの、江戸時代初期まで石火矢・大筒の二系統からなる日本の大砲の系統図を前提としながら、和製大砲の歴史を論じようとしている節がある。彼は、明治初期から陸軍で用いられた和製大砲=弥彦砲=青銅砲を、石火矢=国崩しの系譜に連ねて考えている。実は、此方は未だ幾分、通読してみても理解し易い。

 だが、他方、大筒の系統の説明となると、甚だ厄介な様相を呈しているのである。

 これは、先ず彼が先に示したように『種が島』と『小銃』を繋げた事に原因があると筆者は考える。

 

 仮に、筆者が考えるように櫻井が大砲の歴史を整理しようとしているにせよ、以下、果たして『種が島』が大筒の系統に分類出来るのか? という疑問が、読んでいる内に浮上して来る。

 此処で、改めて、大筒が何たるか確認してみようと思う。

 大筒は戦国時代後期から江戸時代にかけて用いられた大砲であり、石火矢と区別する上では、大筒は鍛造による鉄製であるとされた。石火矢は因みに、鋳造による青銅製である(とするならば、青銅砲は石火矢じゃないのか? という疑問が湧くが、飽くまでも和製大砲は江戸時代以降に海外から輸入されて大砲を模造した大砲の事を言うので、弥彦砲などは和製大砲には当たらないのである)とされる。大筒と当時の火縄銃は同じ製法であったというから、仮に此の点からすれば成る程、『種が島』も大筒の系統に連ねる事は無問題かもしれない。

 大筒は、石火矢よりも威力に優れ、鍛造(イメージとしては鍛冶屋がハンマーで熱い鉄を打っているあの加工法。種子島銃は鍛冶屋が造っていたというのは有名な話。私事ながら、筆者の先祖には其の火縄銃を造っていた刀鍛冶がいたとかいないとか.......)だから、破裂の危険も少なく、材料も鉄なので石火矢よりも比較的安価に造る事が出来たという。但し、好い事尽くめではなくて、当時の鍛造技術の限界で、大口径のものは造れなかったという。

 さて、『お宝鑑定団』の2013年2月26日放送回に登場した大筒は、鑑定額350万円という大した代物であったが、青銅製で重く、「抱えの大筒」と呼ばれる物であったそうだが、如何やら此の回の紹介VTR中に日本における大砲と大筒の違いについて説明があったらしく、其れによると、如何やら30匁以上の弾を発射出来るものを銃と区別して大筒と呼び、1貫目以上の弾を発射出来るものを大砲と呼んだそうで、専ら其れらは攻城兵器として運用された.......という。

(マア、流石物の見事に簡潔明快に説明されていて、正直、筆者は此処まで書いて来て、中々如何して拍子抜けの感も無きにしもあらず。)

 今日だと、大砲と銃の違いは其の口径の大きさによる、という分類の仕方があるようだが、果たして伝統的な日本の大砲の歴史においてあっては、口径ではなく、撃ち出す弾の目方に応じたという訳であるようだから、成る程其れならば、『弥助砲〜』における分類も何となく分かってきた気持ちもしないではない。

 しかし、此処まで読んできて、実際、此の櫻井氏の文章は、此の事について、何の断りもなく、其の上で平気に銃を「砲」の歴史を論じる文中に書いている辺り、筆者は理不尽ながら彼に甚だ不親切の印象を抱かずにはいられないのであるが、其れは果たしてかれこれ90年も前に、当時でさえ既に「大分昔」である時代について書いた文章である事を考慮すれば、果たして堪忍しなければならないのかもしれないが、然し其れでも、彼がサラサラッと暗黙の了解の内に書いて述べてしまう部分を、21世紀の読者である自分には先ず、分からない所なのである。

 

 とまれ、以上の事から、漸く、櫻井が小銃を大砲の歴史においても論じる理由までも確かめられたので、本筋に話を戻して(漸く)先に進もうと思う。 

 

  2

 櫻井によれば、如何やら日本の大砲の歴史を振り返れば、石火矢・大筒の二系統の延長上に、大砲・小銃があり、明治時代に入って其のいづれの代表例が、弥彦砲と村田銃であるらしい。

 何やら此の時点で、大分認識に隔世の感が禁じ得ない。と言うのも、現代人からすると、大砲という兵器自体が、何だか時代遅れのようにも思えてしまう。そんな大砲について、広義においては銃まで含めて、改めて顧みよう、とするのはアナクロニズムもいい所であると言って差し支えないだろう。

 

 とはいえ、20世紀末葉の1989年になってもイラクでは、口径1m、全長150mとかいう「バビロン砲」とかいう巨砲のモデルが展示されたりしたり(生憎と(?) 此の大砲は実現しなかったが)、ウルバン砲の時代から、如何も大砲というのは、実用面よりも、軍事力や軍事技術の卓越性のシンボルとして「運用」されて来た節があるように筆者には思えてならないのである。

 ややもすれば、『巨砲』の一字を見誤り、ユングの夢の最深部に登場した偉大なファルスを幻視してしまうフロイト以降の時代を生きる私達は、取り敢えず、20世紀の偉大な進歩である所の精神分析学の成果を傍に置いて、過去其々の時代や地域において巨大な大砲を製造する事に血道を上げた人々を顧みる必要がある。

 そうでもなければ、果たして、世界一の『大砲』を搭載した、巨大な『戦艦』を作ろうとした人々の精神分析なんか試みた日には、トンデモナイ結果が噴出して来そうだし、だからこそ、此処ではそういう〈色眼鏡〉(本当はそういう眼鏡をかけて振り返ってみるのも面白いかもしれないけれども)は外してみた方が無難であると筆者は考える次第。

 

 (果たして、誰かそんな分析を既にしていそうなものだけれども、取り敢えず、自分なんかは実在した超弩級戦艦と、其れらを擬人化した艦娘を比較して、前者が三国干渉やらポーツマス条約やら、挙句の果てに軍縮会議という様々な外傷を受けた末に建造された経緯を持つのに対して、後者の無根拠性が際立っているように考え、且つ、其れがあのコンテンツの物語性の大きな欠如と連関しているのではないかしら、と妄想する次第である。

 とはいえ、これは別に「艦これ」に限らず、近年続出した擬人化コンテンツの幾つかにも適用出来る気もするし、此の論法自体、筆者の発明でもないので、当て嵌めて見ることは面白いが果たして其れをした結果を態々記事にする程でもないと考えてしまったりするので、トコトン自分はサブカル批評に向いてないと思う次第でもある。閑話休題)

 

 20世紀的な色眼鏡を介せず、権力者が大砲に血道を上げた理由を考えてみると、過去に偉大な支配者であった人物に並びたかったからであると想像するのが穏当だと思われる。

 世界には今で残る巨砲の例として、スコットランドのモンス・メグ、ロシアのツァーリ・プーシュカが有名どころで知られている。 他にも歴史上に登場する巨砲の中には、先述のウルバン砲然り、実際運用された巨砲も数々登場するが、果たして其の使い勝手の悪さはどれについても共通しているようである。

 そして其の使い勝手の悪さが果たして災いして、何やら大砲は「頭の悪い」兵器の代名詞のような評判が付き纏う気がするのは、果たして筆者だけだろうか? 

 

 此処で改めて先の『弥助砲〜』に紹介されてた村田経芳の若かりし頃の写真を振り返ってみたい。

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 果たしてこれは何とは無しに眼鏡をかけて見てみれば、例の有名な『彼岸島』のワンシーンの如く丸太を抱えているようにも見えなくもない。

 此処で筆者が言いたいのは其の素人目にも明らかな操作性、使い勝手の悪さである。

 とはいえ、其れも飽くまで石火矢・大筒、即ち大砲が構造物の破壊が目的である兵器だった点を踏まえれば目を瞑る事が出来るかもしれない。

 興味深い記述が先の『弥助砲〜』中において記されている。

 

〔明治〕六年四月には陛下御統監の演習が鎌倉鶴岡八幡付近で行われた。総指揮官曾我中将、兵隊千五百人、演習銃はシャスポー、空砲二万発という触れ出しで大賑い、四民この洋式大演習を見んものをと鎌倉界隈黒山を築いた。

 外国から買った鉄砲や大砲はもう三十年も前に使った旧式のものを売りつけられていたのである。鉄や鉛の玉が筒から前へ飛出すだけで(後へ飛び出しては大変だが)既に珍とされていたくらいだから、旧式も新式もあったものではなかった。

(中略)

 十中二三発も出ればいゝものと思っていたらしい。西南戦争ころも十が十、弾が飛び出すものとは思っていなかったらしい。その鉄砲弾というのが鉛だから、中〔あた〕ったら最後鉛毒で腐ってしまう。だから、昔の人は縄を創〔そう、傷口のこと〕へ通して川の中でゴシ/\とこいて洗ったものである。

 

*.......〔〕内は筆者注

この記述がある章のタイトルが『中らぬ弾』であるから、内容もお察し.......という感じなのだが、果たして此の後に続く文章を読むと、何とも無しに筆者は笑って読む事が出来なかったりする。というのも、こう書いている著者・櫻井自身、旅順攻囲戦に参加した傷痍軍人であるという事を知ってるからでもあるが、此の当時、「先の戦争」といえば日露戦争(1904-05)であり、其れは20数年前の、当時とすれば、さして遠い昔とも言えない出来事だった事を踏まえても、中々その内容については、当時の読者の思う所を色々邪推してしまったりするのである。

 

 一体戦争といっても人を殺すが目的でなく、戦闘力を奪えば足るのである。だからその標準は二度と戦場へ出られぬ程度の負傷を与えればいゝのであるが、そう註文通りには行かぬので、勢い死者も出すことになるのである。だから殺すにしても、なるべく苦痛を与えぬようにというので鉛弾は使わせぬようになっている。それを日露戦争中露軍が使ったというので屡々問題になった。

 

 今ではすっかり、日露戦争の記憶も廃れてしまった感があるとは言え、此の戦争が後に及ぼした影響等を考えると「昔の戦争だから」と等閑にしてはいけないような気がしてならなかったりするのである。引用文の末尾に関する真偽の程はさておき、21世紀に此の文章に限らず、第二次大戦前の文章を読むに当たっては、此の日露戦争に関する当時と現在の温度差は注意しなければならないという事は、蛇足かもしれないが、此処に記しておきたい。

 以下引用するのは、同章で櫻井が第一次大戦について記した部分の抜粋である。

 

〈.......〉欧州戦争でもソンムでは一人の人間を殺すに二千発からの砲弾を使ったことになっている。一発三百五十貫、値三千五百円也という弾もあるが、先ず大小平均三十円と見て一人を殺すに六万円を要したことになる。安いのか高いのか分からぬが、とに角中らぬものである。小銃で一人を殺すに人間の体重の二倍の弾がいるというから、滅多に中らぬものになっているのである。中るのはよくよく弾運が悪いのである。

 昔の大砲や鉄砲は筒口から煙が出るだけで、飛道具の利目はあった。和蘭砲が高島秋帆によって伝えられた時、花火の筒のような大砲で頑張っていた和流砲術家なるものは大に之を恐れ江川が製砲研究を幕府に請願したということを聞いて極力妨害を試みたものであった。兎に角西洋砲の渡来ということこそそれ自身非常なセンセーションを起こしたのであった。

 元治元年下の関で英艦と戦争した時は三日間に砲戦は僅に一日、一門僅かに五六発打っただけであったが、それで大変な戦争だったのである。第二軍が南山で使った砲弾は僅に三万四千、それでも半年分の砲弾を一日で打ったというので叱られたくらい。日露戦争全期を通じて我軍の打った砲弾は百万発、それを一九一五年シャンパニューで仏軍は三日間でブッ放した。砲弾で地上を耕さねばならぬ時世になった。

 

 果たして此の弁を、既に時代の趨勢を見るだけの気力も機敏さも失った老人の愚痴と見るか、そうでなく異なった読み方をするか如何かは、果たして読者の見解に委ねられている。

 とはいえ、此処で述べられている「中らぬ弾」に当たったかもしれない「運の悪い」戦没者が約55,000人、負傷者が150,000人あって、自身もその内の一人である、という自嘲が滲み出ているように感じてしまうのは、流石に深読みのし過ぎであろうと、自重する次第である。

 なお、詰まらぬ事を申せば、私自身は、先祖が生きて帰った日露戦争と、そうでなかったその後の戦争を比較してみて、この間にあった大戦に隔世の感を抱いている傷痍軍人の弁に耳を傾けて、何とも言えずに溜息をついてしまうのが正直な感想であったりする。

 

 

 3

 又随分と話が脱線しまくってしまったが、改めて話を村田銃が弥彦砲と並べて彼是語られてる奇妙さについて、戻そうと思う。

 さて、此の櫻井氏が態々、村田銃まで引き合いに出して如何しても語りたかったのは、如何やら迫撃砲らしい事が記事を読んでるとボンヤリ分かってくる。

 これもまた、如何やら彼が実際、前線で聞いたかも知れない話で、大砲を小脇に抱えて敵の鉄条網を吹き飛ばそうとした際に、此の砲を『迫撃砲』と言ったと書いてあり、其れが『つまり今日歩兵の持っている大砲ーー近距離から打つ大砲の先祖なのである。』と説いている。

 なお、櫻井は此の日露戦争の『迫撃砲』は『浮大砲』ーー先述の、薩英戦争の折に波間にプカプカ浮いたというあの手の大砲ーーであったと書いており、『日露戦争当時でさえこんな珍大砲があったのだから、鹿児島戦争の浮大砲決して笑うに当たらぬのである。』と、散々笑っておいた後になってからこう解説していたりもする。流石は中々筆が立つ。

 

 此の櫻井の『弥助砲時代から』の終章には、『いろ/\の怪物』というタイトルが付されており、章中では、日露戦争の思い出話が綴られた後、欧州戦争を皮切りに続々と現れた「怪物」が数々紹介されている。

 中でも取り分け紙幅が割かれたのは戦車であった。英国生まれの怪物タンクは日本では戦車といい、芋虫のような格好で移動するから芋虫自動車というあだ名もある、と書いて櫻井は次のように書いている。

 

 その戦車がなければ戦争が出来ぬようになった。スナイドルで戦争していた時代から僅か五十年にして、こんな怪物が戦場をあばれるようになった。

 (中略)

 日本も師団を減じてまでタンクなど作らなくてはならぬ始末になった。飛行機にしろ、タンクにしろ金の食う機械で戦争しなければならないので、並大抵の苦労ではない。新兵器などというものは目まぐるしいほどの変わり方で、同じタンクでもこのごろは一人用タンクなどというものが出来た。つまり甲虫と甲虫との戦争である。

 

 以下、櫻井は歩兵が各自一台ずつ此の「甲虫」に乗って戦闘するようになるのではないか、と考え、『そこで戦場は極度に機械化するようになった』と、如何にも当時の時代らしい予想を立てている。

 此の記事が世に出る2年前の大正14(1925)年の宇垣軍縮があり、また此の前年には永田鉄山国家総動員機関設置準備委員会の幹事となって、内閣資源局、陸軍省動員課・統制課の設置に導き、初代動員課長に就任するーーといった事もあった。後者は世間的にはどれだけ知られていたか分からないが、取り敢えず、当時の世論は兎に角、軍縮に賛成していた。おまけに此の「明治大正の文化」が出た昭和2年6月は、同年3月に発生した金融恐慌の余波の只中にあった。『金の食う機械』は嘸、当時は煙たがられた存在だったのだろう。

 こんな文脈の中で、次のような一文があるのだが、果たしてこれを如何に解釈すべきか中々難しい所である。なお此の一文は、先に引用した『〜〜機械化するようになった』に続く。

 やがて戦場と内地とがアベコベになる時が来るだろう。死傷者は戦場よりも寧ろ国内に多くなる時が来るだろう。

 果たして、これを第二次大戦後の読み方をするのは不適切だろうが、何分此の一文は前後の文脈からしても唐突なので、一体如何してそう考えたのか筆者にはよく分からなかった。

 とはいえ、その前に第一次大戦で砲弾の四分の一が毒ガス弾になった、とか、ドイツ軍のパリ砲撃について書いていたりしたから、そうした文脈から、此処は素直に21世紀の目線で読んでも構わないのかもしれない。

 

 所で、此の『弥助砲時代から』の最後の最後に、櫻井は、今後の大砲の改良の余地について書く中で、『弾自身に発動機を持って飛ぶような工夫も出来そうなものだ。』とサラリと書いている。だが、別に此のアイディア自体はそんなに驚きはしない。然し、其処で櫻井は、『このごろアメリカで発明されたという電気砲』よりも『とにかく弾自身発動機を持って、軽便に打てるようなものが出来そうなものだ』と、頻りに其方を何とか工夫して実現する事は出来ないものか、というような事を書いている辺りが、中々首尾一貫していると感じさせる。お終いに、彼は大砲が15世紀以来、其れ自体殆ど変化していない事を批判しながら次のような事も書いていたりする。

 一々目で狙って打ったような鉄砲も、いま時影を没してもよさそうなものだが、鉄砲というものも曲のないものである。機関銃というものが出来、引っ切りなしに火の棒が出るようになったので、いくらか進歩とも言えようが、小銃に至っては愚の骨頂である。

と、中々厳しい評価である。此処まで櫻井は、小銃と大砲とを、即ち大筒と石火矢という古めかしい系譜に連ねながら、最終的に此の古めかしい系譜其の物を否定して、いい加減新しい、大砲に代わるーー発動機付き砲弾のような、軽便に打てるーー兵器の必要性を説いたのであった。

 彼からしても大砲は確かにシンボルとして運用されており、其れは使い勝手の悪さが明らかにするように、好い加減進歩しない旧態依然のシンボルとして映っていたようである。

 大好きな"大山さん"の言を引きつつ、彼はこう文を締め括っている。

 

 

 普仏戦争を見物して帰った大山さんは、帰朝後「日本の戦争は鶏の蹴合いでごわすが、あつちんたあ(あちらでは)牛ん角の突き合いでごわす」といったそうだが、それは一八七〇年のことだ。しかしその譬えは今日とても同じことかも知れぬ。〈.......〉

(中略)

 斯う後から後から珍品が飛び出すようではウッカリすると、鶏が犬や牛と戦争せねばならぬことになり、青銅砲、スナイドル時代を笑えないことになる。(昭和二、五、五端午の日)

 

  (因みに、今年は丁度、此の記事が書かれてから90年目に当たる。)

 

(続く)