はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

ドンキとイオンでお買い物 ~ケーニヒスベルクの「ほら吹き男爵」のコペルニクス的転回について~

 

 立川の駅前に「AION」というパチンコ屋があった。今はその後に「MEGA AION」が建つ。それで、アイオンと読むらしい。

 友人と散歩している間に見付けて、よくよく考えもせずに「アイオーン」と読んで、思わず失笑した。「何だってそんな名前を付けたのか?」と思ったからだ。だが、後で調べたら、ギリシャ語で「永遠」も意味するアイオーンのラテン語綴りは「AEON」だった。だから結局「何でそんな名前(略」という疑問は残り続けた。

 

 MEGAという接頭辞が流行ったのは、もう十年前くらいになるのかしらん。電気ブランの「電気」、電子レンジの「電子」よろしく、流行り言葉としての「MEGA」は「十万馬力」よりも大きい印象がある。実際、「great」に当たるギリシャ語なんだとかいう。無理に日本語に直そうとせず、既にカタカナ語「メガ」で定着した感がある。それは多分に「メガマック」の効果だろう。「超」に替わる語としては「クソ」よりか幾分もましであろうと思う。

 三つある立川駅の内、「北」駅から歩いて十分くらいの所には「MEGAドンキ」がある。

 しかし、わざわざ「MEGA」なんて付けなくたって、ラ・マンチャの男が偉大であることは周知の事実である。

 「MEGA」の基準は如何やらビル1棟丸ごと店舗である事の様である。丸ごとドンキなら、成る程「great」(=とても大きい)であるから、「MEGA」と呼べそうである。

 

 「ドンキ」と約めて呼ぶ時には点は入らないらしい。この「点」で、セルバンテスの小説との差別化を図っているらしい。ただ、誰も後者を約めて呼ぶ人はいないと思う。成る程、誰も約めて呼んだりしないからこそ、差別化可能ということだろう。

 最近の子供は如何か知らないけれども、一昔前なら多少本を読む小学生なら「ドン・キホーテ」の有名な挿話は大抵知っていたものである。随分な量があり、それなりに古めかし小説ではあるけれども、これに限っては、子供の頃に読んでおいた方が好い作品である。というのは、大抵の人がこの岩波文庫を手に取る時には、既にその人はこの小説の主人公を憐憫の眼で捉えてしまうからある。多かれ少なかれ、彼に己の「暗黒時代」を透かし重ねてしまうのだろう。

 だからこそ、大人は「ドン・キホーテ」ではなしに、「ほら吹き男爵」や「そばかす先生のふしぎな学校」、「ガラスのエレベーター、宇宙に飛び出す」を薦めたりするのである。しかし、当の「ほら吹き」ミュンヒハウゼン男爵は、彼が客人に語って聞かせたこの手の物語が公になってしまった所で恐らくは慙愧に耐え難かったのだろうが、憤死してしまっている。「そばかす先生」に至っては触れこみに反して随分と辛辣な結末を迎えている。よくある映画の宣伝に騙された時とそっくりな体験が出来る(但し、物語としては非常に優れた作品である事は疑いない)。虚構の狂人に対しては何やら遠慮しているのか知らぬが、実在した「ほら吹き男爵」にはとんと遠慮がない。その点は古今東西変わりなく、清々しくさせある。

 「ガラスのエレベーター」は、ティム・バートンがメガホンを執って、ジョニー・デップ主演で撮った映画の原作である。故に察しも付く所だろうか。

 

 大人(だと、自分で思い込んでいる方々)が本を薦めるのは、自分の寛大さ、偉大さを誇る為であろう。詰まる所が、「クソガキ」共に素晴らしい説教を語って聞かせて、あわよくば自分をも立派な人物に演出しようとする為の小細工に過ぎない。或いは、本当に気が付いていない場合もあるから、その場合は余計に質が悪い。相した手合いは平気で『ならぬことはならぬのです』とか説いて来ては、飯森山で自害した白虎隊を見習えとか、平然と言い放つ。

 そして、ご丁寧にわざわざ感想文とか自己紹介文だとか、あの手この手で巫座戯た「踏み絵」を強いたりする。そんな方々に媚びていれば出世に有利だと分かっていて、子供はどんどん狡賢くなっていく訳だが、そんなシステムを運営・管理している連中は子供よりも遥かに「MEGA」ろくでもない。

 有難い説教を読み上げる内に、丸で自分もそれだけの徳や能、それらを兼ね備えている事を以て、何か高いところから他人を憐れんだり叱ったりする資格が手前にもあると勘違いした手合いが、入り乱れ、盲目滅法ゲバ棒で殴りあう最中にあって、一番いいのはそういった連中だけの「理想の世界」に移住して貰う事である。

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 去年から岩波文庫で、誰がそんな読みたがったのか(そういう需要とは関係なく翻訳書は刊行される事は百も承知だが)、≪悪魔の書≫・「ティラン・ロ・ブロン」が出ている。またも、小中高生を惑わす「有害図書」の出現――かと思いきや、意外にも、流行っている感はない。しかし、随分な力の入れようだ、と町田の有隣堂の棚を見て呆れた。

 そうでなくとも、今日、忘れられて久しい「メディアリテラシー」という言葉と共に、その欠落が招いた悲喜劇としての「ドン・キホーテ」は、痛い所を突いて来る、という点では現在の所、大衆一般には嫌厭されて然るべきだろうと思う。子供に笑われたら大人の面目も丸潰れである。同じ、笑われるなら、自分たちの中で落ち零れた連中が相応しい。相した数多のレイムダックの中に、ミュンヒハウゼン男爵を数える事は出来る筈である。

 所でこのほら吹き男爵が史実に於いて死亡したのは1797年のことであり、場所はケーニヒスベルク、今日のカリーニングラードである。世代的にも同世代人であるカントとは奇しくも同じ町に住んでいた事になるが、なおこの年にカントが著した文章で「人倫の形而上学」がある。

 

 或る意味でミュンヒハウゼン男爵もまた、「コペルニクス的転回」を不本意ながら成し遂げてしまった「MEGA」な人物であるが、それは「成し遂げた」のではなく、「成し遂げた事にされてしまった」というべきであろう。

 最早、実際の彼がどれだけ詰まらない、取るに足らない人物であろうとも、世間は彼を放っておいてくれない。今日に於いても、彼のような人間は頓死してしまうまで物笑いの種にされ、その死後に、急速に顧みられなくなってからでないと、安らかな眠りは用意されていない。「読者」は別に、後で彼に対して申し訳なく思ったり、嗤った自分を反省して悔いたり、気に病むような事はない。それは、彼等が「慎ましやかな」一読者、小市民である限りは、彼等が何か批判を受ける謂れがないからである。というのも、彼等一人一人は所詮、世間に大した影響力を持つ訳ではないからである。「塵も積もれば山となる」とはよく言ったものである。

 また、気にし始めたらし出したで、以前の様に放っておく事が出来なくなる程に、人間の自制心は薄弱である。そして、せめても出来る事なら忘れようとしても、執拗に騒ぐ連中の喚声から遠ざからない事には、それは叶わぬ夢である。構う人が誰もいなくなれば、大抵そうした手合いは静かになるものだが、しかし厄介な事に、そういう連中に限って、大通りを凱旋したり目抜き通りを練り歩いたりする。押し売りよりも、人の家の玄関の前で居座る物乞いに近く、或いは男爵に成りすまして作り話を語って他人の関心と評判を集めようとする辺りは振込め詐欺にも似てなくはない。

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 買い物中に何度も何度も執拗に流れる店内放送は、別に自分が望んで聞きたい訳ではないのだが、習い性として何か重要なことでも言っているのかと耳を傾けてしまう。だが、当たり前だがそれは自分の店の名前を延々と繰り返しているだけに過ぎない。マンネリなのだ。そして、その事に気が付いたり、或いは自覚したりするのは、幸か不幸かよく分からない。15,000回ループしていたとしても、それに気が付きさえしなければ退屈で鬱屈となる事もない。

 慣れというのは自分が環境に適応したのであって、何か周囲が変化したという訳ではない。だから、若しも何か「我」を張るというのであれば、慣れというのは禁物である。しかし、いつまでも意地を張っても幸か不幸か定かではない。

 自分の生活スタイルがイオンやドンキの商法に適応しているのであって、自分が小売店を択んでいるのではない、という事に例えば気が付いてしまったとして、それが変化の兆しになる事は十分あり得るだろうが、だからと言って、既に動かし難い状況というものに如何対処していくかは人それぞれである。

 しかし、既にして明らかなように、個人がこれらの「great」な店舗に立ち向かう事は困難であり、それはベルトに捕まってエスカレーターを乗り降りする事さえ自由ならない近況によっても端的に示されている所でもある。

 

 世は泰平にして事もなく、広告代は雲より嵩み、ビルの上から人が飛び降りようがチャリティマラソンは決行され、灯火管制を敷いてでも夜なべ残業は敢行され、真夏日の最中、肩に故障があろうとも若人はグラウンドで汗を流して意識を失い、一方で老人は塩分多めの味噌汁を啜って高血圧を昂進させつつ節電に勤しんでクーラーも点けず、新聞記事を読みながら医療費負担の増加を嘆いている。

 しかし、其れさえも慣れてしまえば如何って事はないのである。蓋し、「足らぬ足らぬは苦労が足らぬ」の精神により、彼等は進化論を信仰しながら今日もまた、渋滞を作る。

 そういう風に、物を見ようと思えば見えるという、ただそれだけの話である。