はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

ひねもすインポテンツ(1)【無能の考察】

 

 

 人前に立つと、何かひとつでも、「芸」が必要に思われてならないが、何にしても、自分の場合はこれといって得意というものが見出せない。

 カラオケに行くのは稀だが、歌うこと自体もそう得意でもない。ただ、マイクがあると、落書きするような感覚で適当に知っている歌を真似てみたりするが、当然、練習なんてしていないからそう声も出る訳ではない。だが、それはそもそも、歌うこと自体に衝動が向かわないからであって、その場では単に目の前の機械に唆されて、「一夜の過ち」を犯すに過ぎないのであったりする。

 

 欲望の赴くままに、自分は大抵ものを食う。財布と相談しながら、ただ、その時に食べたいものを感じ取る。脳裏に浮かんだイメージを掴み取り、意識の俎上に是を置いて、何を食わんか思わんか、見極めようとする。ただ、大抵の場合は豚骨ラーメン乃至はつけ麺である。理由は、替え玉乃至大盛りが頼める店のメニューだから、という実に味気ないものである。

 分析癖というのは、更にそこに何か深淵から来たる崇高なる理由を捏造する癖ではないかと思う。分析を通じて理解出来るのが「癖」であり、分析癖の分析を通じて明らかに出来るのは、尤もらしい理由をつけて自分を何か尊大なものと勘違いしたい欲望のあるらしいことばかりである。当然、本当にあるかは定かではない。寧ろ、分析という反省を行う時点で、現在の自分が将来的にそうでありたいと望む自分の萌芽を過去に見出したいという欲望が、そうした尤もらしい説明を可能にする「自分」というものを即興で、創り上げているのではないか、と考えてしまう。

 

 その場で思ったことをポンと口にすることが出来るならば、それは手帳にでも書き留めていればさぞや面白い読み物が出来上がるであろうと思う。

 日記という読み物自体は、それに一貫性が果たしてなければ尚更、読み物としては好都合である。支離滅裂な行状は、他人の様を観察するだけならば、愉快であるし、他人のアイデンティティー・クライシスなんて、格好の退屈凌ぎになる。

 俳句というのは、正にそんな揺らぎの中で、或いは何かが揺らいでいる瞬間を捉えたものである。ただ、所謂世に知られた名句が、本当にその場で瞬間的に詠まれたものかは疑わしいと思う。山下清も実際は、旅先から帰って来て、千切り絵の製作に取り掛かったという。

 当てようと思って当てることも難しいが、常に周囲に気を配って、シャッターチャンスを狙っていたからこそ掴めたのではないか、という瞬間を見せられても、そこに何らの「作為」もないといわれたら尚更却ってモヤモヤした気持ちになる。

 そこに衒いはないのかもしれないけれども、他人にそれを披露する時の態度に卓越した技巧を発揮する。その場の雰囲気、シチュエーションが大事、というのは鑑賞論としては納得するが、そうした他人からの眼差しも織り込み済みの芸術というのが、果たして素直かと考えると全くそうではない。その癖、彼らは人一倍、素直で、純真で無垢であることに拘ろうとする。だが、既にして人に好かれようとか、詠もうとかうつしとろうとか思っている時点で、子供であろうと彼らの理論を徹底させようとするならばとっくの当に汚れているのである。

 

 アランフェス協奏曲に合わせて、何か気を利かせた文句を、自分でも呟きたくなる。

 Impotenz、それは無能。ーーと。

 

 屡々「不能」と訳される。が、自分はこれに含まれるニュアンスとしてある、「無能」と「不能」とを区別して論じたいと思っている。

  元来、インポテンツという語は、能力に乏しいとかそういう意味合いの言葉である。potency は、力とか潜在力とか、普段は内部に留められている秘められた力とかいう意味で、訳語としては「精力」という語以外にも、「権力」とか、「勢力」とかがあったりする。形容詞 potent は「力強い」「有力な」「説得力のある」といった意味合いであるから、これを何も男性のあらまほしき特性として挙げるの不適切な様にも今日日であれば思われたりもしたりする。聡明な子供は、双葉の頃からそういった意味では、potent である。発言力のある、或いは発信力のある若者というのは、文字通りの意味で精力絶倫である。

 対して、無気力である様や、無力な有様をしてimpotent という。ドイツ語だと、更に創造力の欠如とか、能力に乏しいという意味も付いて来る。

 そして、ーーこれが重要なのだがーー「不能」という意味でのimpotent は、その人自身が役に能わないという事を、誰かが確認して初めて認識される事象である。

 詰まりは、一旦は他人と交渉して自分の力量なりを計ろうとして挫折した経験がなければ、その手の自己申告は無効であると言わざるを得ない。取り敢えず、試験には落ちたにせよ、その結果は、受験しなければ手に入らないーーというのと同じ道理である。

 故に、人を「不能」呼ばわりするのは、「無能」と指弾するよりも慎重でなければならない。正に、その場の雰囲気やシチュエーションが、その人のコンディションに如何作用したのかも考慮に入れなければならない。

 

 専ら、世間で気にされている問題は、然るべき時に然るべくパフォーマンスが可能か否かであって、24時間365日、いつでも有事に臨めるような態勢を維持出来る程の精力は問われていない。

 ただ、苟も自ら芸術家を自認する者にとっては、後者の臨戦態勢であらんと欲して能わず、それで手痛い失敗を被る。

 

 ただ、彼らの大半は、芸術家への憧れで身を滅ぼすのであって、芸術家として身を持ち崩すことも叶わないのであった。

 

  こうした話を酷く煙たがる人を潔癖症と呼ぶならば、その人口はそれなりきにあると思われる。

 ただ、そうした話題が口の端に登らないからと言って、根は薬物や暴力に傾く連中と変わらないから、結局、彼らは自分たちが無垢だと思い込んでるだけ余計に質が悪い事になる。経験もなければ「不能」呼ばわりされた事もない。

 「語るに落ちる」を怖れる余りに銘々各自が引き篭もり、欲望の対象となるものもなければ、シチュエーションと作法に則って、歯に衣着せた鑑賞ごっこに終始する。

 だから、「不能」ではないかも知れないけれども、それを確かめる術は皆無交渉の余地もない。因みにこれを「無能」と呼ぶのは不適当である。というのも、無能とはそもそもが機能する欲望も、その対象も持たない者を指すのであって、役に立たない、持たない、持てない者は機能はあっても十分でない、という理由で罵られたり蔑まれたりするのであるから、そうした「役立たず」を「無能」呼ばわりするのは間違っている。

 

   (続)