はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

ひねもすインポテンツ(2)【無能の考察】

 

  無為に過ごした休日を惜しんだり、アレコレ悩んだ結果として『もーいやっ! こんな生活!』と叫んだりする。

 ただ、ユビュ王が『クソッタレ‼︎』と叫ぶのと、ナポレオンがそう呟くのとでは、そこに無能と不能の隔たりがある。

 或る意味で、無能は「去勢された」不能者とよく似ている。ただ、無能者の自殺は、往往にして、そのありもしないトラウマを捏造された末に待ち受けている滝壺の様なものである。

 

  敢えて、その無為な人生を模倣した末の不能者の狂言自殺は、却って無能者の理解し難い『漠然とした不安』を芝居染みたものとしてみせる作用がある。

 そうした意味で、彼らは一方的なその恨み辛みを晴らせるのかも知れない。

 ただ、いづれにせよその自殺や自殺じみた行路病死は、それらしい、尤もらしい理由を見出そうとする、例の作法に従って、それ自体は全く閑却されてしまう。

 

 

 不能と異なり、無能は一人での作業中に気付くものである。

 例えば、漫画を描くのに人物にデッサンが下手で、上手い人には助平な人が多いというのを聞いて、自分も裸体画を描こうとして、肝心な所で魂を入れ損なうーーという失敗を何度も繰り返す内に、人体に興味はあっても、人それ自体に関心がない事に気付くのは、指摘されて納得するものではない。

 勿論、それは自分の絵が一向に上達しないのを、全くの画才の無能故にであるとは認めたくない動機からかも知れない。

 ただ、その時は、ならば人を描くのではなくて、抽象化された人体のモデルをなぞるのだ、と気持ちを切り替えた所、スルスルと筆が運び始めた。

 そうして描かれたものが、「人」ではないものの、それが本人以外には確りと「人」として認識出来るような相好を保っているのであれば、無能者であろうとも、絵は描くことが出来ると言えるのである。

 

 ただ無能者が描いたのは、人間の身体を表す記号ではない。人体に先立つこと、記号が作り出した、それに触発されて抱いたイメージがそこには表れているのであって、それは例えどれだけ「無様」であろうとも、描いた本人にとってはそんなお墨付きは如何あろうと知った所ではない。

 

 更に言えば、快不快、好悪といった行為の価値も無能の人にとっては預かり知らない所である。

 無論、そんな無能者の立場は御構い無しに、彼が何も言わない事をいい事に、他所でアレコレ値札を付けながら詮議する人々によって、彼らもまた、否応無しにそうした「市場」に組み込まれてしまう。そして、そんな無能者の無為の産物すらも勿体振って取引するのは、彼らが「無能」であろうとして「不能」である証左でもあると言える。

 

 

 ......そんな事を考えた所までを、友人に話した所で、模倣の問題について指摘された。

 

  筆者自身にも多分に覚えがある事だが、大抵の人は、不能であるよりも、無能な振る舞いを嫌悪する。蓋しそれは、不能であることを恥じて、無能であるかのように見せかけて、同時にあわよくば、超然として大人振りたい態度に見えるからである。

 が、それは飽くまでも「そう見える」というだけの事であって、本当にインポテンツか如何かは、実際に絵を描いてみせた所で、妥当な診断を下せる人が世の中にどれだけいるか、という話である。

 賢しげに、専門家でもないのに、あゝだこうだ言って許されるのは、不能者と不能である子供だけである。

 

 他人を、無能者ではなく、役に立たないインポ呼ばわりすることは、当然だが、批判者が責任を追求される場合がある。但し、それは往往にして、見るも無惨な応酬を呈する。

 批判者の責任は、彼らを相手取った訴えが呈されなければ、追求されはしない。そして、正真の無能者はこれについて先ず感知しない。ただ、それも不能者の幻想である可能性もある。というのも、不能者にとっての理想化された賢者聖人としての無能者像は、所詮、偶像に過ぎないからである。

 寧ろそうした偶像の立ち居振る舞いに拘束されて、嘘吐きとされた不能者が窮地に陥ることを批判者が企図していることが往々にしてある。

 批判者の立場としては、専ら、足の引っ張り合いというか、無能者という伝説上の存在を徹底して崇拝するが余りに、却ってそれに決して及ばないことを自覚する程に嫉妬の炎に身を焼かれ、憎さ余って嘘吐き共を、「偶像」と知りながら吊るし上げる者は少数で、大抵の場合は只管その「公開処刑」の有様を、動物園の檻の中を覗くように、見世物として眺めているに過ぎない。

 そこで、誰が痛ぶられ、どんなものが屠られているかなぞはそもそも疑問に抱いたりする素地がない。この無関心は、無能者の態度と本質的に同一である。ただ、観客はショウが退屈だと檻に向かって石を投げたり、隙間から枝を差し入れて、生き物を突いたりする。

 屡々、そうした法廷狂言に於いて、責任は互いの論う相手の落ち度に堕す。そして、そのステージと客席とは、格子戸に仕切られた一つの劇場という檻を形成している。

 『踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損』とは、蓋し至言である。

 

 「無能者像役」を装えば、「無能者をよく知る者」として、無能者の振りをするよりもずっと安易で、危険も少なく、好き勝手に無能者について論じたりすることが出来るようになる。

 そして、余りにその演技が堂の入ったものであると、うっかりその「知識人」は、無能者のように振舞ってしまう時がある。それは謂わば油断から生じた隙であるが、然しその隙も又、「知識人」に対する信頼が、彼らの平生かたる所の無能者のそれと彼らの所作とを、彼らが常々強調している「理由付け」の作法に従って、その取巻きに彼らを無能の人として見ることが出来るようにお膳立てして呉れる場合さえあるのである。

 そして、その極地として、不能者の自覚があろうとなかろうと、熟練した演技が役者自身の個性ーー主体を打ち消した時、奇跡的に舞台の上で踊る彼らの身体が、無能の人の描くものに負けずとも劣らないものとして立ち現れる瞬間があるのである。

 

 クライストが見たであろうマリオネット芝居は、彼が対話篇の中で舞踊家に語らせたようなものではなかった。というのも、恐らくは彼が目の当たりにした舞台上には、気取った俳優さえいなかったからである。

 

 知識人として振舞う為に、二六時中無能者をイメージしている知識人の隙に、無能者である彼らが刹那的に顕現するのは、蓋し、天才を気取る程の余裕もないからこそである。そこに優美さが垣間見得る隙が生じたーー。

 詰まる所、その隙は芝居の上では油断であり、その「虚」を観客の眼差しに衝かれた役者は当惑する。そして、その後の開き直りは一瞬見えた彼の才能が、輝きだけは真物だったということを如実に語ることになる。その自分の失敗を巧く隠蔽出来たら大したものである。すると彼らは、最早、記号の意味する所と区別がつかなくなる。

 彼らの身体が演技をしているのではなく、演技が彼らの「身体している」ように見えるのだ。

 

  (続)