はてしないひらひら

尾ひれは沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

たわわ考

 

 目の前に道がある。そして、今正に、その「とうげ」に差し掛からんとしている。

 「とうげ」とは「さか」の頂であり、「さか」とは盛り上がった丘のことである。「とうげ」は、「さか」の、上りと下りをへだてる境である。

 

 「とうげ」は、登る時「たお」と呼んだ。「たお」を超えると「たわ」になった。

 恐らく、「とうげ」は元、「たおげ」と言ったのだろう。

 勾配のゆるやかな「とうげ」も「たわ」と呼ばれた。また、ごく低い山と山の合間では、一番高いところを「とうげ」と呼んで、低いところを「たお」と呼ぶこともあった。

 山の尾根など、馬の背のようにたわんだところも、「たわ」と呼ぶ。「たわんだところ」だから「たわ」なのか、そこが「たわ」だから、山の形を「たわんでいる」というのか、それは分からない。

 辞書を引くと、「たわ」の項には「たをり」が、「たわわ」の項には「とおお」が類語として登場する。然し、同義語、というのは適当ではない。

 確かに、いずれも、たわみ、しなうさまを表しているが、「しな」とは「さか」のことであり、そして「とうげ」は「さか」の天辺である。道は、「とうげ」をはさんで、「たお」を歩けば盛り上がり、「たわ」を歩けば沈み込む

  白露が「たわわ」に下りれば、秋萩の葉は重たげに「たわ」み、白橿の枝に「とをを」に降った雪は、枝をたわませるほどに、こんもりと「たお」る。

 

 最近、「たわわな果実」という言い回しが流行っている。

 若しそれを、果実そのもの褒めているのだ――と、思っている人があれば、それは勘違いだ。というのも「たわわな果実」と言った時、「たわ」んでいるのは果実ではなく、それを支えている幹枝だからだ。「たわわな果実」と呼ぶ時は、果実を指しているのではない。その実をつけて、しな垂れている、幹枝を指して呼んでいる。

 対して、枝に生るものはこんもりと、枝葉の上で「たおたお」と盛り上がる。

 するとなると、若し果実を褒めたいならば、「たわわ」ではなく「とををな果実」とでも言うのが、適当な気もしないでもない。

 だが、生憎と、そんな言い回しは、寡聞にしてきいたことがない。それは、ただ後者が廃れたから、という理由からよりも、果実より枝葉の方に――幹の揺らぎに――その重たげに身を擡げた、危うい均衡の上にある、アンニュイなモーションに、人々が魅せられている場合が専らであるからに相違ない。

 飽くまで、果実は人々が感動しているもの全体の一部に過ぎず、人々はその――今にも折れてしまいそうな、草木の――危うさに魅せられているのだ。

 

 気になる物の、大きさは実は関係ない。