はてしないひらひら

尾ひれは沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

地上波初放送に寄せて

 

 現実と虚構を論じるために、その両者を論じる前提となる、共通の「場」が必要である。

 ならばーーと、その場の性質について、考え始めて早くも一年が経過した。

 『シン・ゴジラ』の話である。  

 何をか言わんとしてはその度に失敗する。言葉足らずは相も変わらずである。

 

 前提自体がそもそも、去年の自分に足場として無かったのに、背伸びして論じようとしたのが浅墓だったーーと、「マジレス」するタイミングも疾うに逸して、こじらせた「厨二病」を悪化させていくように、書き途中のものを上げるのを繰り返すような、「あっぷあっぷ」で物を書くのにもいい加減、うんざりして来た今日この頃ーー、折良く、地上波初放送という事で、今度こそ、諦める事にした。さらば、しからば、おさらばえ、である。今更ではあるが。

 

 一年前、取り憑かれたように何遍何遍も下書きも含めて書き殴って来たものだけれど、今にして思えば、取り憑かれたい一心で、そんなフリをしていたのかも知れない。そんな疑念さえ鎌首を擡げ始めている。

「アレは結局、気の迷いだったのかも知れない」

 とか、そう思える事自体、至極真っ当に思われる。そんな「余計な事」なぞ考えずに、今目の前にある「現実」としての、突散らかった部屋の有り様やら、明日着ていく服の事なぞを心配して考えた方が、今では「まとも」に思われる。

 だが、果たしてそう言える根拠が何処にも無い事は能く能く分かっている。だからと言って、その「何の根拠も無い」事を口実にするようでは、何の進歩もあったものでは無い。

 

 牧博士が最期に何を好きにしたのかーーなんて考えるよりも、「もっともらしい」考え事は世の中に五万とある。

 「でも」、確かにそれは考えるだけの甲斐性があるテーマであった、と断言出来るようになるまで考えてしまうのは、本意ではない。そこに甲斐性を感じられるように変化してしまうまで考えるのは、考えるというよりも信じている、と言った方が適切だろう。

 「スルーする」事が出来る位に、普段から物を考えていなかった自分の不覚であった。

 

 遣り甲斐が感じられるように適応したのだ、と言えばそれまでである。が、適応して、芯がブレてしまっていたならば元も子もない。

 態々正体もなくして、何が何だか分からなくなってしまった後に、「初心」も「大志」も汲むべくもない。

 能く、世間には集まりの場で正体を失くすまで酒を飲む人がいる訳だが、一体、そうした人士は、その場に集まった理由さえ分からず、ただ酩酊しているに過ぎないので、正直、介抱する義理も無いように思われる。

 でもやっぱり、扶けようと発心するのは、相手が何者であるか、何を考えているかという事に委細関係無く、そこに「余計な考え事」が差し入る隙間なぞ厘毛も無い。

 そんな状況にあって、「どうしてこうなった」と考える事自体の用の無さに気付いた後は、彼此説教しようとしていた事さえも、何やら阿呆らしく感じられ、知った所で、今更だから何だという話なのだ。

 

 生憎と時宜に適った言葉を思い付く事が出来ずに終わった事を、延々悔やんだ所で全く仕方が無い。「問うに落ちず語るに落ちる」とは正にこの事で、省みて、ああだこうだと論ずる内に、何が必要だったのか、ハッキリする事は往々にしてある。だが、それが明らかになった所で、また「初めて」映画を観る事は出来ない。

 

 だから態々、言う必要も、言おうとする必要も無かったのだーーという事に、一年経って漸く確信するに至った。

「腑に落ちなかった。」と言うのが、とどの詰まり、自分の言いたかった事の全てである。だから何だ、と言いたくなるような感想しか得られなかった事の後悔が尾を引き摺っていたが、もうこれで構わない。「分からなかった事」は決して覆しようも無いのである。

 

 物語の結末を、もう伏せておく必要は無い。しかしマナーとしては、初めて観るという人の前では言わないのが正解だろう。それはその人が既に、ウィキペディアなりニコニコ大百科なりを閲覧していたとしても、関係無い。言うなれば、それは照れ隠しであり、余計な恥をこれ以上重ねない為の知恵である。

 

 最後に一言だけ。

シン・ゴジラはいいぞ』

 以上。