はてしないひらひら

尾ひれは沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

錬金術とルサンチマン

 

 未来志向の空想科学があれば、過去志向の隠秘学錬金術がある。暗澹たる未来世界も、旧き佳き時代という幻想も、共に現在に対する深い失望に起因している。即ち、現実の延長線上にある可能性としての未来は碌なものではないし、少なくとも過去に於いてはこれよりもマシな状態であった思わなければ、感傷に浸って安らぎを得るという事も適わない、二進も三進もいかなくなった状況であるーーと望む人々の需要に応える為の双輪を担っている。

 謂わば、此の車は何処へともなく、死に体の読者を運んで、他界へと走っていく様な錯覚をせめてもの享楽として与えて呉れる装置でしかない。牽引する人夫も、畜類もいない。読者は酔客同様に、電車の中と勘違いして、鞄を枕に行儀良くその上へ身を横たえる。

 同情乞食の誹りを免れ得る時期をとうに逸した人間が、真に尊厳を湛えて自らの進路を決する事が出来なくなった後に、する事と言えば、如何にも、恥辱を受ける事少なく去ぬ事許りである。

 不老長寿の、或いは不死の魅力は、死さえ克服出来るならば、少なくとも自分の去った後に、散々ぱら他人共に悪し様に言われる事を免れる点にある。誰よりも長らく、他の誰もが最早自分を責め苛むに能う事無きに至るまで、耐え忍ぶ事が出来たならば、我が世の春を謳歌し得る可能性がなきにしもあらずであるからである。

 それは何より文明の、現在の終焉、終末の先を期すればこその企てであり、憧憬である。これらの企ての失敗が堆く、庵の内に積み上げられた後にあって、慰め言は唯の一語さえもなく、憧れは益々、人を不完全な自己を否定する向きへと駆り立てる拍車となって、心身を疲弊させていく。だがそれは自殺ではあり得ない。当の本人達は、決して死を欲してはいないのだ。ただ、彼等の望むものが得られない場合の結末が、能く能くそれに似ている、というだけの話である。

 絶望した所でそれに応える声もなく、同情乞食の誹りを投げられ、後悔した所で無益である所か、自己満足の為の自慰行為のレッテルと弾劾され、悲しんだ所で見苦しいと、怒った所で側迷惑だと槍玉に揚げられ、一切合切を禁じられた挙句に、人格に難あり、これ一切の役不立と診断を受けて、社会的去勢を施されるが他に進路なき者のとっては、偲べる過去も、可能性としての永遠の未来も、その無為な過程を凌ぐに最低限必要な、只管に消費される、せめてもの薬物であり、決して生きるに不可欠な滋味に溢るる教養ではない。