はてしないひらひら

尾ひれは沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

まことオルフェの首

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(G.Moreau,1865)

 

 アニメ『スクイズ』最終回、最後のシーンはギュスターヴ・モローの手による『オルフェウスの首を抱くトラキアの娘』(1865)のオマージュなのだーーと見立てられたなら、差し当たりその生首がカバンの中から文字通り顔を覗かせる唐突な登場も差し当たり、あそこまで注目されることもなかったろうにと思ったりする。

 

 放送中止になった理由としての「凶器」の方が俗世間的にとっては、またマニアにとっては「お腹の中」に視線が注がれた訳だが、そんな中で、突然現れた生首の方は案外スルーされているようで、だから個人的には尚更気掛かりで仕方がなかった。

 ありゃ、一体なんだ?

 生首は果たして、物語的必然にも含まれない、唐突な小道具としてやってきたかのように映り、この小道具がどんな意味を持つのか、気になったものの、そういった素直な鑑賞は中々少ない気がして、また、そんな素直な鑑賞も出来ないような自分の至らなさを恥じる気持ちからも、これまで積極的には考えようとしなかった。

 今回、素直に考えてみた。

 

 ゴーゴンの首ではあるまいが、その生首を見せ付けることで相手を動揺させ、その隙を突いて襲おうという魂胆であったのならば、中々言葉は策士である。ただ、そんな策士的な演出の小道具としての生首なら、それは甚だ詰まらないものである。全く物語の解釈や道具の見立ては、より対象を興味深く、趣深いものにする為の手段であらねばならぬーーというのが、筆者自身の信条でもある。

 閑話休題

 脇に置かれたカバンの中身は、最後、事がひと段落した後、娘の胸にひしと抱かれて、そこに収まる。「彼ら」を載せた天際に浮かんだ船は夕日を背に影を描き、物語はそのシーンを映して幕を閉じる。

 果たしてこの場面において、ある種の調和がそこには描かれているものと見立てる事は可能であると思う。それをそうだと説明する為に、今回モローの画を引用した次第である。

 果たしてこの絵画においては、娘(女性)に抱かれた男の生首は、性的にも対照的な死の象徴である。対立する二つの概念の調和を描こうとしていた画家の魂胆があると言われている。

 その詳しい思想的背景についての話は別の機会に置き、果たしてこの画家の示唆が『スクイズ』の最終回は更に見応えのあるものにするのではなかろうかーーと、筆者は果たして考えたりすのである。

 無論、そんな深く考えてしまう辺りが、無粋の極みで、「話を読めていない」証拠である。元来、感覚として分からないようであれば、分かったフリをするより仕方がないのであって、その為に考えているのだから、それは当然なのだが、いかんせん、感ぜられないのは、どうしようもない。

 

 滅多矢鱈、血飛沫やら胎を割くシーンばかりに気を取られてしまいがちだが、この物語は、過程において散々に血は流れたものの、その結末においては目出度く、恋人同士が結ばれる、大団円を迎えているように筆者は素直に考えるのである。

 その「大団円」と言うのは、果たして俗的なハッピーエンドとは様相著しく異なっているが、このヒロインと、故人となった主人公の関係というのは最早、この世のものではない、神秘的な関係である。心中よりもこの関係は、確かな関係であろう。というのも、両者の生死は明白だからである。

 しかも、物語で一番不確かさに揺れる要素であった主人公が死んだことで、事態はすっかりシンプルになった。彼が生きている間、不確実性に脅かされ続けた関係は、彼の死により、一転してかなり強固なものとなった。

 その関係が、全く揺るぎない、盤石なものにする為に別の女を殺すのも、その後に遺児がいないか探すのも、道理である。故人の心中を察せられるのは、一人で十分である。確りとトドメを欠かさない点は、個人的に気に入っている。

 

 よくよく練られた物語であろうーーというのが、最終的な筆者個人の感想であり見解である。断定出来ないのは、自分がこの作品を最後までちゃんと鑑賞出来たと納得出来ていないからである。自意識過剰なのが熟悔やまれる。

 なお補足だが、結局、物語中で殺される人物は調べてみたら、男も女の方も不人気投票でダントツであるそうで、この辺り、ちゃんと物語的にカタルシスが用意されているのは、素晴らしい配慮だと感じた。

 そんな嫌な奴が、お互い啀み合った末に嫌な死に方をして、最後の最後に翻弄されていた薄幸のヒロインが報われる。

 これがもし、私の考え過ぎでなかったとしたら、まこと、『スクイズ』は結構な物語である。