はてしないひらひら

尾ひれは沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

鍋で食う映画

 ティム・バートンの映画『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』を見た。偶々、有線放送でやってたから観たが、そうでもなかったら観ようとも思わないジャンルの映画だったので、存外新鮮で素直に面白かった。観ようと思って観た訳ではなかったから、深く考えないで気楽に鑑賞出来たのが何より良かった。

 呆けっと観るにせよ、それが観ていて余り愉快と言えないような作品は矢張り詰まらないのであって、呆けっと観ていても、気付けば真摯に鑑賞しているーーそれくらいのものでないと、多分自分なんかは観ていられないのだと思う。

 

 ひとが真剣に、手間をかけて作った作品に挑む態度としては下々の下だろうが、偶にはソファに寝っ転がって観たくもなるのが人の性であろう。少なくとも、自分なんかは時偶そんな気持ちになる。

 とはいえ、本当にテレビの前に寝っ転がって見るかーーというとそうでもない。誰も居ないリビングで、感覚としては、電話の子機で人と話している時の様な感じで観ている。平気で席を離れるし、チャンネルも回す。他の用事を片付けながら、立ったり座ったりしながら、基本的に同じ画面の前に長く座っていない。今日は晴れてたから、洗濯物を干したり取り込んだり畳んだり、忙しかった。

 ながら作業でテレビを観ていると、飛び飛びで追うものだから、話の細かいディテールとかが分からなくなり、大雑把にどんな風に物語が進行しているのかーーという程度しか気に止まらなくなる。その上で、注意力散漫になっているから、瑣末な、どうでも良さそうな事に気が向くようになる。人物の髪型とか、化粧とか服装とか小道具とか、具体的な目に見えるものに気を取られがちになった。

 総じて今日の収穫というのは、普段ならば、過剰でクドくて鬱陶しくも感じられてしまう目まぐるしいばかりの映像も、それくらい等閑に接してみると、案外、「おいしく」楽しめるーーという「コツ」の発見であった。

 言うなれば、吟味する事なく嚥下する作法である。食べ方で言えば、中々下々である。白魚か何かの踊り食いみたいな見方である。

 

 ガツガツ食うには、繊細な味付けは寧ろ不適切ーーというのは、大学近所のラーメン屋や定食屋の傾向から学んでいたが、今日の娯楽映画や通俗映画の洪水のような視覚情報も、大衆食堂的な発想から、濃い味付けがなされているのだろうーーと振り返って思った。本当の所は如何か知らない。折角予算が降りたのだから、アレコレ試してみたいーーという冒険心が幾らかあるのかも知れないが、でも、そんな研究者の意見は大抵、失敗した時の損失を危惧するスポンサー等から却下される。大抵の場合は、ある程度、収益の見込める、常套手段がベースになる。変わるのは、パンの間に挟む具材や、丼に装った飯の上に載っける具材でしかない。だから、所詮どれだけ「新感覚」とか「画期的」とか言った所で、同じモノ許り食べている事には相違ない。でも、だからこそ、食堂に通う客の方からしたら、安心して箸を付ける事が出来る。

 

 味に拘らず、取り敢えず手軽に腹を満たしたい。そんな「取り敢えず」で、嗜好品を求める人が多い事は薄々察していたが、いざ、そんな飲み放題のある居酒屋の暖簾を潜るみたいに、映画を観る事には、未だに抵抗がある。

 映画を高級品ーーと見做すのは時代錯誤も甚だしい、と思われそうだ(加えて言えば、これは頗る「貧乏人」の発想にも思われる。自分で書いておいて書くのも何だが)。

 

 果たして昨今のテレビ局職員の過労死だとか、アニメーターの貧困問題とか見るにつけ、そうした事情・状況は、本来ならば、大衆食堂で野球中継宜しく放映出来るような代物でも有ろう筈ないものを無理矢理提供しようとしている所為もあるだろうと考えてしまう。そしてまた、それに拍車を掛けているのが広告代金であろう。 利用者から月々の料金を一々徴収するのと比べたら、言い値で買ってくれるようなスポンサーが居たら其方がずっと局にとっては有難いだろう。

 詳しい事は知らないので、飽くまで仮定の話であるが。

 

 結局、映画に幾らなら出せるかーーと言った時、しがない小市民が精々これ位、と言って提示する額は、企業の出せる「広告宣伝費」と比べたら赤子の手の小指の逆剥け程度のものである。

 それに、観客は映画が出来上がってからしか払わない訳だから、結局、その時必要ないタイミングで援助出来る人の注文というのが至上となる。そして、彼ら出資者の思惑というのは、決して彼ら自身が観たいものを作ることではないのだから、自ずと、味付けは大味な、炭水化物に塩と油と、少々の香辛料を塗したジャンクフードが出来上がるーーという寸法であろう。卵が欲しければ、チャボの好みを知悉すれば良く、鶏小屋に住む必要もなければ、麩の味を知っておく由もない。

 所詮、世の中そんなものであろう。ただ、自分なんかはチャボはチャボなりの楽しみに生きれば良いと考えていて、世間で騒がしい活動家の警告というのは、寧ろ卵が産まなくなったチャボ達の翌日の末路という事に殆ど頓着していない辺りが、夢想家の厄介な戯言という風にしか受け止められない。その日暮らしの生活に、健康的とか文化的とかいう価値は削ぐわない。だからと言って、それらの価値を贅沢という気は更々ない。「食べられるだけマシだろう」という意見にはちっとも賛同しかねるし、20パーセントしか入っていない、ブルーマウンテン・ブレンドを嗜好品とは認めやしない。

 

 今日、巷に溢れる「嗜好品擬き」は、「代用品」と言った方が一寸はマシかも知れないが、同じ事であろう。

 「代用品」を頭から否定したいのでもない。唯自分は、代用品を嗜好品だと見做す事に辟易しているだけなのだ。食べ欠けのビッグマックをゴミ箱に捨てる生活を維持する為の、なりふり構わぬ行動を是々非々する積りもなければ、工場で作られた、馬鈴薯から絞った澱粉を原料にしたお供物に激昂している訳でもない。

 

 だったら何なんだ、では何が言いたいんだ、貴様は? ーーと問われそうだが、自分の言いたい事は、唯それ丈なのだ。

 同じ映画でも、立って観るか、座って観るかーー人によってその価値は違うだろうが、その自分にとっての価値を他と比べてあれこれ詮議した所で、それは全く不毛である。各々が、自分の箸と器で以って、黙々と食事をすれば良い。そして、腹が空いた時に食事はすれば良いのである。その時に、自分が失敗しないように、自分の味覚を知悉しておく必要がある。

 他人の趣味を知って置く必要は本来ないのだ。口と胃袋は一つしかないし、他人の味覚は自分の食事に関係ないし、自分は別に、卵売りになろうとしている訳じゃない。

 

 

 そんな事を、バーキンのBoxセットを食べながら考えた。ナゲットも頼んだ。因みにソースはBBQである。