ヤンデレ研究(2)――「ポンペイ夜話」
前回の続きだが、「菊花の約」で武士がヤンデレ臭い、と筆者が述べたのは、友人との約束を守る為とは言え、それを守る上で武士らしさを追求した点にある。
そこで、今回からは「らしさ」という観点から、ヤンデレ(者)について考えていきたい。
また、今回はテオフィル・ゴーティエの短編小説「死霊の恋」と「ポンペイ夜話」を例にとり検討した。(とはいっても、斯ういう遣り口は筆者自身、我田引水が幾らでも出来そうで好む所ではないのだが……)
岩波文庫から両者は一冊の本にまとめられているので、比較的読みやすい。
粗筋は今回、省略して話を進める。
結論から言うと、「死霊の恋」よりも「ポンペイ夜話」の方が「ヤミ」が深い。しかし、この物語の主人公は決して、ヤンデレではない。寧ろ、その男の思いに応えてか、デレて見せた古代ローマ・ポンペイの死霊の方が、ずっと「ヤンデレしている」。
この「ポンペイ夜話」において、女の死霊は、胸の痕跡だけ残っていたのを、この痕跡に思わず心を奪われてしまった男の熱意に応えて姿を現した訳だが、果たしてここでも、死霊は男の為に、その痕跡に応じて姿を現したのであった。
なお、有名な話だがこの胸の押し型は嘗て実在し、それが在った場所はこの小説の発表後に今でいう「聖地」化したそうだが、今は失われてしまったという。
武士にしろ、死霊にしろ、彼らが幽霊になったり、或いは肉体を持った姿を現したりするのは、一旦、武士道なり、押し型だったり、何がしか「空虚な」器が必要なのである。
死霊の場合は、男の熱意、熱い愛情が正にその押し型を満たした結果、死霊が姿を現したのであって、片や武士の方は友情とか何かそういうものが彼の武士道なり美学を満たして、無事約束を守る事が出来たのである。
ヤンデレというのは、蓋しこの空虚な器が存在しなければ、当事者の間に介在していなければ生じない。
この事については、次回、その理由を論じたいと思う。
(つづく)