はてしないひらひら

尾ひれは沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

進化したテープレコーダ(調整中)

 いつか見たヒロインが帰って来た。

 第一印象はそれである。なんというか、

「そうか、世間ではこういう風に受容されるのだなぁ……」

とか。何やら不謹慎なことを思ったりした。

 

 ヤンデレとAI、アンドロイドでは随分な差があるーーと世間では思われそうである。だが、この両者の距離はそう遠く隔たってはいない。そもそもが、どちらも「人間によく似た何か」という風に描かれることが往々である。去年流行った映画のヒロインも又、然り。原作のライトノベルでは、完全にリドル・ストーリーに出てくる怪物然として描かれていた。

 

 2000年代の末に、ゲームとラノベの両ジャンルの爛熟した結果、仇花的に出来した「ヤンデレヒロイン」を皮切りとする系譜は、ミスリードによって混乱した2010年代前半を経て、又もや十年紀の末になって昇華し、今十年紀に見事な花を咲かせた。

 何も、その細身な体に似合わぬ怪力と、暴力性を発揮すれば「ヤンデレ」ではない。何より重要な要素は、その得体の知れなさーー“何故、「それ」は特定の人間に執着するのか?”ーー是に尽きるものであると言えよう。

 

 それは愛なのか、或いは誤謬なのか?

 「ヤンデレ」の物語は、基本的には「逆・ピグマリオン」であり、それは人造人間の物語に範を取るものである。

 得体の知れないものが、ひたすら、何かよく分からない理由で自分に迫って来るーーそれが果たして、好意の故にであるようだがーー出来事に対するリアクションを描く物語は「コメディ」にカテゴライズされるものだが、そのコメディは、元より不穏な状態を戯画化したものである。「ヤンデレ」がラブコメの亜種として登場したのは、ある意味で必然というか、そのジャンルの成熟の末に起こるべくして起こった反応とも言える。

 

 同じ言葉を繰り返す壊れたテープレコーダが、それはそれとして、そういう機械として安定し、更に何か別の挙動を見せたとしたら、それは最早、「テープレコーダ」の枠を超えた何か、と見るべき対象となる筈だが、すると、厄介なのは、この「テープレコーダではなくなったもの」に人間は、名前を付けなくてはならない問題に直面する事である。

 そうでもしないと、とてもではないが落ち着いていられないーーというのが、果たして人間の性分である。

「名前は、あることが大切だ」

とは、蓋し名言である。

 

 正気か、狂気かーーという問題をマイルドに描こうとする時に、注目のヒロインを人間から人形(マシン)にしてしまうというアイデアはなかなかに秀逸である。

 別にこのアイデア自体は、古典的だし、使い回されたものである。けれども、その時々において、その道具立てが持つリアリティとかメッセージとかは変化して来るもので、通史的に見るとそのバラエティは興味深いの一言に尽きる。

 

 ただ、如何頑張っても自分には、到頭(実写化はされたけど)アニメ化はされなかった、お気に入りのラノベのヒロイン像が、アニメーション映画の中で換骨奪胎されたとはいえ、しかとこの目で見る事が出来たという感想を、強いて後陣に回す事はとても本意ではない。

 矢張り、アレはそう、「壊れたテープレコーダ」の進化系なのである。ヤンデレヒロインは、壊れているのではなく、何かその一念の為に変化した存在であり、その結果、何か人の枠を超えてしまったものが、その「暴走」を鎮める車止めに衝突して“対消滅”するまで、破壊と乱痴気騒ぎを延々と続けるーーそれがジャンルとしての「ヤンデレ」に登録される物語の(乱暴に言って仕舞えば)本質なのである。

 行き着く果てのないリドル・ストーリーではなく、その妄想と狂気とが既存の現実を改変し、新たな地平に到達した暁には、妄想と狂気が現実に取って代わるーーその過程を描く物語が「ヤンデレ」なのである。

 待ち受けるのは、大どんでん返しであり、ちゃぶ台返しである。それこそ、『8時だよ!全員集合』や、『お江戸でござる』の笑撃のラストの様にーー。

 

 言ってしまえば、ヒロインが血みどろになるのも、その怪力も、謂わば革命の殺戮を象徴化した属性に過ぎないのである。そうでもなければ、彼女らはどんでん返しも、世界を革命する事だって出来やしないのである。

 「人間ギロチン」と化した彼女らが、サンソンとは全くの別物である事は言うまでもない。

 

 極々小規模な革命は、斯くして誤解されて2010年代の前半を過ごしたが、この間に巷で起こっていた事を顧みると、なかなか如何して矢張り仕方のない事であったようにも意地悪く思われる次第である。

 矢張り暴力ーーギロチンが全てを解決する、という事を言わないで済ませようと、あの手この手でプロパガンダシュプレヒコールを頑張った所で、土台無茶があるものである。イェルサレムを目指した農民十字軍や少年十字軍でもあるまいに、それはもう失敗する事が目に見えたレジスタンスであった。

 

 そんな現実の儚いレジスタンスが、性懲りも無く、中島みゆきの歌でもあるまいに反復されてフェードアウトした頃に台頭して来たのが、「ヤンデレ」というレッテルを剥がした、純粋な怪物としてのヒロイン達であった。

 わざわざ此処で、バタイユの『ジル・ド・レ論』を挙げるのも無粋であろうが、ジャンヌ・ダルクを語る上では結局、この怪人物の存在が不可欠なように、やたらに美しく、その聖性によって化け物じみてしまった彼女らを語る上で、世を憚る呼称として削り取られた「ヤンデレ」なるレッテルは、日の目は見ずとも、そうした前段階があったという事は人々の記憶の底に残置されるべきーーと思われてならない。

 

(2021/11/25)

 

 

追記:憂国忌にこんなもん、書いて如何する。