はてしないひらひら

尾ひれは沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

進化したテープレコーダ(調整中)

 いつか見たヒロインが帰って来た。

 第一印象はそれである。なんというか、

「そうか、世間ではこういう風に受容されるのだなぁ……」

とか。何やら不謹慎なことを思ったりした。

 

 ヤンデレとAI、アンドロイドでは随分な差があるーーと世間では思われそうである。だが、この両者の距離はそう遠く隔たってはいない。そもそもが、どちらも「人間によく似た何か」という風に描かれることが往々である。去年流行った映画のヒロインも又、然り。原作のライトノベルでは、完全にリドル・ストーリーに出てくる怪物然として描かれていた。

 

 2000年代の末に、ゲームとラノベの両ジャンルの爛熟した結果、仇花的に出来した「ヤンデレヒロイン」を皮切りとする系譜は、ミスリードによって混乱した2010年代前半を経て、又もや十年紀の末になって昇華し、今十年紀に見事な花を咲かせた。

 何も、その細身な体に似合わぬ怪力と、暴力性を発揮すれば「ヤンデレ」ではない。何より重要な要素は、その得体の知れなさーー“何故、「それ」は特定の人間に執着するのか?”ーー是に尽きるものであると言えよう。

 

 それは愛なのか、或いは誤謬なのか?

 「ヤンデレ」の物語は、基本的には「逆・ピグマリオン」であり、それは人造人間の物語に範を取るものである。

 得体の知れないものが、ひたすら、何かよく分からない理由で自分に迫って来るーーそれが果たして、好意の故にであるようだがーー出来事に対するリアクションを描く物語は「コメディ」にカテゴライズされるものだが、そのコメディは、元より不穏な状態を戯画化したものである。「ヤンデレ」がラブコメの亜種として登場したのは、ある意味で必然というか、そのジャンルの成熟の末に起こるべくして起こった反応とも言える。

 

 同じ言葉を繰り返す壊れたテープレコーダが、それはそれとして、そういう機械として安定し、更に何か別の挙動を見せたとしたら、それは最早、「テープレコーダ」の枠を超えた何か、と見るべき対象となる筈だが、すると、厄介なのは、この「テープレコーダではなくなったもの」に人間は、名前を付けなくてはならない問題に直面する事である。

 そうでもしないと、とてもではないが落ち着いていられないーーというのが、果たして人間の性分である。

「名前は、あることが大切だ」

とは、蓋し名言である。

 

 正気か、狂気かーーという問題をマイルドに描こうとする時に、注目のヒロインを人間から人形(マシン)にしてしまうというアイデアはなかなかに秀逸である。

 別にこのアイデア自体は、古典的だし、使い回されたものである。けれども、その時々において、その道具立てが持つリアリティとかメッセージとかは変化して来るもので、通史的に見るとそのバラエティは興味深いの一言に尽きる。

 

 ただ、如何頑張っても自分には、到頭(実写化はされたけど)アニメ化はされなかった、お気に入りのラノベのヒロイン像が、アニメーション映画の中で換骨奪胎されたとはいえ、しかとこの目で見る事が出来たという感想を、強いて後陣に回す事はとても本意ではない。

 矢張り、アレはそう、「壊れたテープレコーダ」の進化系なのである。ヤンデレヒロインは、壊れているのではなく、何かその一念の為に変化した存在であり、その結果、何か人の枠を超えてしまったものが、その「暴走」を鎮める車止めに衝突して“対消滅”するまで、破壊と乱痴気騒ぎを延々と続けるーーそれがジャンルとしての「ヤンデレ」に登録される物語の(乱暴に言って仕舞えば)本質なのである。

 行き着く果てのないリドル・ストーリーではなく、その妄想と狂気とが既存の現実を改変し、新たな地平に到達した暁には、妄想と狂気が現実に取って代わるーーその過程を描く物語が「ヤンデレ」なのである。

 待ち受けるのは、大どんでん返しであり、ちゃぶ台返しである。それこそ、『8時だよ!全員集合』や、『お江戸でござる』の笑撃のラストの様にーー。

 

 言ってしまえば、ヒロインが血みどろになるのも、その怪力も、謂わば革命の殺戮を象徴化した属性に過ぎないのである。そうでもなければ、彼女らはどんでん返しも、世界を革命する事だって出来やしないのである。

 「人間ギロチン」と化した彼女らが、サンソンとは全くの別物である事は言うまでもない。

 

 極々小規模な革命は、斯くして誤解されて2010年代の前半を過ごしたが、この間に巷で起こっていた事を顧みると、なかなか如何して矢張り仕方のない事であったようにも意地悪く思われる次第である。

 矢張り暴力ーーギロチンが全てを解決する、という事を言わないで済ませようと、あの手この手でプロパガンダシュプレヒコールを頑張った所で、土台無茶があるものである。イェルサレムを目指した農民十字軍や少年十字軍でもあるまいに、それはもう失敗する事が目に見えたレジスタンスであった。

 

 そんな現実の儚いレジスタンスが、性懲りも無く、中島みゆきの歌でもあるまいに反復されてフェードアウトした頃に台頭して来たのが、「ヤンデレ」というレッテルを剥がした、純粋な怪物としてのヒロイン達であった。

 わざわざ此処で、バタイユの『ジル・ド・レ論』を挙げるのも無粋であろうが、ジャンヌ・ダルクを語る上では結局、この怪人物の存在が不可欠なように、やたらに美しく、その聖性によって化け物じみてしまった彼女らを語る上で、世を憚る呼称として削り取られた「ヤンデレ」なるレッテルは、日の目は見ずとも、そうした前段階があったという事は人々の記憶の底に残置されるべきーーと思われてならない。

 

(2021/11/25)

 

 

追記:憂国忌にこんなもん、書いて如何する。

異世界の風(転載)


「遠くへ行きたい」という欲動は、文学の深淵から絶えず吹き上がる突風である。
ところで、そんな欲動とは別に、その場に留まろうと欲する気持ちもまた、地上には存在する。

上野のパンダの檻の周りを想像してみれば能くそのことは分かるだろう。
早く見たい、見たい、という気持ちに駆り立てられて進んで行く内に、肝心のパンダの姿は熟視するまでもなく、視界の端へと追い遣られていく。
自由ならないものである。

昨今の異世界系と呼ばれる一群の物語と日常系と呼ばれる物語は根本的には相容れない、水と油のような関係にある。
今、ここではない何処か遠くを志向する異世界系が、日常として成立する状況は、移動し続ける過程のみである。冒険そのものが、日常であり、その日常が物語として描かれている。

対する日常系は、待ち受ける波瀾万丈の冒険の先にある。
とはいえ、そこに於ける日常の風景というのは、単なる前線の後方に過ぎないという事実が忘却された、退屈な冒険の様子を描いたものであるーーという事も可能である。
ただ、その指摘は、単に日常という語を言い換えたに過ぎず、死ぬ程退屈な、詰まらない日常として冒険を描き出したい感情について、言及するには至っていない。

異世界に於いても一瞬も途切れる事のない冒険物語は、読者にとって、一瞬も忘れる事の出来ない日常というものを、前提として初めて成立する娯楽である。
その恒常的な恐慌状態に於いて、得る事の出来ない退屈な冒険を供給してくれる一群の物語というのが、仮に日常系と呼ばれるジャンルに属する諸作品であるとするのであれば、その需要が遂にそのジャンル自身で以って賄えなくなり、日々の退屈を紛らわしてくれていた異世界系というジャンルさえも、その一部を日常系のラインへと切り替えなければならなくなった状況に於いて、『異世界日常系』なる物語は成立し得るものと考えられる。

折角の異世界にあっても、当たり障りの無い日常生活が求められる。宛ら、その嗜好は、古代エジプトの死者の柩の内に収められて副葬品からも見て取る事が出来る。
但し、今日の異世界日常系と呼ばれる物語の傾向は、現世と同じ水準の生活を他界でも送ろうという消極的な姿勢よりは寧ろ、転生先を新天地と見做して、そこでひと旗挙げようという、活力に溢れた、積極的且つ意欲的な人物達の姿勢を描いて見せる所に、荒唐無稽ながらもその独特の魅力の源はあると言えるだろう。

勿論、全ての異世界日常系に於いて、転生先は輝かしいフロンティアとして描かれているかと言えばそうではない。
とはいえそこは、懸命に努力を重ねれば、例え他所の世界から移り住んで来た、何の後ろ盾もない一異邦人であっても、日常を享受する事の出来る範疇として描かれている。

こうした需要の高まりが、果たして前提としている社会状況の変化については、専門家でも無い筆者が如何の斯うのと識者振りに語るのは控えたい。現状分析については、今をときめく、社会学者、経済アナリストの優れた記事が綺羅星の如く、遥か天空に満ち満ちている。

但し、だからと言ってそれらの研究に阿って、筆者が小文を認めたという事は決してそうではない。また、語弊があって、命懸けの危険な冒険を描いた物語よりも、何処かに根を下ろし、そこで先ずは生活の本拠を営むという細やかな、然し困難な物語が劣っているとか、或いはそうした物を読みたがるのは軟弱だ、とか主張したいのか、と思われているようであるならば、筆者はそれについても、断じて否である。

強いて言うなら、筆者はこの日常系と異世界系という二つの物語への志向が、そもそもの物語に対する読者の志向の始原であると言いたい。
「自分とは何者で、いかに自分はあるべきか、否や」という問いは、先ずは一旦、この安定した土台が築かれない内には、それこそ、地に足のつかない、眼差しも文字の上を滑るようにしか読み取る事は出来ないであろう。道なり軌道なりが建設されない内は、またそこからの逸脱というものも有り得なかろう。

窮屈で味気ない印象を甘受する事が、果たして今日、仮に現実世界に於ける日常からは望むべくもない。そう考えるのであれば、彼らの想像力が、異世界という新天地に及んで、その領域に於いて自分たちが「逸脱」を可能にする為の、確固たる安定したレールを敷設せんとするのは、果たして何の不思議もない。
そして、そのフロンティアに於いては、先ずはその前哨基地ともいうべき、営々たる生活の土台を築かんと欲し、軈ては其処で新天地には相応しい新秩序なるものを、如何様な手段によってなされると雖も、自らが敷設したレールの上に建設せんと欲する事は、実に容易に想像可能である。
然も、これらの冒険は、果たして一切が架空の、謂わば机上に置かれた紙面上に於いて繰り広げられる。その限りには、読者はその冒険者としての責任は一切免れる事が出来る、絶対安全圏に身を置く事が出来る。その安全圏というのが、例え読者にとって如何にも酷薄な環境であったとしても、決して彼らはその世界で後に犯罪者として裁かれる事はないのである。

想像の翼は、現実の領域に着地せぬ内には無垢でいられる。
然し、そうしている内にも痩せ衰えていく。生身の身体と自己自身というのは、忘却されるべきではない。
果たして嘗てに於いて説かれるべきであったは、無限の退屈に対する忍耐よりも、寧ろ有限の恐慌に対する降参ではなかったか。衰微する現実を見限るでもなく、引いた一線向こうの異世界に対する憧憬と、そこに己の有り得た可能性を投影し続けること。そして、行く行くはその眺めていた対象が喪失した後にも、残された日々の中で、その眼差しを忘れず淡々と己が生活を送ることーーそこには、ただただ見上げる許りの緩怠がある。その倦怠こそが、紛れもなく、読者の憧れた逸脱を可能にする、退屈であるまいか。
例え虚構の空が下であったとしても、そこへ意識を運ぶ事で有終の美を飾れるーー此のことが、果たして今日読者の心を捉えて離さない物語の魅力であると言えまいか。如何に。

ヤンデレ研究(3)――「みーまー」

 

 漸く、ここからが本論の様な気がするが、しかし肩肘張ってやろうと思うと失敗しそうなので、あんまり意気込まないように気を付けたい。

 

 先の空虚な器という話は、入間人間の「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」に於いては「みーくん」という名前で登場する。

 これは、(例の如く詳細は省くが)ヒロインの彼氏であるが、果たしてそれは空位のアカウントとして存在する。

 本作はこの「みーくん」を、主人公が勤めようとして、その度に七転八倒、葛藤するお話である。

 

 因みに、本作は以前にも何処かで触れたが、2000年代後半に於いて、恐らくはラノベで「ヤンデレ」というジャンルに割り振られた最初の作品である。

 何がヤンデレなのか、と筆者が考える切っ掛けになった事は、敢えて言うまでもない事かも知れないが、一応、筆者が何かヤンデレとは……と考える際には、本作が念頭にある事は、述べて置く必要があると思い余談だが記した。

 

 ヤンデレ者は、この空位のアカウント――空虚な器と自身とを結びつけることでヤンデレ者となる。

 ポンペイの死霊であればその胸型に注がれた愛を糧に、武士であれば友情を自身の美学に注ぎ込んで、ヤンデレ者となる。「みーまー」では、主人公の様々の感情のチャンポンが「みーくん」に注がれる。すると、それまで活動していなかったアカウントである「みーくん」が動き出し、そのフォロワーである「まーちゃん」も序に活動を再開する。

 蓋し、ヤンデレとはおままごと、「プレイ」なのであるが、このプレイに必要なコスチューム……空虚な器は、必ずしも、既成のものである必要はなく、何となれば自由に用途に合わせて「捨てアカ」宜しく作って仕舞えばいいのである。

 

 この事については、また次回。

 

 (つづく)

ヤンデレ研究(2)――「ポンペイ夜話」

 

 前回の続きだが、「菊花の約」で武士がヤンデレ臭い、と筆者が述べたのは、友人との約束を守る為とは言え、それを守る上で武士らしさを追求した点にある。

 そこで、今回からは「らしさ」という観点から、ヤンデレ(者)について考えていきたい。

 

 また、今回はテオフィル・ゴーティエの短編小説「死霊の恋」と「ポンペイ夜話」を例にとり検討した。(とはいっても、斯ういう遣り口は筆者自身、我田引水が幾らでも出来そうで好む所ではないのだが……)

 

 岩波文庫から両者は一冊の本にまとめられているので、比較的読みやすい。

 粗筋は今回、省略して話を進める。

 結論から言うと、「死霊の恋」よりも「ポンペイ夜話」の方が「ヤミ」が深い。しかし、この物語の主人公は決して、ヤンデレではない。寧ろ、その男の思いに応えてか、デレて見せた古代ローマポンペイの死霊の方が、ずっと「ヤンデレしている」。

 

 この「ポンペイ夜話」において、女の死霊は、胸の痕跡だけ残っていたのを、この痕跡に思わず心を奪われてしまった男の熱意に応えて姿を現した訳だが、果たしてここでも、死霊は男の為に、その痕跡に応じて姿を現したのであった。

 なお、有名な話だがこの胸の押し型は嘗て実在し、それが在った場所はこの小説の発表後に今でいう「聖地」化したそうだが、今は失われてしまったという。

 

 武士にしろ、死霊にしろ、彼らが幽霊になったり、或いは肉体を持った姿を現したりするのは、一旦、武士道なり、押し型だったり、何がしか「空虚な」器が必要なのである。

 死霊の場合は、男の熱意、熱い愛情が正にその押し型を満たした結果、死霊が姿を現したのであって、片や武士の方は友情とか何かそういうものが彼の武士道なり美学を満たして、無事約束を守る事が出来たのである。

 

 ヤンデレというのは、蓋しこの空虚な器が存在しなければ、当事者の間に介在していなければ生じない。

 この事については、次回、その理由を論じたいと思う。 

 

 (つづく)

 

ヤンデレ研究(1)――「青頭巾」「菊花の約」

 「痘痕も靨」というのは、決してヤンデレ状態にある人――以下、ヤンデレ者という――を揶揄して言っている訳ではなかろう。

 では、ヤンデレ者とは何者で、どんな有り様なのだろうか?

 無計画に、研究してみようと思う。

 今回は、上田秋成雨月物語』の「青頭巾」と「菊花の約」を検討してみようと思う。

 

 「青頭巾」は、可愛がっていたお稚児さんが死んでしまったのを悲しみ、悼み惜しんだ挙句、その死体を食べてしまったが故に食人鬼になってしまった元・お坊さんのお話である。果たして、このお坊さん、基食人鬼はヤンデレ者か否か……。

 結論から言うと、2010年代後半の今日に於いては、微妙な所である。

 メンヘラかも知れないが、ヤンデレではない。

 

 次に「菊花の約」だが、これは話すとうんと長くなるが、要するに、ある男の友人である武士が、会うと約束したのに、どうにもその約束が守れそうにないと分かって、一計案じて自害して幽霊となり、彼の許を訪れる――という内容の物語である。

 既に、色々と論じられているようだが、果たしてこの自害して果てた武士はヤンデレか、というと、矢張り今日日、微妙な所であろう。

 しかしながら、筆者は寧ろ、「青頭巾」よりも、この約束を守ろうとして死んだ武士の行為から、ヤンデレ臭さを感じるのである。

 それは彼が信義ある武士として、何とか友人との約束を守ろうとした事に由来する。

 

 何かと言えば、「菊花の約」は衆道と絡めて論じられがちであるが、だからと言って自分はプラトニック・ラヴとか、BLを論じたい訳ではない。

 だが、実は非常に密接に関係している、という事は重々承知しているのだけれども、流石にそこまで手を出すと、現段階では収拾がつかないので、今は見て見ぬふりをしているのが、正直な所である。

 また、この武士の行動の動機とかを考える時に、武士道とかなんとかと呼ばれている美学や哲学、思想も本来なら考慮に入れなければならないのだが、果たして、それも又自分の手には余るので、ここは素通りにして先に進もうと思う。

 

 (つづく)

鍋で食う映画

 ティム・バートンの映画『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』を見た。偶々、有線放送でやってたから観たが、そうでもなかったら観ようとも思わないジャンルの映画だったので、存外新鮮で素直に面白かった。観ようと思って観た訳ではなかったから、深く考えないで気楽に鑑賞出来たのが何より良かった。

 呆けっと観るにせよ、それが観ていて余り愉快と言えないような作品は矢張り詰まらないのであって、呆けっと観ていても、気付けば真摯に鑑賞しているーーそれくらいのものでないと、多分自分なんかは観ていられないのだと思う。

 

 ひとが真剣に、手間をかけて作った作品に挑む態度としては下々の下だろうが、偶にはソファに寝っ転がって観たくもなるのが人の性であろう。少なくとも、自分なんかは時偶そんな気持ちになる。

 とはいえ、本当にテレビの前に寝っ転がって見るかーーというとそうでもない。誰も居ないリビングで、感覚としては、電話の子機で人と話している時の様な感じで観ている。平気で席を離れるし、チャンネルも回す。他の用事を片付けながら、立ったり座ったりしながら、基本的に同じ画面の前に長く座っていない。今日は晴れてたから、洗濯物を干したり取り込んだり畳んだり、忙しかった。

 ながら作業でテレビを観ていると、飛び飛びで追うものだから、話の細かいディテールとかが分からなくなり、大雑把にどんな風に物語が進行しているのかーーという程度しか気に止まらなくなる。その上で、注意力散漫になっているから、瑣末な、どうでも良さそうな事に気が向くようになる。人物の髪型とか、化粧とか服装とか小道具とか、具体的な目に見えるものに気を取られがちになった。

 総じて今日の収穫というのは、普段ならば、過剰でクドくて鬱陶しくも感じられてしまう目まぐるしいばかりの映像も、それくらい等閑に接してみると、案外、「おいしく」楽しめるーーという「コツ」の発見であった。

 言うなれば、吟味する事なく嚥下する作法である。食べ方で言えば、中々下々である。白魚か何かの踊り食いみたいな見方である。

 

 ガツガツ食うには、繊細な味付けは寧ろ不適切ーーというのは、大学近所のラーメン屋や定食屋の傾向から学んでいたが、今日の娯楽映画や通俗映画の洪水のような視覚情報も、大衆食堂的な発想から、濃い味付けがなされているのだろうーーと振り返って思った。本当の所は如何か知らない。折角予算が降りたのだから、アレコレ試してみたいーーという冒険心が幾らかあるのかも知れないが、でも、そんな研究者の意見は大抵、失敗した時の損失を危惧するスポンサー等から却下される。大抵の場合は、ある程度、収益の見込める、常套手段がベースになる。変わるのは、パンの間に挟む具材や、丼に装った飯の上に載っける具材でしかない。だから、所詮どれだけ「新感覚」とか「画期的」とか言った所で、同じモノ許り食べている事には相違ない。でも、だからこそ、食堂に通う客の方からしたら、安心して箸を付ける事が出来る。

 

 味に拘らず、取り敢えず手軽に腹を満たしたい。そんな「取り敢えず」で、嗜好品を求める人が多い事は薄々察していたが、いざ、そんな飲み放題のある居酒屋の暖簾を潜るみたいに、映画を観る事には、未だに抵抗がある。

 映画を高級品ーーと見做すのは時代錯誤も甚だしい、と思われそうだ(加えて言えば、これは頗る「貧乏人」の発想にも思われる。自分で書いておいて書くのも何だが)。

 

 果たして昨今のテレビ局職員の過労死だとか、アニメーターの貧困問題とか見るにつけ、そうした事情・状況は、本来ならば、大衆食堂で野球中継宜しく放映出来るような代物でも有ろう筈ないものを無理矢理提供しようとしている所為もあるだろうと考えてしまう。そしてまた、それに拍車を掛けているのが広告代金であろう。 利用者から月々の料金を一々徴収するのと比べたら、言い値で買ってくれるようなスポンサーが居たら其方がずっと局にとっては有難いだろう。

 詳しい事は知らないので、飽くまで仮定の話であるが。

 

 結局、映画に幾らなら出せるかーーと言った時、しがない小市民が精々これ位、と言って提示する額は、企業の出せる「広告宣伝費」と比べたら赤子の手の小指の逆剥け程度のものである。

 それに、観客は映画が出来上がってからしか払わない訳だから、結局、その時必要ないタイミングで援助出来る人の注文というのが至上となる。そして、彼ら出資者の思惑というのは、決して彼ら自身が観たいものを作ることではないのだから、自ずと、味付けは大味な、炭水化物に塩と油と、少々の香辛料を塗したジャンクフードが出来上がるーーという寸法であろう。卵が欲しければ、チャボの好みを知悉すれば良く、鶏小屋に住む必要もなければ、麩の味を知っておく由もない。

 所詮、世の中そんなものであろう。ただ、自分なんかはチャボはチャボなりの楽しみに生きれば良いと考えていて、世間で騒がしい活動家の警告というのは、寧ろ卵が産まなくなったチャボ達の翌日の末路という事に殆ど頓着していない辺りが、夢想家の厄介な戯言という風にしか受け止められない。その日暮らしの生活に、健康的とか文化的とかいう価値は削ぐわない。だからと言って、それらの価値を贅沢という気は更々ない。「食べられるだけマシだろう」という意見にはちっとも賛同しかねるし、20パーセントしか入っていない、ブルーマウンテン・ブレンドを嗜好品とは認めやしない。

 

 今日、巷に溢れる「嗜好品擬き」は、「代用品」と言った方が一寸はマシかも知れないが、同じ事であろう。

 「代用品」を頭から否定したいのでもない。唯自分は、代用品を嗜好品だと見做す事に辟易しているだけなのだ。食べ欠けのビッグマックをゴミ箱に捨てる生活を維持する為の、なりふり構わぬ行動を是々非々する積りもなければ、工場で作られた、馬鈴薯から絞った澱粉を原料にしたお供物に激昂している訳でもない。

 

 だったら何なんだ、では何が言いたいんだ、貴様は? ーーと問われそうだが、自分の言いたい事は、唯それ丈なのだ。

 同じ映画でも、立って観るか、座って観るかーー人によってその価値は違うだろうが、その自分にとっての価値を他と比べてあれこれ詮議した所で、それは全く不毛である。各々が、自分の箸と器で以って、黙々と食事をすれば良い。そして、腹が空いた時に食事はすれば良いのである。その時に、自分が失敗しないように、自分の味覚を知悉しておく必要がある。

 他人の趣味を知って置く必要は本来ないのだ。口と胃袋は一つしかないし、他人の味覚は自分の食事に関係ないし、自分は別に、卵売りになろうとしている訳じゃない。

 

 

 そんな事を、バーキンのBoxセットを食べながら考えた。ナゲットも頼んだ。因みにソースはBBQである。

 

 

まことオルフェの首

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(G.Moreau,1865)

 

 アニメ『スクイズ』最終回、最後のシーンはギュスターヴ・モローの手による『オルフェウスの首を抱くトラキアの娘』(1865)のオマージュなのだーーと見立てられたなら、差し当たりその生首がカバンの中から文字通り顔を覗かせる唐突な登場も差し当たり、あそこまで注目されることもなかったろうにと思ったりする。

 

 放送中止になった理由としての「凶器」の方が俗世間的にとっては、またマニアにとっては「お腹の中」に視線が注がれた訳だが、そんな中で、突然現れた生首の方は案外スルーされているようで、だから個人的には尚更気掛かりで仕方がなかった。

 ありゃ、一体なんだ?

 生首は果たして、物語的必然にも含まれない、唐突な小道具としてやってきたかのように映り、この小道具がどんな意味を持つのか、気になったものの、そういった素直な鑑賞は中々少ない気がして、また、そんな素直な鑑賞も出来ないような自分の至らなさを恥じる気持ちからも、これまで積極的には考えようとしなかった。

 今回、素直に考えてみた。

 

 ゴーゴンの首ではあるまいが、その生首を見せ付けることで相手を動揺させ、その隙を突いて襲おうという魂胆であったのならば、中々言葉は策士である。ただ、そんな策士的な演出の小道具としての生首なら、それは甚だ詰まらないものである。全く物語の解釈や道具の見立ては、より対象を興味深く、趣深いものにする為の手段であらねばならぬーーというのが、筆者自身の信条でもある。

 閑話休題

 脇に置かれたカバンの中身は、最後、事がひと段落した後、娘の胸にひしと抱かれて、そこに収まる。「彼ら」を載せた天際に浮かんだ船は夕日を背に影を描き、物語はそのシーンを映して幕を閉じる。

 果たしてこの場面において、ある種の調和がそこには描かれているものと見立てる事は可能であると思う。それをそうだと説明する為に、今回モローの画を引用した次第である。

 果たしてこの絵画においては、娘(女性)に抱かれた男の生首は、性的にも対照的な死の象徴である。対立する二つの概念の調和を描こうとしていた画家の魂胆があると言われている。

 その詳しい思想的背景についての話は別の機会に置き、果たしてこの画家の示唆が『スクイズ』の最終回は更に見応えのあるものにするのではなかろうかーーと、筆者は果たして考えたりすのである。

 無論、そんな深く考えてしまう辺りが、無粋の極みで、「話を読めていない」証拠である。元来、感覚として分からないようであれば、分かったフリをするより仕方がないのであって、その為に考えているのだから、それは当然なのだが、いかんせん、感ぜられないのは、どうしようもない。

 

 滅多矢鱈、血飛沫やら胎を割くシーンばかりに気を取られてしまいがちだが、この物語は、過程において散々に血は流れたものの、その結末においては目出度く、恋人同士が結ばれる、大団円を迎えているように筆者は素直に考えるのである。

 その「大団円」と言うのは、果たして俗的なハッピーエンドとは様相著しく異なっているが、このヒロインと、故人となった主人公の関係というのは最早、この世のものではない、神秘的な関係である。心中よりもこの関係は、確かな関係であろう。というのも、両者の生死は明白だからである。

 しかも、物語で一番不確かさに揺れる要素であった主人公が死んだことで、事態はすっかりシンプルになった。彼が生きている間、不確実性に脅かされ続けた関係は、彼の死により、一転してかなり強固なものとなった。

 その関係が、全く揺るぎない、盤石なものにする為に別の女を殺すのも、その後に遺児がいないか探すのも、道理である。故人の心中を察せられるのは、一人で十分である。確りとトドメを欠かさない点は、個人的に気に入っている。

 

 よくよく練られた物語であろうーーというのが、最終的な筆者個人の感想であり見解である。断定出来ないのは、自分がこの作品を最後までちゃんと鑑賞出来たと納得出来ていないからである。自意識過剰なのが熟悔やまれる。

 なお補足だが、結局、物語中で殺される人物は調べてみたら、男も女の方も不人気投票でダントツであるそうで、この辺り、ちゃんと物語的にカタルシスが用意されているのは、素晴らしい配慮だと感じた。

 そんな嫌な奴が、お互い啀み合った末に嫌な死に方をして、最後の最後に翻弄されていた薄幸のヒロインが報われる。

 これがもし、私の考え過ぎでなかったとしたら、まこと、『スクイズ』は結構な物語である。