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はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

カレーにルー

 

 ルーのないカレーは、味噌のない御御御付けである。

 

 とはいえ、ルーさえポチャンと落とせば、取り敢えずはカレーっぽさはある。だが、カレーには具があったらなぁ、と考えてしまう。

  無論、具無しカレーというのも、考えられるには考えられるけれども、それは余りにも寂しい。それでは駄目だという積極的理由もないけれども、何かあれば、もっと美味しくなるのではないかしら、と考えるのが人情というものである。もとい、欲と言うべきか。

 

  西鶴先生曰く、人間は欲に手足の生えたものであるとか。もっとも、動物四十億年の歴史は、胃袋の進化の歴史であり、これに尾鰭や手足が生えて泳ぎ出したり駆け出したのが、今の動物の一派である。

  果てしない欲は胃袋からやって来ていると考えてもそう間違いない気がする。欲望は、目が美味しそうなものを見るから生まれるのである。だから、欲望の起源は胃袋である(多分)。

  当然、胃袋が進化したのが人間であるから、大層な脳味噌も、胃袋の付属品である事に違いはない。色々な機能が集約した脳だけれども、特に想像する機能は非常に重要である。

  想像してみて「これはマズイ」という事が食す前に分かれば、これほど結構なことはない。生憎と、実際社会はそれでも飲み食いせねばならない事も多々あるのだが、果たしてそれは脳味噌の持ち腐れとでも言うべきか。

 

  そんな胃袋の付属品、脳の拡張が進む昨今、それよりも何よりも、胃袋の拡張が進んだこの時代、電脳の海は生憎と単体では未だ人間の空腹を癒すにまでは栄養価のない代物である。

  だが、深夜の飯テロで腹は膨れないが、却って自分でも気付いていなかった身体のキャパシティに気が付いた人間は、モニターの前から離れて、或いは最近の事だから手に持ったまま、いそいそと誘い出された哀れな白火取の如く、深夜のコンビニの餌食になる。もとい、自分でも呆れるくらい沢山買い込んで、後悔する事になる。

 

 コンビニエンスストアに代表される21世紀初頭の現在の流通ネットワークは、良くも悪くも今次の時代の代名詞である。それと並んで、通販というものがあるが、現在は、この通販とコンビニのネットワークが地下鉄宜しく相互乗り入れする時代である。

  更にここに、古くからある人間というメディアが介在すると、事態は愈々複雑を極める。

  稍もすると忘れ勝ちだが、人間というこの二枚も三枚も舌がある生き物は、しょっちゅう嘘をついたり誤魔化したりいい格好したりサボったり何やら随分首尾一貫性もない出鱈目な行動をする上に、何かと言えば、時代の所為だ、技術の所為だ、社会の所為だと責任転嫁に遑なく、反省し、悔い改める事もせず、只管「アレってどんな味なのかなぁ......?」と妄想に耽る胃袋のネットワークなのである。共有される情報はと言えば、先ず「アレがウマイ!」「コレはマズイ!」「オイシソウ!」「ヒドい味!」と言った事くらいしかない。

  そんな胃袋のツイートのファボ、リツイートが伸びれば伸びるほど、何処かで誰かが過労で死んだりするのが現代という時代なのである(かも知れない)。

  閑話休題

  かのように、人間は自身を媒介項として、ネットの世界と現実の、ナマモノの世界を繋いでいる訳だが、此の距離は実に、脊髄の距離に相当しており、自宅からコンビニまでの例えば200メートルは、拡張された脳と胃袋の距離なのである。もしこれを、一個の生き物の身体で補おうとしたら、無茶苦茶大変である。それを人間という生き物は寄って集って巨大な身体を構築したといえそうである。

  21世紀の脳味噌的には、何だか知らない内に見えない世界が広がっている様に「感じたり」してる訳だけれども、そんな事考えながら食べてるファミチキはタイやアメリカから海を渡ってやって来てたり、コーヒーなんかは言わずもがな、遥か太平洋の向こう岸から金波銀波の波越えた「普段の味」であったりする。普段食べてるレトルトカレー、普段食べてる松屋の牛丼、何も何も、巨大な外部記憶装置に保存された膨大なネタ画像の、その一々のソースが最早何処から来たのかとんと分からぬように、今日日、生きてる人間にとり(ありがたい事には)、そのリソースが何処から来てどんな紆余曲折があったのかは、知ろうと思っても中々分からないように世の中というネットは出来ている。

  さてもさても、げにこの事こそ、真に讃えられるべき人智の偉業なのである。カレーのルーが如何やって出来るのか、それを知らなくても、カレーが食べられる。今夜のオカズが誰なのか、過程を知らずに消費出来る喜びは、鶏を此の手で締めずとも唐揚げの食える喜びと類の同じ喜びなのである。

  素直に飯が「美味しい」と喜ぶ事が出来るように、有史以来の歴史は殊、此処数百年の間に飛躍的に進歩し続けている。「御飯を食べる為に」「美味しい御飯を食べる為に」、そして「美味しく食べる為に」人類史は着々と発展し続けている。

  蓋し、人はルーのみに飽き足らず、人参とか玉葱とか馬鈴薯を入れたくなってしまうのである。胃袋の食欲は尽きる事がない。

 

「如何してお腹は減るのかな?」

  人類永遠の謎である。

ーー味噌にはダシを、スイカには塩を。

 

 

  所で、脳味噌の延長ばかり話してしまったが、最後に胃袋の延長の例について少し検討して擱筆としたい。

  先ず竃だが、これもある種の胃袋と考えるべきか、悩ましい所ではある。なので此処では傍に置くとして、代表的なのは鍋であろう。

  そのままではとても食べられたものではない、固〜い食材も、一晩コトコト煮る事で、よくよく消化のいい食べ物になる。レトルト食品も胃袋の延長にあると考えてもいいかもしれない。するとなると、電子レンジは如何なものか? 考えは尽きないが、キリがないので此処らへんで。

  

茶屋の押入れ

夢を見た。長い夢だったので途中は割愛して、部分だけを切り取って話す。ただ、不都合な部分を削ったというのではない。

仲間内の飲み会に誘われて強かに酔った後、帰り道、滅多に会合にも顔を出さない無愛想な連中にダメがらみした自分は、彼ら内の一人に自分の背負っていた大量の荷物を押し付けて、祭りへ繰り出した。

丁度その晩、賑やかな祭りの最中で明け方まで芝居や見世物を観た後で、泥だらけになりながら家に帰った。直ぐに寝ようと思っていたが、着替えている最中に荷物を忘れて来た事に気が付いた。慌てて家を飛び出した。

 

折からの向かい風は強く、傘を差していると圧されてちっとも前に進まなかった。翌日は平日で、暖かい春の雨に打たれて愈々自分の気持は怪しくなっていた。ただでさえ祭りの余韻が殷々と身体中に響いている。

結局、二つの鞄は其奴の家の玄関先に放り投げられていた。

 

其奴の家の隣は大きな雑木林で、自分は真っ直ぐ自分の宅から歩いて来たに過ぎなかったから、寄り道したくなった。ただ、普段からよく歩いているものだから、何もないのは詰まらないと思った。

すると、何処からか三味線の音とか聞こえ始めた。気が付くと、自分は座敷の真ん中に泥んこの儘、突っ立っていた。

閉じた襖の向こう側では、若い芸妓さんが二人、何やら日本史の授業を受けている様子だった。成る程、確かに必要だろう。最もらしい演出である。

自分は汚れた上着とかを脱いで、鞄と纏めて目の前の押入れにしまい込んだ。上の段は来客用か布団が積んであって、幾分余裕もあったから、其処で休ませて貰う事にした。

どうで自分は今、正気ではないのだし、其れを分かっていたとしても、自分は酔漢であり、世間的には列記とした精神異常者の部類に入るのである。無罪放免とまではいかないまでも、世間並みのお咎めはないものと考えた。

それで布団と布団の間に挟まって暫し疲れた身体を休める積もりで、内側から襖を閉めた。どうせ気配で露顕るだろうと考えたけど、真っ当な言い訳もあるしのうのうと構えていた。

 

夢の中で寝ても夢を見ることがある。けれども、今度は昏々と眠る事が出来た。

起こされた時、手に縄を下げた親爺が出て来て自分は大人しくこれに従う積もりで両手をずいと突き出した。

所が、思いの外、穏便に対処されてしまい、拍子抜けだった。住所を聞かれるより先に電話番号を聞かれた。何故か、通学先の学校の教頭から真っ先にお叱りの電話がかかって来た。茶屋の電話の子機で聴きながら、自分は迫真の演技で脂汗を流してみたりした。日曜日だというのに如何してそんなに早く教頭に連絡が行ったものか、事情を察するに可笑しくて仕方がなかったのだが、次に何故か伯母からの伝言を店の人に伝えられた時には驚いて反応の仕様がなかった。

 

其の時の自分はすっかり騙されたつもりで彼等の芝居に付き合っていた。彼等は、自分が狐である事も無自覚な連中なのだ。然し、実に堂々たる態度ーー其れも其の筈、彼等は真剣なのだーー、一切の自己に対する疑念を余燼も抱かぬ清々しさは自分を恥ずかしい気分にさせた。

人間でも、此処まで堂々と人間らしく振舞う事は容易ではない。怒る所では怒り、叱るべき所で叱り、譲る所は譲って、堪える所は堪えている。

 

居た堪れず、自分は親爺に断って身繕いをし始めた。所に、蓬髪の妙な如何にも狐らしい、胡散臭い若人が見物しに座敷を覗きにやって来た。自分は其奴が、何と無く自分が荷物を背負わせた知人の様に思われたけど、能く能く見たら別人だった。

 「大海にあると言うのに小さな浜辺で遊ぶだけか......」

彼はそう言うとケタケタと笑い始めた。

自分は其れを聞いて彼と話してみたくなった。夢の中で、人物に話し掛けられる事は滅多にない。

 自分は彼と問答するつもりで、単刀直入に尋ねてみた。

「フィロゾフィーが好きなんですか?」

「ああ、おや君も好きなんですか? ああ、いやまあ珍しい。そうなんですよ」

 狐めは大喜びで話し始めた。詰まり彼からすると、此の質実剛健な狐連中の生活は性に合わないらしい。ただ彼も糊口を凌ぐ為に家業の手伝いをしているに過ぎないのだそうだった。

「自分は人間ですからね」

「そうでしょう。人間は哲学する生き物ですから」

彼に狐と言うのは、何だか憚られる様な気がした。(或いは親爺の手前も在ったからだけれども)此の若旦那と話していると、これまで昼間起きている間に話していた事が全部詰まらない様に感ぜられてならなかった。

 ただ、彼の風態を見る限りでも、彼自身、未だ等身大の狐の姿で生きる事は厳しい様であった。狐にも環境や社会の問題は付き物らしい。

 暫く、彼の話を聞いた後、自分は此処に来た感想を彼に伝えたくなって斯う言った。

「然し、でも私は此処が好きですよ。どうせ何もかも世界は無いようなものなのですから、せめて遊べれば気持ちも守れます」

そう言うと、狐は不意と姿を消した。自分は立ち上がって、廊下に出て後を追おうとした。所が廊下に出て見ると、其処には見慣れた漆喰の壁が高々と聳えていた。何の事はない。夢から目が覚めただけであった。

  所詮は夢、夢である。然し其れを頭の中で唱えた時、声は自分の知らない声で再生された。春眠暁を覚えずとは正に此の事かと思った。

  鼻をかみながら携帯を開いてみると、昨日買った美術展のチケットが当日窓口で安く買えるという旨のメッセージが届いていたりした。

  昼間もまた、夢と同じくらい取り留めがないーーと、水を飲みながら思い付いた。

成金チキンナゲッツ

 

 病気なのでひとところに止まることが出来ずに彷徨いている。

 アザートホース並みに退屈している。だが、インストゥルメンツが元気に賑やかししてくれている訳でもない。

 振り子時計の単調な音も結局、退屈である事には違いない。余りにも真面目過ぎる嫁は苦手である。

 

 故に気が違いそうになる。居た堪れず外へ逃れる。幾分懐が暖かければ幸いである。何処へなりとも気分に任せて遁走する。ただ、晩御飯の時間には帰らねばならない。空腹は絶対である。

 

 ネタに尽きると歩くのであるが、しかし結局の所、自分は机から遠ざかったに過ぎず、タスクそのものが存在し続ける限りは延々と私の仕事は中断されたままである。古今東西の例に習って、机か自分を窓外に放り出さねばならぬ。

 飛び降りたくなっても、生憎と高所は悉く立入が禁止されている。居室は二階で裏は茂みである。猫の盛り場に落ちて死んだならば、本物の狂人である。

 しかし、なまじっか、そんなに普段から狂態を晒しているかと言えばそうでもない。だから多分事故で済む。

 退屈で死んだならば、甚だ屑の極みと誤解されるだろうが、私自身の生まれと育ちからは人生の意義なんぞ、価値なんぞはその程度の指標しか見出せないのである。

 だから精々、野垂れ死ぬ口実を作る意味もあってもそもそと自分は道の真ん中を歩いてみたりする。

 

 散歩は果たして、クロッキー用紙と某バーキンのチキンナゲッツ10ピースを購入して毎度終了する。何を描くのでもないのに無駄遣いし、これにより、私の無聊は億分はマシになるが、後悔が伴うのは致し方ない。

 別に三鷹タリーズでも、立川のクリムトでも、構わないのに新宿のバーキンに行くようになったのは、偏に退屈故にである。儘ならない事も多いが、出来る所の行為も悉く退屈なれば、最早遠くへ逃れるより仕方がない。発想の貧困と嗤われようと、現に自分は貧しいのであり、そんな自分ではどうにもならないことを批判された所で言葉を返すべくもない。

 だが、この諸々の欲望が歩くだけでは遂に治まらなくなった時、強力な刺激を求めて奇行に走る事もある。

 この間は、マスタードを壜から掬って食べてみた。一口目は意外の刺激で、二口目にソウセージが欲しくなり、三口目にチキンナゲッツが欲しくなった。

 嗚呼、チキンナゲッツーー芳しきその香りの想像に負けてスーパーへ行き、冷食コーナーで安いのを見繕いレジへダッシュし、直ぐ帰宅してレンジでチンした。

 マスタードの魔法は二回まで続いた。しかし、最早魔法は三度まで続かなかった。コーヒーはもう常飲料になって久しい。刺激はないよりマシである。だが、最早心地よい刺激は初めてと比べれば鈍になってしまった。

 元々禁欲的に生きてきたつもりである。所謂世間並みの娯楽には手を染めていないお陰で比較的チープに済んでいる私の無聊は、しかしその貧困さ故に下等であり、惨めである。

 缶コーヒーの飲み比べなんてのもその例の一つである。ただし、下等であるからといって、賤しいという訳ではない。上等の中にも卑賤なものはあるだろう。しかし、汲めど尽くせど、一回こっきりのこの娯しみは長続きしない。

 

 触覚的な刺激は愈々私にジム通いを勧めて来る。

 或いはちゃんと毎日大学にも行けばいいのである。軽いハイキングで汗を流して飯を食う。

 理屈の上では其れで十分な刺激は得られる筈なのに、その為の高い学費を取っている筈なのに、何故か自分は貧しい儘である。

 なまじ、期待し過ぎたという事なのだろうか? 

 

 幻滅した、と何度かひとに言われた経験も持つから、あんまり自分が期待してハズした経験を殊更話したい気分にはならない。

 寧ろ、自分は実の所、がっかりしたような経験もそうないのだ。先に述べた通り、私は禁欲的に生きているから、そんな過剰な期待をしたりは普段しないのである。

 ただ、その分「お代わり」を所望する。何せ器が小さい為に、一遍に賄えたりはしないのである。

 

 百円二百円の買物をチマチマ済ませて其れで人生をチープなものにしているのは事実だ。しかし、所詮それは材料に過ぎなくて、肝心なのは私の人生そのものである。経費は安く抑えた方が得である。態々、時間を潰す為だけなのに、抹茶フラペチーノのトールを注文する必要を自分は感じない。日曜大工で用が済むなら業者に頼む必要も特にない。

 とは言え、自分で出来るからといって全て自分で賄おうという積極的な気持ちにもならない。ただ、何か測る際の尺度があって、それに掛けて彼此計算したりするのである。

 

 だが、なまじ自分の人生は極端に貧困なので単位が些か小さ過ぎて、みみっちくなりがちなのである。それもこれも、生まれと育ちの問題である。これもまた長短を併せ持つので、一概に悪いとも思われない。

 けれど、給料日にチキンナゲッツ50個を奮発して購入し平らげた時や、五玉豚骨ラーメンの替え玉を注文した時なんかは、流石に自分でもその貧乏性に嫌気がさして、店を出てから一人泣きそうな気持にもなった。

 

 本に関しても、友人の話を聞きながら、自分のみみっちさに悲哀を抱く。

 だが一方で、別の友人家族の月に一度の楽しみがファミレスでの外食であると聞いたら、それは大変いいことだとも思う。

 自分の計測器は多分に生育環境に適応したものである。この頃はつくづくその事を思い知らされる。

 別に自分はモンマルトルのキャッフェにもいなくても、セブンイレブンのコーヒーで十分寛げるのである。

 普遍的感性があろうとなかろうと、厳然と存在する否応なきヒエラルキーを憎む事もなく、ただただ嘆息するばかりの自分は病気である。欲望は水平に駄々滑り、羨望は憧憬へ、憧憬は

 

ネバー・エンディング・クソッタレ

 

   1

 九時間続きの悪戦苦闘の末、上書き保存の失敗で、文書データが蒸発した。

 

 こう言う時に使うのだろう。

 クソッタレめ。

 

  2

 普段口にしない言葉だから、使ってみたところであんまりすっきりしない。

 もやもやする。

 

 ああ、クソッタレめ。

 如何にもならない。

 

  3

 いい加減自分は、こう言う時に如何言えばいいのか分からない。

 

 カマトトぶってもしようがない訳だが、然し、言って書いて気分も晴れないのでは、言うだけ無駄な気がする。

 

 でも、これだけあーだこうだ書く手間も、唯一言

 

 クソッタレ

 

で済ませられるなら好都合だろうと思う。

 

 あー、クソッ。マジクソ、マジ最悪だわー

 

真似では如何にもならないようだ。

 

  4

 本心から、「クソッタレ!」と叫べたのなら、言葉通り、肚の中に溜まったものもすっきりするかもしれない。

 

 御呪いとしての「クソッタレ」の効果を信じなくても、言うだけ気が楽になるようであれば、毎日、欠かさず繰り返しておけばいいのだろうか。

 

 困った時に唱えればいいのだろうか、 取り敢えず「クソッタレ」と。

 

  5

 クソッタレ

と言えるならば幸いである。

 何か言いたいのに、其れが言葉にも出来ずに、其れで余計に腹立たしくなる虚しさも、

  クソッタレ

で片付けられるなら、思う存分、叫びたいものだ。

 

  6

 言葉に出来ないので、全部、気持ちを

  クソッタレ

の一言で表現する。

 

 多分、そうしたら此の世はクソ塗れだ。

 でも、其れで良いのかもしれない。

 語る事も童の如くなりしが、人となりては童の事を捨てたりもしたから苦しむのであれば、童心に帰り、大合唱するのも良いかもしれない。

 其れが出来ないから苦労しているのだけれども。

 

  7

 歌を忘れたカナリヤも、クソッタレと言ったか知らない。

 其れを聞いて、捨てるのを飼主が止めたのかもしれない。

 

 何か言おうとして、其れが上手く表現出来なくて

  クソッタレ

の一言になるとしたならば、

  クソッタレ

は、此の世の真理も言い表わしているのか知らん。

 

 百万遍の歌よりも、クソッタレと一言呟く方が真理に到達するかもしれない。

 然し、其れが限界であろう。

 だからこそ、もう其れ以上に言い表わし得ないのだ。

 

 嗚呼、クソッタレ。何という事だ。

 

 8

 

 何とかクソッタレを言わない様に生きている自分だけれども、そうやって来て今まで何一つものを言えた試しがない。

 

 そんな自分の悩みを、平気で人は吹き飛ばすかの様に叫ぶのだ。

 

 クソッ!

 クソッタレ!

 

 「嗚呼、もう如何してくれようか」

と耳にする度、目にする度考えてしまう。悔しいったらありゃしない。

 

  9

 一言でいいから、確かに意味に対応する言葉を掬いたい。

 然し、其れさえ不可能ならば、 其れが私の「クソッタレ」である。

 其れが私の限界なのだ。

 

 クソッタレが!

 

 

 

蟻の門渡り

  

  1

 私は私で、他人は他人。だから例え、自分がガラス瓶の培養液に浮かぶ脳髄が私の全てだったとしても、巨大なコンピュータの記憶回路が私の全てだったとしても、私は人間だ……云々。

 

 だから何だ、そんな事。

 並大抵の人間は、そんな事を言ったところで意味なんかない――。

 然し、そう思える程度の、言うだけの甲斐もない人生は、果たして、そんな事を言わねばならない程、惨めな凡人からすれば羨ましいものである。

  

 サルにはなりたくない、と本気で思ってみたりする。

 然し、そんな事考えている辺り、もう人としては結構終わっている。

 二十なんぼで大学の教授にでもなったならば、そんだけの台詞も吐いていいのだろう。然し、精々、高校を卒業した位で言っていいような、思っていいような言葉ではない。

 

 人が何であるとか、人生の意味なんて知るよりもまず先に、恥を知るべきである。

 然し、是が如何して人間、分からない。

 

  2

 振り返ってみると、人生は恥でしかない。生きている事、其れ自体が、恥である。其れを知れば、少なくともアナァがないとか、其の中に身を隠したいと思ったりしなくなるかもしれない。お母さんのスカートの中に隠れて居る必要もなかろうものと考えてみたりするのだが、如何で、洞窟の中に引き籠ってみるのも乙か如何か、其れは実際、経験してみた事がないと、分からない事かもしれない。

 

 生憎と、自分にはそんな経験もなければ、幾らか布団からも食み出した我が身の恥をしっかりと梱包し隠しおおせたも例もない。なので、爪先だけは常に裸体である。

 其れ故、露出狂の謗りは甘んじて受け入れるしかない。先っちょだけだから、と看過するには余りに鋭敏過ぎる小指の感覚は厄介なものである。だが、其れも事実と認めて、照れるしかない。

 身に余る光栄は店に行って特別に誂えなければならない。だが、其れも其れでイヤらしい話である。

 

 人は生まれながらに人で御座い、とふんぞり返る内は、人間、一体何様だと何処の誰から言われても仕方がないものと思われる。

 一体、いつからそんな人が誇れるだけの肩書になったのか――其れは一先ず、考えないでも構わない。人間である、という事、何ものかであるという事、其れを一々名乗る事に、何の甲斐があるのか。

 自分の名前然り、位階勲等は価値が在ろうとも、其れは自分のものではない。寧ろ、どれだけ価値が在ろうとも、己が所有に帰す事により、其れ等は使用済みの、二束三文の価値もないものに貶められる――というか、飽くまで尺度であって、其れは自分の伸長とか体重を表す何か特別な記号ではないのだ。俗的なものである。所詮、名誉も恥なんぞも。

 

  3 

 超俗的な人間は、恥も名誉も超越している。

 そんな「計量し難いもの」としての振る舞いは、割合、作為的に行えたりもする。襤褸を纏い、髭を垂らして、或いは髪を振り乱しても、其れは野放図な態度が世間の外聞を超越しているに過ぎないので、内面までは現し得てない。

 

 畏敬の念は、異なる次元の間で働く。だから、相手と同じ土俵、同じテーブルに座ってしまえば、忽ち其の胸のときめきは霧散してしまう。オフ会の作法は、日々の画面越しの付き合いとは勝手が違う。

 次元間の移動は、現実の拡張という形で行われ、拡大した其処での尺度に照らしてしまったら、もう其れ以前の遠慮では不十分になる。手品の種、一挙手一投足の意味は、知って仕舞えばもう其処に何の美しさも存在しない。あるのは技巧的な素晴らしさであって、美しさと素晴らしさは別物である。素晴らしい映像の美しさは、其れが如何撮影され、如何加工されたものだとか知って仕舞ったら、何処かへ蒸発してしまう。

 

 例え虚構であったとしても、意味の確定しない内は辛うじて担保されている美しさはなくなってしまう。

 ゴジラも貞子も、スクリーンの向こう側に居るから無敵なのであって、現実に現れてしまったらもうそんな事もない。

 

  4

 猿が裸であるからといって、一々怒る人もいない。

 でも、人を猿と呼んだりすれば其れは侮辱になる。其れは、猿という言葉が侮蔑の意味を有しているから、というよりも、自分が人間である、人であると「思い込んでいる」事を思い知らされるからではないか、とわたし自身は考えていたりする。

 猿を見て自らの恥を思い出す――そんな事があるとは俄かに思わない。けれども、自分が別にいつ何時、檻の中にぶち込まれる事がなくはない事を分かっていると、動物園に行く事が心苦しくもなったりするだろう。

 更に、そんな時に動物の声なんて聞いたら、愈々居た堪れなくなる。

 其れは、小さい頃に、言葉足らずで嗤われた経験のある人間程抱く傾向のある、ある種の懼れなのかも知れない。発音を笑われたり、声音を揶揄われたり、そんな経験が人間と動物の境界を愈々曖昧なものに感じさせるのかもしれない。

 すると、最早、気持ちとしては目の前の柵や格子は何の役にも立たなくなる。彼方と此方に何の溝もない。空堀も地続きである。向こうに居る馬や牛、象や家鴨と自分に何が違うものか。

 

 然し、不図した弾みでそんな夢想も弾け飛ぶ。

 突然目の前で行われる、放尿、排泄、etc……。

 

 北海道は旭川の動物園で見た、濁った黄色い湯の中で縦列を成した三頭のカピバラの、雪入り混じる小雨の降りしきる最中、声を上げながら代わる代わる交っていた光景を思い出す度に、私は自分が人間なのだと言う事を、嫌悪の情と共に確かめる。

 

  5

 ずっと激しく殴り続けいる自分は、同時に殴られている壁でもある。

 

 名誉のリストに死はもう疾くに記載されていない。だから、自分自身、木に登って其処からぶら下がる事も、自分の死に体の身体を山の頂に担いで据える事も、結局益々自分を苛む事になる。

 多くの人にとって、誇りなんてものはダニの死骸と大して違いがない。そんなものは「マイナスイオン」で分解してしまえるなら、如何にかしてしまいたいものなのだ。所詮其れは最早、積もりに積もった、爪や髪の混じった老廃物の蓄積でしかないのだ。

 

 今更、自分の書いたものを読み返してから、死にたくなってダム湖の畔を深夜に一人歩くよりかは、伊勢佐木町マクドナルドでプレミアムローストコーヒーを飲んで、セブンイレブン立川砂川町店の肉まんに齧り付いた方がずっと恥もかかないで済む。

 

 どうで自分の様な人間である。棺桶に入る前は、新宿駅の地下通路でリヤカーを牽いて蹲っていたりするのだろう。然し、きっとそんな懐には岩波文庫の一冊でも忍ばせているだろうし、相も変わらずコーヒーは飲んでいるだろうし、御茶ノ水当たりのお堀に浮かぶ事も決してないと思う。そうでなくとも、川﨑辺りの多摩川河川敷をほっつき歩いたり、歌舞伎町のポリバケツを漁る事もしやしないだろう。そうだと信じたい。そうあろうと考える。

 然し、思えばこれが自分の憬れた人間の姿なのだ。己が理想へと、自分は着実に近付いている気がする。然し、そういう気がする内は、未だ未だ修行が足りないのだろう。

 精々が所、是が限界である。

 

 

バター・マーガリン・マヨネーズ

  1

 

 悲しみの向こうへと辿り着いたら其処はジャパリパークであった。

 

  00年代の後半に限界を迎えたハーレムは、バトルロイヤルの末に共倒れと化し、衰退したジャンルはホモ倒れとなった。

  ソドムかゴモラか知らねども、そんな辺境の土地の些細な変化とは全く関係なく、時勢は徐々に変革が兆し始めた為に、恰も連動呼応しているように誤解する諸氏もあるくらいだが、ブームとしてのホモ倒れは常にハーレムの代用品として、バターに対するマーガリンの如く、これまで延々普及し消費されて来たのである。

 

   2

 別にマーガリンだって、敢えてバターの代用品と位置付ける事は特に無い。けれども、昨今の事情を鑑みるに、所詮はマーガリンもバターの代用品で、更に此のバター、もといハーレムも実はマヨネーズの如く、食材本来の味を誤魔化す為に過剰に追加された脳内麻薬分泌成分であった。

 

  3

 斯くして此のハーレム・バターのマヨネーズ的使用は80年代以降何にでも及ぶようになり、慎吾ママ的怪物を生み出すまでに爛熟する。

  そして、とうとうある一線を迎えたのが2005年頃であり、象徴的な破綻が描かれたのが2007年の『スクイズ』だったのである。

 

  4

 恋愛というものは、それ自体非常に陰湿なものであり、土台動物は其れで命を落とすことも更にあるくらいだから、元来、傍目には見るに耐えない野蛮なものである事は、敢えて此処では言うべくもないかもしれない。

  殊人間に限って言えば、「動物化」という言葉のある位だから、自分達は無関係の超越的第三者を気取っている態度が主流であるようだけれども、生憎と人間も生まれは動物である。

  「人は生まれながらにして人なんだ」という被造物史観に肯定された現代に於いて、動物から人となりて、また動物に戻ると言うのは、其れ自体、何を言おうとしているのか分からない。或いはもうそんなことを言うだけの熱も冷めてしまって、今更恥ずかしくなって来たりもしたのかも知れないが、其れだってもう遅い。遅過ぎた。

 

  ーー戦争だって? そんなもの、もうとっくに始まってるさ。

 

  5

「帰りたい」けど「帰れない」故郷としての動物と人間とは「さよなら」するしか仕方がない。

  此の道はいつか来た道なのである。後はもう人間、潔くカッコよく生きていくよか仕方がない。口笛吹き吹きひとり旅でも、一条の光のみを頼りに坂道を下って行くのも、大して変わらない。

 

  マヨネーズに浸かったご飯を食べる生活をしていると、必ず不幸な結末が待っている。そんな事を知っていても、人々は脳内物質に夢中で、本を買う金があったら、野菜マシマシでラーメンを注文して、其のヘルシーな丼の中で固形化したツユを啜って愉悦に浸っている。

 

  今やマーガリンの時代も終わりを迎えて、背脂の時代である。

 

  6

 其れが悪い訳ではない。決してそうではない。

  けれども、其れはもうバターでもなければ、其の代用品ですらない。

  然し、其のバターさえも本来は代用品であった。ハーレムはパラダイスの代替物であり、然し其れさえも此の世にはあり得ないユートピアであった。

 

 キツネはウサギを食べてしまうし、オオカミは赤頭巾を食べてしまう。マーガリンはバターの、バターは本来、肉に付いた血や脂の代用品である。

  血で血を洗う抗争の代償は、得体の知れない工場である。メトロポリスの地下深くで、或いは野っ原の片隅で、犠牲は最早其の声も上げることなく、生あるものは今や無生物に限りなく近く、動物はいよいよ物化して動かなくなっていく。

 

 血や肉を、滴り落ちる脂を舐めては、飲み食い啜る野蛮な人間の食事は、代用品で腹を満たしている文明人の目からすれば化物の如く映るのだろう。

  然し、人間の様に飲み食いしているようで、其の実、自らは工場の内にそうした不都合な過程を押し込めて、対価だけは確りと受け取って、無垢を装い振る舞うよりかは、どれ程野蛮な生活の浅ましさの方が誠実と言えるかも知れない。

  但し、白日の下に曝されても、野蛮な所業は決して其の忌まわしさが無くなりはしない。

 

 鍋に上で柄杓の丸い背で濾された分厚い脂身は獣の背より摘出され、其れが舌の上にじんわりと広がる甘みを齎すのである。其れは決して工場の中で生み出されたものではなく、動物の体内にあったものなのだ。

 其のスープがどれだけの忌まわしさを漂わせていると分かったとしても、美味しいと思うことは止められない。

 

 ーーくやしい!でも......

 

  7

 何も感じないというのは、何もしないことである。とは言え、食わなければヤリキレナイ。やるせないモヤモヤに救いもなければ、明日も続く。

 

  「どうしてお腹が減るのかな?」という素朴な問いは日々の充足、リアルな胃袋の満足により、豊かになればなるほど如何にかして忘却される。

  食べてしまえば忘れてしまう、というのでもないけれども、うかうかして食べ過ぎていると、ある日突然ザックリ腹を切られるかもしれない。

  そして、当然だがそうなっても、童話のようには自由ならないもので、消化された赤頭巾とお婆さんは救出もされないし、腹を割かれたオオカミも生きてはいけない。一人、残るのは猟師だけだ。

 

  8

 然し、うっかりひょっとしたら、オギャアと産まれて来るものがあるかもしれない。だとしたら、猟師は忽ち助産師の仕事をしなければならなくなる。

 中には誰もいないと思ってたら、ポーンと飛び出して来たビックリ箱の中身みたいな無邪気なそれらを目の当たりにした時、一体猟師は戸惑うだろう。

  然し、だからと言って、うっかり逃げ出してしまったら、本当に元も子もない話である。

  では、如何するのか?

 其処は素直に親子丼に綴じて仕舞えばよろしいのである。

 

  9

 食べて食べて喰われて食べて、食べて食い倒れて眠る迄、食べるだけの欲望のある内は、多分、ハーレムの夢を見続ける事は出来るだろう。

 第三のビールもといマーガリンだって、何だって作り出す事は出来る。虎も回ればバターになる。豚もおだてりゃ木に登るし、飛行艇だって操縦出来る。

 

 ーーラピュタは滅びぬ! 何度でも蘇るさ! 

 

 人工の大地、人工のバター、パライソ、大都会への憧憬は空腹と共にある。尽きる事なき飽くなき空腹は、常に人類と共にある。

 

 空腹である限り、人は馬鹿の侭であり、だもんだから、例え火の中水の中草の中、森の中、土の中から天上遥か雲の中、美味しいご飯を求めれば、東京砂漠の三千里さえ物ともせず、氷を踏んででも進軍するのである。

 

  旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる

 

 嗚呼、可賀ヤンデレ芭蕉翁はとんだヤンデレである。

 建前は幸福の実現だろうが、其の実は幸福追求権を行使するのが楽しくて楽しくて仕方がないのである。嘘つきは、ひと所に住んで人心地を得るよりも、不毛地帯をひた走るのが好きなのである。「マッドネス、マッドネス」とインド(撮影地はスリランカ)の山奥で呟く軍人の嘆息も聞こえて来そうではある。

 

  10

 「ようこそ!」と迎える娘も、未開の地に住む人喰い人種かもしれない。用心には用心を重ねて、パースエイダー一丁さらしに巻いて流離い人は百代の森を抜けて行く。

 

  11 

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
 

  12

  嗚呼、隘路は正に此処に極まり、童貞も正に此処に極まる。

 お釈迦様は林の中のゾウの様に歩めと仰ったが、当人はリア充ではないか。何だこの野郎。

 

――お、怒ると人間、お、お腹が空くんだな。

 

 午餐を得る為、以て擱筆とす。

 (平成丁酉二月末日)

朝肉食

  

 久しく目が覚めなかったのだが、今日に限って八時前に目が覚めた。何のことはない。友人・S氏に起こされたのである。

 

 なじかは知らねど、私はKと漫画を描いていた。彼も自分も忙しくて、仕事が溜まっていたのだが、今度は彼の仕事を手伝う番であった。

  自分は他人の絵柄に似せて描くのが苦手であり、一方Kの方はある程度は写して描く。とは言えなまじ癖の強いので、私が描いた絵も妙な具合に統制されてしまった。

  自分は悪戦苦闘した末に友人に下絵を見せて確認を願った。然し、案の定、却下された。似ている似ていないの範囲に収まらなかったのである。

 

 其れからKと散歩に出た。頭がとっ散らかった儘、同じく散々な室内も放棄して午後の住宅街を彷徨いた。気分はもう漫画であった。

  既に路上に机を広げて、其処で作業をしていたのは、室内よりも早くインクが乾くだろうと踏んでのことでもあった。

  兎角、友人も腹が減っており、然し生憎と近所に店と呼べる店もなく、ぶらぶらしていた所で巨大な、ドールハウスの如く、瀟洒で童話的に三階建のスーパーマーケットを発見した。

  興奮した自分ら二人は入り口を探しながら、突入するタイミングと入り口を探していた。頭がおかしくなっていたので、今思えばゴミ捨て場の前でカラスの跳ねる様に行ったり来たりしていた。

 其れで焼き鳥の臭いを嗅ぎつけた所で其処に自動ドアを見付けて蛇の如く滑り込んだ。そしたら、もう既に風除室にはエプロンを付けておばさん方が不安気に格子の前で外の様子を伺っていた。誰かが「警察を呼んだ方がいいのではないか」と言うのを聞くに及んで、私はKと素知らぬ顔で買い物してさっさと別れて家に帰った。

 

 帰りに自分はいつもの癖で道に迷った。土手の上にシャンプーの工場と車両基地と大きなトタン屋根の建物がズラリと並んでいて、其の間をブルーサンダーが貨物を引いてギャリギャリと通り過ぎて行った。S氏に遭ったのはその直後である。

  陸橋を潜って、調整池の傍で焙じ茶を買って飲んでいるT氏に出遭わしたのである。

  彼に案内される儘に歩いて行くと、確かに茶の出店が在って、其処で焙じ茶の試飲をしている時にS氏から、『就活は如何なんだ?』と声を掛けられて目が覚めた。

 

  本当は、このS氏に遭う前に私は一匹の猿人間となり、後輩・H氏の担当教授の講義を受けたり、モノと掛け合わされて失語症になり、軈て生命活動も止まってしまうという改造人間に遭ったりする体験をしたのだが、其れは焙じ茶と、食いながら歩いていた食パンの臭いから誘われた昼間の夢であった。

 

  そして、そんな夢見がちの私はS氏に脅されて目が覚めたのであった。幾分、身体は脱水で痺れていたが、朝は清々しい迄に、障子の向こうで照り輝いていた。

  本当は昨日、夕食でご馳走になるはずの牛肉赤身のステーキを自分で焼いて食べた。プレートは既に用意されていた。付け合わせのニンジンは特に力を入れて作られたらしい。

  トマトとわさび菜と、醤油と香草入りの岩塩で八時の十五分前から食べ始めた。香草の香りが良質の肉の風味を引き立てて、頗る自分は嬉しくなった。

 

  そして分かったのが、好いものは皆、香りが良質なのだという事であった。

 故に私は、矢張りT氏は只者ではなかったのだ、と考えたのであった。彼は自分の知る限りで数少ないジェントルマンである。