はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

ひねもすインポテンツ(2)【無能の考察】

 

  無為に過ごした休日を惜しんだり、アレコレ悩んだ結果として『もーいやっ! こんな生活!』と叫んだりする。

 ただ、ユビュ王が『クソッタレ‼︎』と叫ぶのと、ナポレオンがそう呟くのとでは、そこに無能と不能の隔たりがある。

 或る意味で、無能は「去勢された」不能者とよく似ている。ただ、無能者の自殺は、往往にして、そのありもしないトラウマを捏造された末に待ち受けている滝壺の様なものである。

 

  敢えて、その無為な人生を模倣した末の不能者の狂言自殺は、却って無能者の理解し難い『漠然とした不安』を芝居染みたものとしてみせる作用がある。

 そうした意味で、彼らは一方的なその恨み辛みを晴らせるのかも知れない。

 ただ、いづれにせよその自殺や自殺じみた行路病死は、それらしい、尤もらしい理由を見出そうとする、例の作法に従って、それ自体は全く閑却されてしまう。

 

 

 不能と異なり、無能は一人での作業中に気付くものである。

 例えば、漫画を描くのに人物にデッサンが下手で、上手い人には助平な人が多いというのを聞いて、自分も裸体画を描こうとして、肝心な所で魂を入れ損なうーーという失敗を何度も繰り返す内に、人体に興味はあっても、人それ自体に関心がない事に気付くのは、指摘されて納得するものではない。

 勿論、それは自分の絵が一向に上達しないのを、全くの画才の無能故にであるとは認めたくない動機からかも知れない。

 ただ、その時は、ならば人を描くのではなくて、抽象化された人体のモデルをなぞるのだ、と気持ちを切り替えた所、スルスルと筆が運び始めた。

 そうして描かれたものが、「人」ではないものの、それが本人以外には確りと「人」として認識出来るような相好を保っているのであれば、無能者であろうとも、絵は描くことが出来ると言えるのである。

 

 ただ無能者が描いたのは、人間の身体を表す記号ではない。人体に先立つこと、記号が作り出した、それに触発されて抱いたイメージがそこには表れているのであって、それは例えどれだけ「無様」であろうとも、描いた本人にとってはそんなお墨付きは如何あろうと知った所ではない。

 

 更に言えば、快不快、好悪といった行為の価値も無能の人にとっては預かり知らない所である。

 無論、そんな無能者の立場は御構い無しに、彼が何も言わない事をいい事に、他所でアレコレ値札を付けながら詮議する人々によって、彼らもまた、否応無しにそうした「市場」に組み込まれてしまう。そして、そんな無能者の無為の産物すらも勿体振って取引するのは、彼らが「無能」であろうとして「不能」である証左でもあると言える。

 

 

 ......そんな事を考えた所までを、友人に話した所で、模倣の問題について指摘された。

 

  筆者自身にも多分に覚えがある事だが、大抵の人は、不能であるよりも、無能な振る舞いを嫌悪する。蓋しそれは、不能であることを恥じて、無能であるかのように見せかけて、同時にあわよくば、超然として大人振りたい態度に見えるからである。

 が、それは飽くまでも「そう見える」というだけの事であって、本当にインポテンツか如何かは、実際に絵を描いてみせた所で、妥当な診断を下せる人が世の中にどれだけいるか、という話である。

 賢しげに、専門家でもないのに、あゝだこうだ言って許されるのは、不能者と不能である子供だけである。

 

 他人を、無能者ではなく、役に立たないインポ呼ばわりすることは、当然だが、批判者が責任を追求される場合がある。但し、それは往往にして、見るも無惨な応酬を呈する。

 批判者の責任は、彼らを相手取った訴えが呈されなければ、追求されはしない。そして、正真の無能者はこれについて先ず感知しない。ただ、それも不能者の幻想である可能性もある。というのも、不能者にとっての理想化された賢者聖人としての無能者像は、所詮、偶像に過ぎないからである。

 寧ろそうした偶像の立ち居振る舞いに拘束されて、嘘吐きとされた不能者が窮地に陥ることを批判者が企図していることが往々にしてある。

 批判者の立場としては、専ら、足の引っ張り合いというか、無能者という伝説上の存在を徹底して崇拝するが余りに、却ってそれに決して及ばないことを自覚する程に嫉妬の炎に身を焼かれ、憎さ余って嘘吐き共を、「偶像」と知りながら吊るし上げる者は少数で、大抵の場合は只管その「公開処刑」の有様を、動物園の檻の中を覗くように、見世物として眺めているに過ぎない。

 そこで、誰が痛ぶられ、どんなものが屠られているかなぞはそもそも疑問に抱いたりする素地がない。この無関心は、無能者の態度と本質的に同一である。ただ、観客はショウが退屈だと檻に向かって石を投げたり、隙間から枝を差し入れて、生き物を突いたりする。

 屡々、そうした法廷狂言に於いて、責任は互いの論う相手の落ち度に堕す。そして、そのステージと客席とは、格子戸に仕切られた一つの劇場という檻を形成している。

 『踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損』とは、蓋し至言である。

 

 「無能者像役」を装えば、「無能者をよく知る者」として、無能者の振りをするよりもずっと安易で、危険も少なく、好き勝手に無能者について論じたりすることが出来るようになる。

 そして、余りにその演技が堂の入ったものであると、うっかりその「知識人」は、無能者のように振舞ってしまう時がある。それは謂わば油断から生じた隙であるが、然しその隙も又、「知識人」に対する信頼が、彼らの平生かたる所の無能者のそれと彼らの所作とを、彼らが常々強調している「理由付け」の作法に従って、その取巻きに彼らを無能の人として見ることが出来るようにお膳立てして呉れる場合さえあるのである。

 そして、その極地として、不能者の自覚があろうとなかろうと、熟練した演技が役者自身の個性ーー主体を打ち消した時、奇跡的に舞台の上で踊る彼らの身体が、無能の人の描くものに負けずとも劣らないものとして立ち現れる瞬間があるのである。

 

 クライストが見たであろうマリオネット芝居は、彼が対話篇の中で舞踊家に語らせたようなものではなかった。というのも、恐らくは彼が目の当たりにした舞台上には、気取った俳優さえいなかったからである。

 

 知識人として振舞う為に、二六時中無能者をイメージしている知識人の隙に、無能者である彼らが刹那的に顕現するのは、蓋し、天才を気取る程の余裕もないからこそである。そこに優美さが垣間見得る隙が生じたーー。

 詰まる所、その隙は芝居の上では油断であり、その「虚」を観客の眼差しに衝かれた役者は当惑する。そして、その後の開き直りは一瞬見えた彼の才能が、輝きだけは真物だったということを如実に語ることになる。その自分の失敗を巧く隠蔽出来たら大したものである。すると彼らは、最早、記号の意味する所と区別がつかなくなる。

 彼らの身体が演技をしているのではなく、演技が彼らの「身体している」ように見えるのだ。

 

  (続)

ひねもすインポテンツ(1)【無能の考察】

 

 

 人前に立つと、何かひとつでも、「芸」が必要に思われてならないが、何にしても、自分の場合はこれといって得意というものが見出せない。

 カラオケに行くのは稀だが、歌うこと自体もそう得意でもない。ただ、マイクがあると、落書きするような感覚で適当に知っている歌を真似てみたりするが、当然、練習なんてしていないからそう声も出る訳ではない。だが、それはそもそも、歌うこと自体に衝動が向かわないからであって、その場では単に目の前の機械に唆されて、「一夜の過ち」を犯すに過ぎないのであったりする。

 

 欲望の赴くままに、自分は大抵ものを食う。財布と相談しながら、ただ、その時に食べたいものを感じ取る。脳裏に浮かんだイメージを掴み取り、意識の俎上に是を置いて、何を食わんか思わんか、見極めようとする。ただ、大抵の場合は豚骨ラーメン乃至はつけ麺である。理由は、替え玉乃至大盛りが頼める店のメニューだから、という実に味気ないものである。

 分析癖というのは、更にそこに何か深淵から来たる崇高なる理由を捏造する癖ではないかと思う。分析を通じて理解出来るのが「癖」であり、分析癖の分析を通じて明らかに出来るのは、尤もらしい理由をつけて自分を何か尊大なものと勘違いしたい欲望のあるらしいことばかりである。当然、本当にあるかは定かではない。寧ろ、分析という反省を行う時点で、現在の自分が将来的にそうでありたいと望む自分の萌芽を過去に見出したいという欲望が、そうした尤もらしい説明を可能にする「自分」というものを即興で、創り上げているのではないか、と考えてしまう。

 

 その場で思ったことをポンと口にすることが出来るならば、それは手帳にでも書き留めていればさぞや面白い読み物が出来上がるであろうと思う。

 日記という読み物自体は、それに一貫性が果たしてなければ尚更、読み物としては好都合である。支離滅裂な行状は、他人の様を観察するだけならば、愉快であるし、他人のアイデンティティー・クライシスなんて、格好の退屈凌ぎになる。

 俳句というのは、正にそんな揺らぎの中で、或いは何かが揺らいでいる瞬間を捉えたものである。ただ、所謂世に知られた名句が、本当にその場で瞬間的に詠まれたものかは疑わしいと思う。山下清も実際は、旅先から帰って来て、千切り絵の製作に取り掛かったという。

 当てようと思って当てることも難しいが、常に周囲に気を配って、シャッターチャンスを狙っていたからこそ掴めたのではないか、という瞬間を見せられても、そこに何らの「作為」もないといわれたら尚更却ってモヤモヤした気持ちになる。

 そこに衒いはないのかもしれないけれども、他人にそれを披露する時の態度に卓越した技巧を発揮する。その場の雰囲気、シチュエーションが大事、というのは鑑賞論としては納得するが、そうした他人からの眼差しも織り込み済みの芸術というのが、果たして素直かと考えると全くそうではない。その癖、彼らは人一倍、素直で、純真で無垢であることに拘ろうとする。だが、既にして人に好かれようとか、詠もうとかうつしとろうとか思っている時点で、子供であろうと彼らの理論を徹底させようとするならばとっくの当に汚れているのである。

 

 アランフェス協奏曲に合わせて、何か気を利かせた文句を、自分でも呟きたくなる。

 Impotenz、それは無能。ーーと。

 

 屡々「不能」と訳される。が、自分はこれに含まれるニュアンスとしてある、「無能」と「不能」とを区別して論じたいと思っている。

  元来、インポテンツという語は、能力に乏しいとかそういう意味合いの言葉である。potency は、力とか潜在力とか、普段は内部に留められている秘められた力とかいう意味で、訳語としては「精力」という語以外にも、「権力」とか、「勢力」とかがあったりする。形容詞 potent は「力強い」「有力な」「説得力のある」といった意味合いであるから、これを何も男性のあらまほしき特性として挙げるの不適切な様にも今日日であれば思われたりもしたりする。聡明な子供は、双葉の頃からそういった意味では、potent である。発言力のある、或いは発信力のある若者というのは、文字通りの意味で精力絶倫である。

 対して、無気力である様や、無力な有様をしてimpotent という。ドイツ語だと、更に創造力の欠如とか、能力に乏しいという意味も付いて来る。

 そして、ーーこれが重要なのだがーー「不能」という意味でのimpotent は、その人自身が役に能わないという事を、誰かが確認して初めて認識される事象である。

 詰まりは、一旦は他人と交渉して自分の力量なりを計ろうとして挫折した経験がなければ、その手の自己申告は無効であると言わざるを得ない。取り敢えず、試験には落ちたにせよ、その結果は、受験しなければ手に入らないーーというのと同じ道理である。

 故に、人を「不能」呼ばわりするのは、「無能」と指弾するよりも慎重でなければならない。正に、その場の雰囲気やシチュエーションが、その人のコンディションに如何作用したのかも考慮に入れなければならない。

 

 専ら、世間で気にされている問題は、然るべき時に然るべくパフォーマンスが可能か否かであって、24時間365日、いつでも有事に臨めるような態勢を維持出来る程の精力は問われていない。

 ただ、苟も自ら芸術家を自認する者にとっては、後者の臨戦態勢であらんと欲して能わず、それで手痛い失敗を被る。

 

 ただ、彼らの大半は、芸術家への憧れで身を滅ぼすのであって、芸術家として身を持ち崩すことも叶わないのであった。

 

  こうした話を酷く煙たがる人を潔癖症と呼ぶならば、その人口はそれなりきにあると思われる。

 ただ、そうした話題が口の端に登らないからと言って、根は薬物や暴力に傾く連中と変わらないから、結局、彼らは自分たちが無垢だと思い込んでるだけ余計に質が悪い事になる。経験もなければ「不能」呼ばわりされた事もない。

 「語るに落ちる」を怖れる余りに銘々各自が引き篭もり、欲望の対象となるものもなければ、シチュエーションと作法に則って、歯に衣着せた鑑賞ごっこに終始する。

 だから、「不能」ではないかも知れないけれども、それを確かめる術は皆無交渉の余地もない。因みにこれを「無能」と呼ぶのは不適当である。というのも、無能とはそもそもが機能する欲望も、その対象も持たない者を指すのであって、役に立たない、持たない、持てない者は機能はあっても十分でない、という理由で罵られたり蔑まれたりするのであるから、そうした「役立たず」を「無能」呼ばわりするのは間違っている。

 

   (続)

ドンキとイオンでお買い物 ~ケーニヒスベルクの「ほら吹き男爵」のコペルニクス的転回について~

 

 立川の駅前に「AION」というパチンコ屋があった。今はその後に「MEGA AION」が建つ。それで、アイオンと読むらしい。

 友人と散歩している間に見付けて、よくよく考えもせずに「アイオーン」と読んで、思わず失笑した。「何だってそんな名前を付けたのか?」と思ったからだ。だが、後で調べたら、ギリシャ語で「永遠」も意味するアイオーンのラテン語綴りは「AEON」だった。だから結局「何でそんな名前(略」という疑問は残り続けた。

 

 MEGAという接頭辞が流行ったのは、もう十年前くらいになるのかしらん。電気ブランの「電気」、電子レンジの「電子」よろしく、流行り言葉としての「MEGA」は「十万馬力」よりも大きい印象がある。実際、「great」に当たるギリシャ語なんだとかいう。無理に日本語に直そうとせず、既にカタカナ語「メガ」で定着した感がある。それは多分に「メガマック」の効果だろう。「超」に替わる語としては「クソ」よりか幾分もましであろうと思う。

 三つある立川駅の内、「北」駅から歩いて十分くらいの所には「MEGAドンキ」がある。

 しかし、わざわざ「MEGA」なんて付けなくたって、ラ・マンチャの男が偉大であることは周知の事実である。

 「MEGA」の基準は如何やらビル1棟丸ごと店舗である事の様である。丸ごとドンキなら、成る程「great」(=とても大きい)であるから、「MEGA」と呼べそうである。

 

 「ドンキ」と約めて呼ぶ時には点は入らないらしい。この「点」で、セルバンテスの小説との差別化を図っているらしい。ただ、誰も後者を約めて呼ぶ人はいないと思う。成る程、誰も約めて呼んだりしないからこそ、差別化可能ということだろう。

 最近の子供は如何か知らないけれども、一昔前なら多少本を読む小学生なら「ドン・キホーテ」の有名な挿話は大抵知っていたものである。随分な量があり、それなりに古めかし小説ではあるけれども、これに限っては、子供の頃に読んでおいた方が好い作品である。というのは、大抵の人がこの岩波文庫を手に取る時には、既にその人はこの小説の主人公を憐憫の眼で捉えてしまうからある。多かれ少なかれ、彼に己の「暗黒時代」を透かし重ねてしまうのだろう。

 だからこそ、大人は「ドン・キホーテ」ではなしに、「ほら吹き男爵」や「そばかす先生のふしぎな学校」、「ガラスのエレベーター、宇宙に飛び出す」を薦めたりするのである。しかし、当の「ほら吹き」ミュンヒハウゼン男爵は、彼が客人に語って聞かせたこの手の物語が公になってしまった所で恐らくは慙愧に耐え難かったのだろうが、憤死してしまっている。「そばかす先生」に至っては触れこみに反して随分と辛辣な結末を迎えている。よくある映画の宣伝に騙された時とそっくりな体験が出来る(但し、物語としては非常に優れた作品である事は疑いない)。虚構の狂人に対しては何やら遠慮しているのか知らぬが、実在した「ほら吹き男爵」にはとんと遠慮がない。その点は古今東西変わりなく、清々しくさせある。

 「ガラスのエレベーター」は、ティム・バートンがメガホンを執って、ジョニー・デップ主演で撮った映画の原作である。故に察しも付く所だろうか。

 

 大人(だと、自分で思い込んでいる方々)が本を薦めるのは、自分の寛大さ、偉大さを誇る為であろう。詰まる所が、「クソガキ」共に素晴らしい説教を語って聞かせて、あわよくば自分をも立派な人物に演出しようとする為の小細工に過ぎない。或いは、本当に気が付いていない場合もあるから、その場合は余計に質が悪い。相した手合いは平気で『ならぬことはならぬのです』とか説いて来ては、飯森山で自害した白虎隊を見習えとか、平然と言い放つ。

 そして、ご丁寧にわざわざ感想文とか自己紹介文だとか、あの手この手で巫座戯た「踏み絵」を強いたりする。そんな方々に媚びていれば出世に有利だと分かっていて、子供はどんどん狡賢くなっていく訳だが、そんなシステムを運営・管理している連中は子供よりも遥かに「MEGA」ろくでもない。

 有難い説教を読み上げる内に、丸で自分もそれだけの徳や能、それらを兼ね備えている事を以て、何か高いところから他人を憐れんだり叱ったりする資格が手前にもあると勘違いした手合いが、入り乱れ、盲目滅法ゲバ棒で殴りあう最中にあって、一番いいのはそういった連中だけの「理想の世界」に移住して貰う事である。

  *  *  *  *

 去年から岩波文庫で、誰がそんな読みたがったのか(そういう需要とは関係なく翻訳書は刊行される事は百も承知だが)、≪悪魔の書≫・「ティラン・ロ・ブロン」が出ている。またも、小中高生を惑わす「有害図書」の出現――かと思いきや、意外にも、流行っている感はない。しかし、随分な力の入れようだ、と町田の有隣堂の棚を見て呆れた。

 そうでなくとも、今日、忘れられて久しい「メディアリテラシー」という言葉と共に、その欠落が招いた悲喜劇としての「ドン・キホーテ」は、痛い所を突いて来る、という点では現在の所、大衆一般には嫌厭されて然るべきだろうと思う。子供に笑われたら大人の面目も丸潰れである。同じ、笑われるなら、自分たちの中で落ち零れた連中が相応しい。相した数多のレイムダックの中に、ミュンヒハウゼン男爵を数える事は出来る筈である。

 所でこのほら吹き男爵が史実に於いて死亡したのは1797年のことであり、場所はケーニヒスベルク、今日のカリーニングラードである。世代的にも同世代人であるカントとは奇しくも同じ町に住んでいた事になるが、なおこの年にカントが著した文章で「人倫の形而上学」がある。

 

 或る意味でミュンヒハウゼン男爵もまた、「コペルニクス的転回」を不本意ながら成し遂げてしまった「MEGA」な人物であるが、それは「成し遂げた」のではなく、「成し遂げた事にされてしまった」というべきであろう。

 最早、実際の彼がどれだけ詰まらない、取るに足らない人物であろうとも、世間は彼を放っておいてくれない。今日に於いても、彼のような人間は頓死してしまうまで物笑いの種にされ、その死後に、急速に顧みられなくなってからでないと、安らかな眠りは用意されていない。「読者」は別に、後で彼に対して申し訳なく思ったり、嗤った自分を反省して悔いたり、気に病むような事はない。それは、彼等が「慎ましやかな」一読者、小市民である限りは、彼等が何か批判を受ける謂れがないからである。というのも、彼等一人一人は所詮、世間に大した影響力を持つ訳ではないからである。「塵も積もれば山となる」とはよく言ったものである。

 また、気にし始めたらし出したで、以前の様に放っておく事が出来なくなる程に、人間の自制心は薄弱である。そして、せめても出来る事なら忘れようとしても、執拗に騒ぐ連中の喚声から遠ざからない事には、それは叶わぬ夢である。構う人が誰もいなくなれば、大抵そうした手合いは静かになるものだが、しかし厄介な事に、そういう連中に限って、大通りを凱旋したり目抜き通りを練り歩いたりする。押し売りよりも、人の家の玄関の前で居座る物乞いに近く、或いは男爵に成りすまして作り話を語って他人の関心と評判を集めようとする辺りは振込め詐欺にも似てなくはない。

  *  *  *  *

 買い物中に何度も何度も執拗に流れる店内放送は、別に自分が望んで聞きたい訳ではないのだが、習い性として何か重要なことでも言っているのかと耳を傾けてしまう。だが、当たり前だがそれは自分の店の名前を延々と繰り返しているだけに過ぎない。マンネリなのだ。そして、その事に気が付いたり、或いは自覚したりするのは、幸か不幸かよく分からない。15,000回ループしていたとしても、それに気が付きさえしなければ退屈で鬱屈となる事もない。

 慣れというのは自分が環境に適応したのであって、何か周囲が変化したという訳ではない。だから、若しも何か「我」を張るというのであれば、慣れというのは禁物である。しかし、いつまでも意地を張っても幸か不幸か定かではない。

 自分の生活スタイルがイオンやドンキの商法に適応しているのであって、自分が小売店を択んでいるのではない、という事に例えば気が付いてしまったとして、それが変化の兆しになる事は十分あり得るだろうが、だからと言って、既に動かし難い状況というものに如何対処していくかは人それぞれである。

 しかし、既にして明らかなように、個人がこれらの「great」な店舗に立ち向かう事は困難であり、それはベルトに捕まってエスカレーターを乗り降りする事さえ自由ならない近況によっても端的に示されている所でもある。

 

 世は泰平にして事もなく、広告代は雲より嵩み、ビルの上から人が飛び降りようがチャリティマラソンは決行され、灯火管制を敷いてでも夜なべ残業は敢行され、真夏日の最中、肩に故障があろうとも若人はグラウンドで汗を流して意識を失い、一方で老人は塩分多めの味噌汁を啜って高血圧を昂進させつつ節電に勤しんでクーラーも点けず、新聞記事を読みながら医療費負担の増加を嘆いている。

 しかし、其れさえも慣れてしまえば如何って事はないのである。蓋し、「足らぬ足らぬは苦労が足らぬ」の精神により、彼等は進化論を信仰しながら今日もまた、渋滞を作る。

 そういう風に、物を見ようと思えば見えるという、ただそれだけの話である。

火伏せの箱

 

 昔聞いた話で、なかなか面白いから裏を取ろうと思ったものだが、何せ現地と遠く離れてしまっているから、調べるのも一苦労で結局放置しっぱなしだったりする。

 しかし、内田百閒のエッセイを読んでて、ふとこの話の原型を見付けたような気がして、以来気になる存在ではある。

 

 空襲で焼けた蔵は、暫く冷まさないと開けてはいけなかったらしい。というのも、蔵の中は出火こそしていないがかなりの高温状態であって、そこに酸素が入り込むと忽ち燃え上がるから、という理由らしい。エッセイは、せっかく焼け残ったのに元も子もなくないから、気を付けよう、なんて内容だった気がする。

 

 終戦後、暫くして座礁して沈没していた潜水艦が引き揚げられた際の話と似てなくもない。封印が解かれた瞬間に時間が流出して、ものが失われてしまうという話は古今そう珍しくない気がする。

 密閉された蔵の中は、時間が止まっているようでもある。勿論、理屈の上では蒸し焼きになっている訳だから、何でもかんでも無事であるという話ではないだろうが、この話はもう一つ変わった点がある。

 

 仮に自分はこの話を、『火伏せの箱』と呼ぶことにしたのは、そういう訳がある。

 変わった点というのは、封印された箱(=蔵)の中に、もう一重の箱がある、という点である。

 この箱は火難除けの御守りで、土蔵の一隅に据えられていたらしい。

 中身は、恐らく春画だったのではないか、というのは自分の勝手な想像で、だとしたら顛末も納得がいくのである。(元の話では中身は空っぽだったというから)

 春画と言えば、この話の出来事があったとされる時期に起こった、下山事件が想起される。下山総裁が貸し金庫に秘密の春画コレクションを預けていたというのは、どうやら本当らしい。

 

 ただし話の核心は小箱の中身ではなく、その熱である。

 筋書はざっとこうである。

 或る家の土蔵は、屋敷が焼けても幸い破壊を免れて終戦を迎えた。例によって、暫くの間は放置されていたが、軈て頃合いを見て封印が解かれた。

 中に在った物は少しずつ蔵から出されて食糧と交換されたり、或いは普通に処分されたりした。

 その内、蔵を取り壊す話がその家で持ち上がり、一切合切を運び出す過程で、件の小箱も蔵から持ち出された。その際、不思議とその箱は熱を帯びていたという。

 物が物だけに、小箱は処分されずに保管されていたそうだが、その家の者は君悪がって誰も中身を確かめようとはしなかった。

 しかし、もう大分高齢だったその家の主人が友人らと悪ノリして封を切ってしまったらしい。すると、それから暫くしてその老人は死んでしまったそうだ。

 

 人びとが注目するのは、その死因であって、喉や舌が火傷で膨れ上がって息が出来なくなった事による窒息死ーーとかいう、一体何処から漏れ伝えられたか想像もつかない話の尾鰭の部分であって、肝心要の箱の謎は興味がないのか、特にこの辺りの説明は聞いた覚えがない。或いは、「言わずもがな」という暗黙の了解があったのかも知れない。

 吸い取った熱をいつまでも溜め込んでいたのかもしれないが、一体どんな呪いかが気になって仕方がない。

  

 

土用丑の日のチョコレート

 

1

 夏場暑いとチョコレートは美味しくない。

 一度溶けて、またほっといて固まったチョコレートは脂肪が分離して美味しくないと感じるらしい。

 一昔前は、大抵、どの手提げ鞄の中にも飴玉とチョコレートは入ってたものだが、決まってこれらの菓子は何度も融解と凝固を繰り返していた所為だろうが、著しく風味を欠いていた。無論、賞味期限切れだった、ということもあろうが。

2

 夏場は蒸す。兎角、この気候の為に今も昔も苦労は甚だしい。

 チョコレートと並んで虫歯の元として歯科医から目の敵にされているキャラメルは、その包み紙の開発に腐心したそうだ。蝋引きした紙で包んでいた時期もあるらしい。

 果たして、この「風土」を考慮するならば、キャラメルもチョコレートも適しているとはお世辞にも言えない菓子ではある。それを踏まえてメーカーはその販売当初の昔から、栄養豊富と滋養強壮を並び歌い、登山家の、小学生のポケットの中に無事侵入することに成功した。その歓呼の様子を描いた看板が、今日も道頓堀の水路を飾っている。

3

 キャラメルやチョコレートにシェアを奪われた甘味は数あれど、甘酒ほど逆手にとって生き延びた甘味も珍しい。

 元々、夏場に飲まれていたという甘酒は、峠の茶屋の定番だったという。登山家がキャラメルをザックに担ぐまでは、山遊びの中途、英気を養うものといえば、甘酒であったそうだ。

 甘味、甘味というが、この甘酒全盛期において、甘酒がポジションは差し詰めエナジードリンクであって、他に冷やし飴があったという。砂糖水も歴としたメニューの一であったが、今では流石にこれで商売は出来そうにない。

 ともあれ、甘酒であるが、外来種にお鉢を奪われた後、夏から冬に鞍替えして、何とか今日まで生き延びている。

 冬場になると、チョコレートも賺さず先祖帰りして、ココアとなって応戦しようとするが、そのまま飲もうとするとこれが苦くて堪らない。砂糖をどっさり入れる羽目になるが、これが仇となってココアは倦厭されるようになる。ここぞとばかりに攻勢を見せる甘酒が手八丁口八丁に語るその地味栄養の豊富に、ココアやチョコに躊躇していた勢は容易に陥落する、という具合である。

 所で、甘酒が負けた大きな要因はカフェインが含有されていなかった点にもあると考えるのだが、果たしてアルコールやカフェインは、興奮剤にはなるがそれ自体が滋養となる訳でない。しかしその効能の点で言えば、これが含まれているといないとで、大分ものの「有り難み」は変わってくる。

 また、「香り松茸、味しめじ」と俚諺にもあるように、甘味についても所詮、香料でどうにかなってしまうものである。缶コーヒーなんかがこの代表例である。カカオ豆やコーヒーなんか、その点で方々で大活躍している。

 胃袋を掴む為には先ず、匂いである。というのも、実際、味覚というのは嗅覚との相互作用が大であるからで、安い肉も大抵、タレに漬け込めば美味いのは、タレに不断に含まれた香辛料のお陰様である。言うまでもないが、詰まる所、香辛料が世界を回したのは、素朴な素材の味よりも妙味を求めたからであり、「素材の味を引き出すハーブ」は今も昔も、お高くとまった連中の好む所である。

 詰まる所、彼らは目利きではないが、よく鼻が利く連中ではある。 所で、カフェインは無色無臭である。よく勘違いされたりするが、コーヒーの香りはカフェインのそれではない。

4

 夏場に滋養強壮が売り文句になるのは、果たしてそこには夏の暑さに疲れた体を癒す以上の目的があることを顧慮しないのは、果たして潔癖症というか、悪癖であるような気がしてならない。

 夏場に遊ばない奴はイケてない、という風潮は別に昨今に限らず、果たしていつの間にそんな価値観が出て来たのか知らないが、果たしてこれに真っ向から反対する価値観として美徳として遊ぶのは悪いことされていたりするのだが、このアンチノミーが伝統的な価値観の中で如何に解消されているのか、非常に気になる所ではある。

 それはさておき、遊ぶのが悪いこととされるのは、果たして稼がなくなるからというよりか、稼げなくなるからであって、それは文字通り、消耗するからであろう。

 謂わば生物は「その」目的の為に日頃蓄えをしているのであるから、果たして用を果たして仕舞えば消耗して使い物にならなくなるのは道理である。

 とまれ夏場は、何もせずとも消耗する。イケてようが、ダサかろうが関係ない。

 かくある事情から夏場は、昔風俗業は閑散期だったそうである。今よりも栄養状況の悪かった時代のことだから、果たして、今よりも夏場の暑さの影響は深刻であったことだろう。嘘か本当か効くという、ハブやマムシやニンジンの類は、果たしてその形状にあやかった信仰心から生まれたんじゃなかろうか、と邪推してしまう。

 閑話休題。兎角、そんな事情だから、色香よりも先ずは食気ーー栄養状況の方をどうにかしないとならないのは、道理である。いづれも自然の摂理に従っているものとはいえ、腹が減ってはナントやらである。

 食べ物の効能なんてのは、果たしてどこまで信用出来るか知れたものではない。

5

 チョコレートに果たして媚薬的効能があるのか、そんな事は知らないが、果たして時期になれば盛んに妙な噂も喧伝されるものである。

 しかして、そうした噂が流行る文化的背景も忘却されて久しい幟の文句を眺めていると、果たしてどんな反応をとったらいいのか当惑する事も屡々であるが、そんな時に相談する電話番号も知らないのが大人の悲哀である。

 夏場に確かに疲労はするが、そんな態々だからと言って、元気になるまで回復する必要があるだろうか? と考えてしまうのは、果たして妙に考え事をする悪い癖の為だろうか知らないが、万全の体調を整えれば、余計に負担を背負わされる昨今、健康にならなければならないような文句を見るたびに、そんな事を態々標語宜しく掲げなければならない状況に暗澹たる心境になる。

 縁起物の一々にケチをつけるつもりはないが、何せそうしたものの一つ一つが持っている縁起や由来が示す所には、必ず人間が止むに止まれずそうした願望を抱かずにはいられない不幸があり、縁起物の一々はそうした不幸を如何にかして癒したいという、切羽詰まった祈りとその儀式なのであって、その利益を期待して食べる行為それ自体、最早その縁起物とされたものを食べて楽しむ目的となる味は感じられない。

 6

 自分としては、チョコレートだろうと何だろうと、そんな不幸な期待は抜きにして、それ自体を純粋に享受したい身であるから、果たして、コーヒーを飲んでいて一々、モノカルチャー経済の齎す危機とか意識したくない、というのが正直な心境である。

 現実は非情であり、何を食べるにせよ煩いが絶えない。然しせめても、無い物ねだりはしないくらいの努力は個人的に勧めたいものである。

 暑けりゃ体は疲労するだろうし、チョコレートは溶けるだろうし、売れない時には売れないのだ。それで如何にもならないものは、如何にもならないのだから、どんなに足掻いても無駄である。大体、ないものを欲しがったり、効果を当てにしようとするのが間違いなのだ。

 肝心なのは、売れる時にどれ位売り捌くか、溶けないチョコレートをどれだけ「美味しく」食べるかである。ただ食べるだけじゃ、溶けていようが構わない。要は食えればいいのだから、健康体で食す必要もない。

 何よりも、先ずこの「美学」の回復が喫緊の課題であるといえようが、それを論じる為の体力がいかんせん乏しいのが、残念な所である。

 

カニの背中

 器用なカニは巻貝みたいに迫り出した台形の背中に次々と結晶様の色とりどりなキューブを載せていった。

 大きなカニと小さなカニがいて、大きな方も体長は3センチほどで小さな方は1センチにも満たなかった。

 余りにも巨大な人の指には気付かなかったようだが、差し出すとキューブの方には如何やら意味はあるらしいことは把握した様子で、何はともあれ背中に乗せては綺麗に立方体を作り上げようとしていた。

 しかし材料が足らず、それでも未完成の侭の背中の荷物を見て、小さいカニは珍しそうによじ登ろうとしていた。

 そんなこんな眺めている間に、足元に水が迫って来た。カニたちの水槽はなく、廊下に出て階段を下りようとすると、既に3階まで水が迫っていた。

 水は渦を巻き、しかし崩れる気配もなく、ゆらゆらと揺れていた。

 

 渦に巻かれた時の対処法を思い出そうとして思い出せず、辺りを見渡すと誰しもが自信なさげに躊躇していた。

 その内、また地響きが起こった。何処か遠くの方で起こって様子だった。何が起こったのか、直ぐにもそこへ行こうと思った。

 すると一人が漸く身内と連絡が付いた様子だった。其れとなく電話しながら周囲にいた人たちに、息を止め、両手を水平に広げて、弥次郎兵衛みたいな格好をして滑り降りるといい、と其の人は助言した。

 其れから順に滑り始めた。一旦、勢い付くと水は大きく回り始めた。

 

 何とか泥濘に足を取られる事もなく、着いた場所は家の近所だった。方々、水溜りだの出来ていて、門前を洗う人が大勢外に出て来ていた。

 特に集落の真ん中には墓場が在って、自分は其処に行って身内を見つけた。彼らは自分たちの家の墓の掃除をしていた。小さい墓石はすっかり流されてしまい、地下に在る骨壷を収める為の空洞の石の蓋が露わになっていた。其れでも皆、黙々と思い出話なんぞに花を咲かせながら片付けをしていた。水溜りの水をスコップで掬っては投げ、掬っては投げしていた。

 自分は其の作業の間、慌てて来たものだから、彼処で何をしていたのか思い出せず、其の事を考えている間に目の前の墓への関心がどんどん薄れていった。

 

 教室では、確か自分が帰りのH.Mの司会を勤めていて、教壇の隅に立っていた。其れから同じく司会が数人、其れに誰か顔は見えなかったが、同級生が一人、自分の前に立っていて、彼の母親らしい人が後ろの方で立っていた。

 最初、其れが如何いう状況なのか理解出来なかったが、如何やら彼は同級生ではないらしかった。偶々、年恰好が近くて連れて来られただけらしかった。

 終ぞ彼は自分の前に立ち、小柄な体格で、丸刈りの後頭部を此方に向けて微動だにしなかった。

 水が引く前だったか、後だったかも怪しいが、担任だと思っていた初老の男は少年を連れて来た張本人らしく、もう一人、自分の右に立っていた男は、不貞腐れながら「気をつけ」をして動かなかった。

 其れから段々と周囲の音が聞こえ始めて、自分の耳鳴りが止んだ事に気が付いた時には、少年は教卓の前まで進んで来た彼の母親に連れられて外に出て行く最中だった。

 皆が黙って礼をしていた。初老の男に至っては、教室の後ろから出て行った親子に土下座して詫びていた。二人は階段へ去っていった。

 少し老けた男は、親子が出て行くと自分に耳打ちした。見慣れない少年を取っ捕まえたのは彼らしかった。古本屋で見かけて、万引きしようしているのと勘違いしたらしい。

 「物の分別も付いていないように見えた」と彼は照れ隠しのように笑いながら、何時迄も土下座している老人の後ろでヘラヘラ笑いながら、親も連れずに、凡そ子供が読みそうにもないよう稀覯本を少年は見たがったと言った。遠回しに、自分は悪くない、と言いたげな雰囲気であった。

 此の間、口を聞いていたのは大人達だけで、自分を含めた児童は皆が黙って少年が、何をか言わんと期待して見詰めていた。

 だが、彼は一言も発せず、ただ項垂れもせず、じっと彼の母親を睨んでいるように見えた。自分は其処に僅かながら同情と共感を覚えた。

 

 其れから自分は、モノレールの駅に向かった。モノレールだけは運行を続けていたから、自分は片付けが面倒臭くて、取り敢えず、図書館に逃げる事にした。

 ホームには人はいなかったが、ダイヤは大幅に乱れているらしくって、自分が着いた時に出た列車は、今来た方向へ逆走し始めた。誰かが慌てて非常ボタンを押そうとしたが、行き先表示に「周回」という見慣れない文字が映し出されていた。

 

 ごった返す車内は様々な人種や宗教の人達で溢れていた。椅子は少なく、床に座る人もあった。ただ、何処も彼処も泥だらけで、或いは水浸しであるのに、高架鉄道の床は乾いていて、其れが何よりも自分を安心させた。

 其の内、時間になったのか、いそいそと礼拝の支度をしようと乗客の数人が床に座り始めた。別段、其れを誰も遮る事はなく、其れが済んだ後は何事もなかったかのように、否寧ろ、誰もが口を噤んでいたのだが漸く彼方此方で話し声がし出した。

 自分は知り合いも居らず一人だったので、礼拝を済ませた彼らの座る箱席に混ざる事にした。

 臆面もなく彼らに彼是質問する他の留学生の質問に、困った様子の彼らの内の一人と自分は妙に馬が合うようになって、其れから暫く、片言で、お互い大して知らないのに梵字とに付いて話していた。

 其の間に、軌道は随分と低い位置に下りていった。ほぼ、軌道と水平の位置になるまで、海水面は上昇しているかのように見えた。

 其の内、白波が車体の底面を洗うようになった。車内はまた其れから徐々に静まり返っていった。

 窓の外を眺めていると、進行方向に大きな波が見えた。列車はモノレールの癖にかなりのスピードで走っている。押し潰される事はなくても、あおられて脱線しないか不安だった。

 

 一際大きな波が、一直線に並んで迫って来る様子が見えて、自分は思わず目の前に座った彼に「見ろよっ」と声を掛けた。彼はギョッとして様子で、然し、本当に怖がっている様子でもなく、一頻り感心しているようだった。

 其れは蝋細工で出来ているようでもあり、何千年という時間を一挙に約めているようでもあり、そうした景色は何時迄眺めていても飽きなかった。

 崩れ落ちる断崖は次々と彼方に飛んでは消え、気が付くと又、目の前に迫っていた。愈々、橋桁は沈み始めていた。堤の向こうに見える波頭が迫り出して此方に迫って来ていた。皆が緘黙する中、自分は水が堤防を越えた瞬間に彼が何というか、今度こそは聞き漏らすまいと耳を抜いた。

心よ原始に戻れ(1)【私的大砲考(1)】

 

 * 念のため、続きモノです。コレで完結する訳じゃありません。悪しからず。

 

  1 

 陸軍で頭の古い人のことを「青銅砲」というが、その青銅砲は鳥羽伏見、西南、日清戦争というころの大砲だから、とても古いものである。日露戦争にも一部では錆の浮いた青銅を引ずりだしたこともあったようだが、いま時世界中どこを探しても、そんな大砲は目にあたるまい。

 こう述べるのは、当時歩兵大佐であった櫻井忠温(1879-1965)である。元記事は、昭和2(1927)年6月発行の雑誌『太陽』(博文館) 所収の『弥助砲時代から』である。

 この博文館創業40周年記念増刊「明治大正の文化」は中々読み応えのある読み物であり、櫻井他、パッと目につく限りで、今でも名前の知られている有名どころを挙げれば、三宅雪嶺水島爾保布内田魯庵、山川均、奥むめお岡本一平等が寄稿している。雑多といえば雑多だが、其々の記事が単体で読み物として十分な厚みがある為、奥付にある編者のコメント通り「なるべく多くの人に読んで欲しい」一冊である。(因みに、この号に限って販売価格は特価で2円、特製版は3円とのこと。取り敢えず、当時としては、結構お高い)

 伊予松山出身の櫻井忠温(ただよし)は此の記事を書いた3年後の昭和5年に退役している。(最終階級は少将) 日露戦争に従軍し、旅順包囲戦に参加し重傷を負うも、帰還後療養中に執筆した実録戦記『肉弾』を発表(1906)した所、これが大ベストセラーとなり、所謂「戦記文学」の嚆矢となった。大正13年からは陸軍省新聞班長を勤めていたというから、此の記事を書いたのも多分、その地位にいた頃だろうと考えられる。

 

 さて、櫻井によれば、タイトルにある「弥助砲」とは、大山弥助(巖)が作ったとされる初の国産の大砲のことだそうだ。『十二斤臼砲』『長四斤砲』がそれで、櫻井はこれらを大山の独創による、としているが、前者は幕末に輸入されて戊辰戦争の際に活躍したオランダの「12ドイム臼砲」を元にしており、後者はフランスから輸入した「四斤山砲」の独自改良版であるという。『弥助砲時代から』の冒頭で紹介された「青銅砲」というのはこれらの時期に国内で製造された青銅製の大砲を指すらしい。

 『弥助砲〜』に紹介された文久3(1863)年の薩英戦争の逸話として、イギリスの軍艦が撃った大砲で伝馬船が沈められた際、載っけられていた大砲だけが波間に浮かんだーーという話から分かるように、青銅砲の出現以前には木製の大砲もあった訳で、これは『花火の筒のような竹の箍の嵌った大砲』というから、なんとなくイメージとしては、「ドンキーコング」に出て来る樽大砲みたいな感じなのだろうと推測される。

 

 果たして、記事は第一次大戦後の記事でありながら、ある意味で当然かもしれないが、専ら幕末から日露戦争にかけての時期の記述が大半を占めていて、正直な所、時代錯誤の感も甚だしい気持ちもなきにしもあらずだ。がしかし、飽くまでも此の冊子(というには余りにも分厚い)が「明治大正の文化」を特集した読本である事を忘れてはならない。

 興味深いのは、『弥助砲〜』においては、〈大山さん〉こと大山巌の大砲製作の事績に触れつつ、それと並置して村田経芳(つねよし)(1838-1921)の事績について紙幅を割いている。村田は言わずと知れた、日本軍が最初に採用した国産小銃「村田銃」の開発者であり、『弥助砲〜』には大筒を抱えた23歳の村田の写真が掲載されている。なお、櫻井は弥助こと大山巖だけを一貫して"さん"付けで呼んでいる。他に出てくる人物ーー例えば、大村益次郎山県有朋なんかは、ただ大村、山形、と名字のみで示す限りである。(ただ、暗殺された大村に付いては『あの草箒のような眉の持主』と書いていたり、そうした些細な点から、何とは無しに櫻井の人物評価が伺えて妙である。)

 

 21世紀初頭に生きる自分のような門外漢からすると、「なんで大砲の話なのに、如何して銃の話を?」という気持ちになる。

 だが、それは飽くまでも後世の人間が、何も当時の「お約束」を弁えないで読んだ場合の違和感であって、ちゃんとこれには調べたら訳があるようだった。『弥助砲〜』のっけから登場している青銅砲は後世である今日「和製大砲」と呼ばれるものであり、此の内には江戸時代前期から造られたものも含めるらしいが、此の青銅砲が導入される以前に用いられていた日本の大砲には『石火矢』と『大筒』の二系統があり、恐らく櫻井は「日本における大砲の歴史」を語る上で、此の伝統的な分類に倣ったものと筆者は考える次第である。

 『弥助砲〜』中、『大砲は直接には支那から渡り、小銃は日本から支那へ行ったものである。』とも櫻井は書いており(「三 やみに大砲」) 、此の「大砲」は明代にポルトガルから大陸へ伝わった「フランキー」であると櫻井は述べており、『日本でも昔は大砲のことをフランキーといったものである。』とも文中で述べている。さて、此の「フランキー」こと大砲はどうやら石火矢の事を指しているようである。『もののけ姫』や『忍たま乱太郎』にも登場する此の火砲は室町時代末期に日本に伝来し、『国崩し』(「三 やみに(略 ) の異称でも知られている。  櫻井によれば、如何やら「大砲」は昔は、「フランキー」こと「国崩し」こと石火矢のことを指したが、以来、青銅砲を経て昭和2年当時の用法に落ち着いたーーような経緯であるらしい。

 

 一方、大筒の系統に倣って書いたと思しき『小銃』詰まり『鉄砲』について櫻井は、天文12(1468)年、ポルトガルから種子島に伝来した火縄銃(『種が島』)が、その後大陸へ輸出された、としている。なお、今日此の櫻井の主張した説の真偽の程は、本稿では審議しない事として論を前進させる。

 此の大筒だが、名前の通り、其れは「大きな筒」であり、分類は江戸時代初期まで定まってはおらず、その後も確定的な定義はない儘、和製大砲の出現を迎えてしまったようで、「弥助砲」出現後は、石火矢とも混同されるようになったようである。

 

 (なお、特に此処まで何の断りもなく書いて来た諸々のデータのソースは悉くウィキペディアの記事である。以下も同様。悪しからず)

 

 しかし、此処まで書いてみて筆者自身、息抜きにコーヒーを淹れて一服してみると、此の「日本における大砲の歴史」を振り返る作業が、案外、容易ではないのに驚かされる。自分も此のネタでなんか書こう、なんか書こう.......と思いつつ、いざ資料探しの段になって如何にも手応えがない儘、一年程過ごしてしまった。

 昨年、法政大学出版局から出た『大砲からみた幕末・明治:近代化と鋳造技術』(中江秀雄 著)については、残念ながらその存在を知りつつも、これを書いている只今現在未読である。というのも、持病の万年金欠病の為に長らく店頭で取り置きして貰っていたにも拘らず入手出来ず、また諸事雑多に奔走する間にとうとう執筆するタイミングを逸してしまいそうになった為に、已む無く此の儘執筆した経緯があり、其れ故に此処では、誠に残念ながら前掲著に触れる事が出来ず、内心甚だ忸怩たるものがある。

 

 閑話休題

 

 さて、話は大筒と村田銃(小銃)についてである。

 果たして何度読み返してみても、櫻井の文体の所為もあるのだろうが、仮に彼が伝統的な二分類に倣って和製大砲以後の日本における大砲の歴史(特に此の場合は、陸上で運用する大砲の)を語ろうとして、彼がどのように、小銃を大筒の系統に連ねて、最終的に大砲の一系統に小銃を分けて語ろうとしているのか、其の儘読むだけでは非常に難儀である。

  筆者が思うに、櫻井は、文中に明示はしてないものの、江戸時代初期まで石火矢・大筒の二系統からなる日本の大砲の系統図を前提としながら、和製大砲の歴史を論じようとしている節がある。彼は、明治初期から陸軍で用いられた和製大砲=弥彦砲=青銅砲を、石火矢=国崩しの系譜に連ねて考えている。実は、此方は未だ幾分、通読してみても理解し易い。

 だが、他方、大筒の系統の説明となると、甚だ厄介な様相を呈しているのである。

 これは、先ず彼が先に示したように『種が島』と『小銃』を繋げた事に原因があると筆者は考える。

 

 仮に、筆者が考えるように櫻井が大砲の歴史を整理しようとしているにせよ、以下、果たして『種が島』が大筒の系統に分類出来るのか? という疑問が、読んでいる内に浮上して来る。

 此処で、改めて、大筒が何たるか確認してみようと思う。

 大筒は戦国時代後期から江戸時代にかけて用いられた大砲であり、石火矢と区別する上では、大筒は鍛造による鉄製であるとされた。石火矢は因みに、鋳造による青銅製である(とするならば、青銅砲は石火矢じゃないのか? という疑問が湧くが、飽くまでも和製大砲は江戸時代以降に海外から輸入されて大砲を模造した大砲の事を言うので、弥彦砲などは和製大砲には当たらないのである)とされる。大筒と当時の火縄銃は同じ製法であったというから、仮に此の点からすれば成る程、『種が島』も大筒の系統に連ねる事は無問題かもしれない。

 大筒は、石火矢よりも威力に優れ、鍛造(イメージとしては鍛冶屋がハンマーで熱い鉄を打っているあの加工法。種子島銃は鍛冶屋が造っていたというのは有名な話。私事ながら、筆者の先祖には其の火縄銃を造っていた刀鍛冶がいたとかいないとか.......)だから、破裂の危険も少なく、材料も鉄なので石火矢よりも比較的安価に造る事が出来たという。但し、好い事尽くめではなくて、当時の鍛造技術の限界で、大口径のものは造れなかったという。

 さて、『お宝鑑定団』の2013年2月26日放送回に登場した大筒は、鑑定額350万円という大した代物であったが、青銅製で重く、「抱えの大筒」と呼ばれる物であったそうだが、如何やら此の回の紹介VTR中に日本における大砲と大筒の違いについて説明があったらしく、其れによると、如何やら30匁以上の弾を発射出来るものを銃と区別して大筒と呼び、1貫目以上の弾を発射出来るものを大砲と呼んだそうで、専ら其れらは攻城兵器として運用された.......という。

(マア、流石物の見事に簡潔明快に説明されていて、正直、筆者は此処まで書いて来て、中々如何して拍子抜けの感も無きにしもあらず。)

 今日だと、大砲と銃の違いは其の口径の大きさによる、という分類の仕方があるようだが、果たして伝統的な日本の大砲の歴史においてあっては、口径ではなく、撃ち出す弾の目方に応じたという訳であるようだから、成る程其れならば、『弥助砲〜』における分類も何となく分かってきた気持ちもしないではない。

 しかし、此処まで読んできて、実際、此の櫻井氏の文章は、此の事について、何の断りもなく、其の上で平気に銃を「砲」の歴史を論じる文中に書いている辺り、筆者は理不尽ながら彼に甚だ不親切の印象を抱かずにはいられないのであるが、其れは果たしてかれこれ90年も前に、当時でさえ既に「大分昔」である時代について書いた文章である事を考慮すれば、果たして堪忍しなければならないのかもしれないが、然し其れでも、彼がサラサラッと暗黙の了解の内に書いて述べてしまう部分を、21世紀の読者である自分には先ず、分からない所なのである。

 

 とまれ、以上の事から、漸く、櫻井が小銃を大砲の歴史においても論じる理由までも確かめられたので、本筋に話を戻して(漸く)先に進もうと思う。 

 

  2

 櫻井によれば、如何やら日本の大砲の歴史を振り返れば、石火矢・大筒の二系統の延長上に、大砲・小銃があり、明治時代に入って其のいづれの代表例が、弥彦砲と村田銃であるらしい。

 何やら此の時点で、大分認識に隔世の感が禁じ得ない。と言うのも、現代人からすると、大砲という兵器自体が、何だか時代遅れのようにも思えてしまう。そんな大砲について、広義においては銃まで含めて、改めて顧みよう、とするのはアナクロニズムもいい所であると言って差し支えないだろう。

 

 とはいえ、20世紀末葉の1989年になってもイラクでは、口径1m、全長150mとかいう「バビロン砲」とかいう巨砲のモデルが展示されたりしたり(生憎と(?) 此の大砲は実現しなかったが)、ウルバン砲の時代から、如何も大砲というのは、実用面よりも、軍事力や軍事技術の卓越性のシンボルとして「運用」されて来た節があるように筆者には思えてならないのである。

 ややもすれば、『巨砲』の一字を見誤り、ユングの夢の最深部に登場した偉大なファルスを幻視してしまうフロイト以降の時代を生きる私達は、取り敢えず、20世紀の偉大な進歩である所の精神分析学の成果を傍に置いて、過去其々の時代や地域において巨大な大砲を製造する事に血道を上げた人々を顧みる必要がある。

 そうでもなければ、果たして、世界一の『大砲』を搭載した、巨大な『戦艦』を作ろうとした人々の精神分析なんか試みた日には、トンデモナイ結果が噴出して来そうだし、だからこそ、此処ではそういう〈色眼鏡〉(本当はそういう眼鏡をかけて振り返ってみるのも面白いかもしれないけれども)は外してみた方が無難であると筆者は考える次第。

 

 (果たして、誰かそんな分析を既にしていそうなものだけれども、取り敢えず、自分なんかは実在した超弩級戦艦と、其れらを擬人化した艦娘を比較して、前者が三国干渉やらポーツマス条約やら、挙句の果てに軍縮会議という様々な外傷を受けた末に建造された経緯を持つのに対して、後者の無根拠性が際立っているように考え、且つ、其れがあのコンテンツの物語性の大きな欠如と連関しているのではないかしら、と妄想する次第である。

 とはいえ、これは別に「艦これ」に限らず、近年続出した擬人化コンテンツの幾つかにも適用出来る気もするし、此の論法自体、筆者の発明でもないので、当て嵌めて見ることは面白いが果たして其れをした結果を態々記事にする程でもないと考えてしまったりするので、トコトン自分はサブカル批評に向いてないと思う次第でもある。閑話休題)

 

 20世紀的な色眼鏡を介せず、権力者が大砲に血道を上げた理由を考えてみると、過去に偉大な支配者であった人物に並びたかったからであると想像するのが穏当だと思われる。

 世界には今で残る巨砲の例として、スコットランドのモンス・メグ、ロシアのツァーリ・プーシュカが有名どころで知られている。 他にも歴史上に登場する巨砲の中には、先述のウルバン砲然り、実際運用された巨砲も数々登場するが、果たして其の使い勝手の悪さはどれについても共通しているようである。

 そして其の使い勝手の悪さが果たして災いして、何やら大砲は「頭の悪い」兵器の代名詞のような評判が付き纏う気がするのは、果たして筆者だけだろうか? 

 

 此処で改めて先の『弥助砲〜』に紹介されてた村田経芳の若かりし頃の写真を振り返ってみたい。

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 果たしてこれは何とは無しに眼鏡をかけて見てみれば、例の有名な『彼岸島』のワンシーンの如く丸太を抱えているようにも見えなくもない。

 此処で筆者が言いたいのは其の素人目にも明らかな操作性、使い勝手の悪さである。

 とはいえ、其れも飽くまで石火矢・大筒、即ち大砲が構造物の破壊が目的である兵器だった点を踏まえれば目を瞑る事が出来るかもしれない。

 興味深い記述が先の『弥助砲〜』中において記されている。

 

〔明治〕六年四月には陛下御統監の演習が鎌倉鶴岡八幡付近で行われた。総指揮官曾我中将、兵隊千五百人、演習銃はシャスポー、空砲二万発という触れ出しで大賑い、四民この洋式大演習を見んものをと鎌倉界隈黒山を築いた。

 外国から買った鉄砲や大砲はもう三十年も前に使った旧式のものを売りつけられていたのである。鉄や鉛の玉が筒から前へ飛出すだけで(後へ飛び出しては大変だが)既に珍とされていたくらいだから、旧式も新式もあったものではなかった。

(中略)

 十中二三発も出ればいゝものと思っていたらしい。西南戦争ころも十が十、弾が飛び出すものとは思っていなかったらしい。その鉄砲弾というのが鉛だから、中〔あた〕ったら最後鉛毒で腐ってしまう。だから、昔の人は縄を創〔そう、傷口のこと〕へ通して川の中でゴシ/\とこいて洗ったものである。

 

*.......〔〕内は筆者注

この記述がある章のタイトルが『中らぬ弾』であるから、内容もお察し.......という感じなのだが、果たして此の後に続く文章を読むと、何とも無しに筆者は笑って読む事が出来なかったりする。というのも、こう書いている著者・櫻井自身、旅順攻囲戦に参加した傷痍軍人であるという事を知ってるからでもあるが、此の当時、「先の戦争」といえば日露戦争(1904-05)であり、其れは20数年前の、当時とすれば、さして遠い昔とも言えない出来事だった事を踏まえても、中々その内容については、当時の読者の思う所を色々邪推してしまったりするのである。

 

 一体戦争といっても人を殺すが目的でなく、戦闘力を奪えば足るのである。だからその標準は二度と戦場へ出られぬ程度の負傷を与えればいゝのであるが、そう註文通りには行かぬので、勢い死者も出すことになるのである。だから殺すにしても、なるべく苦痛を与えぬようにというので鉛弾は使わせぬようになっている。それを日露戦争中露軍が使ったというので屡々問題になった。

 

 今ではすっかり、日露戦争の記憶も廃れてしまった感があるとは言え、此の戦争が後に及ぼした影響等を考えると「昔の戦争だから」と等閑にしてはいけないような気がしてならなかったりするのである。引用文の末尾に関する真偽の程はさておき、21世紀に此の文章に限らず、第二次大戦前の文章を読むに当たっては、此の日露戦争に関する当時と現在の温度差は注意しなければならないという事は、蛇足かもしれないが、此処に記しておきたい。

 以下引用するのは、同章で櫻井が第一次大戦について記した部分の抜粋である。

 

〈.......〉欧州戦争でもソンムでは一人の人間を殺すに二千発からの砲弾を使ったことになっている。一発三百五十貫、値三千五百円也という弾もあるが、先ず大小平均三十円と見て一人を殺すに六万円を要したことになる。安いのか高いのか分からぬが、とに角中らぬものである。小銃で一人を殺すに人間の体重の二倍の弾がいるというから、滅多に中らぬものになっているのである。中るのはよくよく弾運が悪いのである。

 昔の大砲や鉄砲は筒口から煙が出るだけで、飛道具の利目はあった。和蘭砲が高島秋帆によって伝えられた時、花火の筒のような大砲で頑張っていた和流砲術家なるものは大に之を恐れ江川が製砲研究を幕府に請願したということを聞いて極力妨害を試みたものであった。兎に角西洋砲の渡来ということこそそれ自身非常なセンセーションを起こしたのであった。

 元治元年下の関で英艦と戦争した時は三日間に砲戦は僅に一日、一門僅かに五六発打っただけであったが、それで大変な戦争だったのである。第二軍が南山で使った砲弾は僅に三万四千、それでも半年分の砲弾を一日で打ったというので叱られたくらい。日露戦争全期を通じて我軍の打った砲弾は百万発、それを一九一五年シャンパニューで仏軍は三日間でブッ放した。砲弾で地上を耕さねばならぬ時世になった。

 

 果たして此の弁を、既に時代の趨勢を見るだけの気力も機敏さも失った老人の愚痴と見るか、そうでなく異なった読み方をするか如何かは、果たして読者の見解に委ねられている。

 とはいえ、此処で述べられている「中らぬ弾」に当たったかもしれない「運の悪い」戦没者が約55,000人、負傷者が150,000人あって、自身もその内の一人である、という自嘲が滲み出ているように感じてしまうのは、流石に深読みのし過ぎであろうと、自重する次第である。

 なお、詰まらぬ事を申せば、私自身は、先祖が生きて帰った日露戦争と、そうでなかったその後の戦争を比較してみて、この間にあった大戦に隔世の感を抱いている傷痍軍人の弁に耳を傾けて、何とも言えずに溜息をついてしまうのが正直な感想であったりする。

 

 

 3

 又随分と話が脱線しまくってしまったが、改めて話を村田銃が弥彦砲と並べて彼是語られてる奇妙さについて、戻そうと思う。

 さて、此の櫻井氏が態々、村田銃まで引き合いに出して如何しても語りたかったのは、如何やら迫撃砲らしい事が記事を読んでるとボンヤリ分かってくる。

 これもまた、如何やら彼が実際、前線で聞いたかも知れない話で、大砲を小脇に抱えて敵の鉄条網を吹き飛ばそうとした際に、此の砲を『迫撃砲』と言ったと書いてあり、其れが『つまり今日歩兵の持っている大砲ーー近距離から打つ大砲の先祖なのである。』と説いている。

 なお、櫻井は此の日露戦争の『迫撃砲』は『浮大砲』ーー先述の、薩英戦争の折に波間にプカプカ浮いたというあの手の大砲ーーであったと書いており、『日露戦争当時でさえこんな珍大砲があったのだから、鹿児島戦争の浮大砲決して笑うに当たらぬのである。』と、散々笑っておいた後になってからこう解説していたりもする。流石は中々筆が立つ。

 

 此の櫻井の『弥助砲時代から』の終章には、『いろ/\の怪物』というタイトルが付されており、章中では、日露戦争の思い出話が綴られた後、欧州戦争を皮切りに続々と現れた「怪物」が数々紹介されている。

 中でも取り分け紙幅が割かれたのは戦車であった。英国生まれの怪物タンクは日本では戦車といい、芋虫のような格好で移動するから芋虫自動車というあだ名もある、と書いて櫻井は次のように書いている。

 

 その戦車がなければ戦争が出来ぬようになった。スナイドルで戦争していた時代から僅か五十年にして、こんな怪物が戦場をあばれるようになった。

 (中略)

 日本も師団を減じてまでタンクなど作らなくてはならぬ始末になった。飛行機にしろ、タンクにしろ金の食う機械で戦争しなければならないので、並大抵の苦労ではない。新兵器などというものは目まぐるしいほどの変わり方で、同じタンクでもこのごろは一人用タンクなどというものが出来た。つまり甲虫と甲虫との戦争である。

 

 以下、櫻井は歩兵が各自一台ずつ此の「甲虫」に乗って戦闘するようになるのではないか、と考え、『そこで戦場は極度に機械化するようになった』と、如何にも当時の時代らしい予想を立てている。

 此の記事が世に出る2年前の大正14(1925)年の宇垣軍縮があり、また此の前年には永田鉄山国家総動員機関設置準備委員会の幹事となって、内閣資源局、陸軍省動員課・統制課の設置に導き、初代動員課長に就任するーーといった事もあった。後者は世間的にはどれだけ知られていたか分からないが、取り敢えず、当時の世論は兎に角、軍縮に賛成していた。おまけに此の「明治大正の文化」が出た昭和2年6月は、同年3月に発生した金融恐慌の余波の只中にあった。『金の食う機械』は嘸、当時は煙たがられた存在だったのだろう。

 こんな文脈の中で、次のような一文があるのだが、果たしてこれを如何に解釈すべきか中々難しい所である。なお此の一文は、先に引用した『〜〜機械化するようになった』に続く。

 やがて戦場と内地とがアベコベになる時が来るだろう。死傷者は戦場よりも寧ろ国内に多くなる時が来るだろう。

 果たして、これを第二次大戦後の読み方をするのは不適切だろうが、何分此の一文は前後の文脈からしても唐突なので、一体如何してそう考えたのか筆者にはよく分からなかった。

 とはいえ、その前に第一次大戦で砲弾の四分の一が毒ガス弾になった、とか、ドイツ軍のパリ砲撃について書いていたりしたから、そうした文脈から、此処は素直に21世紀の目線で読んでも構わないのかもしれない。

 

 所で、此の『弥助砲時代から』の最後の最後に、櫻井は、今後の大砲の改良の余地について書く中で、『弾自身に発動機を持って飛ぶような工夫も出来そうなものだ。』とサラリと書いている。だが、別に此のアイディア自体はそんなに驚きはしない。然し、其処で櫻井は、『このごろアメリカで発明されたという電気砲』よりも『とにかく弾自身発動機を持って、軽便に打てるようなものが出来そうなものだ』と、頻りに其方を何とか工夫して実現する事は出来ないものか、というような事を書いている辺りが、中々首尾一貫していると感じさせる。お終いに、彼は大砲が15世紀以来、其れ自体殆ど変化していない事を批判しながら次のような事も書いていたりする。

 一々目で狙って打ったような鉄砲も、いま時影を没してもよさそうなものだが、鉄砲というものも曲のないものである。機関銃というものが出来、引っ切りなしに火の棒が出るようになったので、いくらか進歩とも言えようが、小銃に至っては愚の骨頂である。

と、中々厳しい評価である。此処まで櫻井は、小銃と大砲とを、即ち大筒と石火矢という古めかしい系譜に連ねながら、最終的に此の古めかしい系譜其の物を否定して、いい加減新しい、大砲に代わるーー発動機付き砲弾のような、軽便に打てるーー兵器の必要性を説いたのであった。

 彼からしても大砲は確かにシンボルとして運用されており、其れは使い勝手の悪さが明らかにするように、好い加減進歩しない旧態依然のシンボルとして映っていたようである。

 大好きな"大山さん"の言を引きつつ、彼はこう文を締め括っている。

 

 

 普仏戦争を見物して帰った大山さんは、帰朝後「日本の戦争は鶏の蹴合いでごわすが、あつちんたあ(あちらでは)牛ん角の突き合いでごわす」といったそうだが、それは一八七〇年のことだ。しかしその譬えは今日とても同じことかも知れぬ。〈.......〉

(中略)

 斯う後から後から珍品が飛び出すようではウッカリすると、鶏が犬や牛と戦争せねばならぬことになり、青銅砲、スナイドル時代を笑えないことになる。(昭和二、五、五端午の日)

 

  (因みに、今年は丁度、此の記事が書かれてから90年目に当たる。)

 

(続く)