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はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

「神対応」

 

 神対応は、人を人として扱わない。対応する側は、相手を神として扱うからである。

 甚だ失礼な話である。一方で、神対応を受けたとして、相手を称賛したりする人は、自分が神になったと勘違いしているのか、或いは、目の前にいる人が神である、と感じたのかも知れないが、果たしてそんな軽々と人の手による仕事を、神の御業と平気で呼んでしまうのは全く軽率であろう。ズボンは木に生るものでもない。

 どれだけ立派で素晴らしい仕事も、全て人の業である。自然を称揚し、人為を悪と呼んだ所で、人は電気失くして生きられないし、何処か遠く自分の住所から見えない所に発電所は在るのである。

 

 あなたは神だ、と褒め称えれば、神として振る舞う事を相手に強いる事である。神対応を行えば、双方にとって負担となる。其の場に居ない神を巡って、其の役を演じる事を、お互い相手に強制させ、強制される。

 人は何かを祀り上げる事が出来るが、祀られる対象である神として振る舞う事は出来ない。神対応をする事により、相手に神として振る舞う事を欲するのは人であるが、果たして他人に期待し得る理由を持つものは何処にもいない。

 ただの人が他人に何か求める事は、分不相応である。神がどの様な事をしたかは、神話の語る所である。凡そただの人には出来っこない事ばかりである。人間の分際で、神の如き態度で他人に接すれば、其れ相応の報復されて然るべきである。

 人間には神の所業の一つにも、その対価を支払う事も出来なければ、受領する事も出来ない。

 

 神ならば、此の位の仕事は容易であろう、と相手を神として祀る事で、人として相応しい地位から追い落とし、また、何か不都合があれば、人の分際で神を気取ったペテン師だと迫害する。そんな資格を持つものは人ではない。

 よかれと思って賛辞の積りで寄せているのかもしれないが、他人を神と呼び、自分勝手に理想や幻想を投影して、義務を背負わせた責任を全うし得るだけの能力も持たないのに、ただ相手の不甲斐無さを批判して、幻滅する振る舞いが許されるのは、人でなしのみである。

 

 態々自分から人である事を辞めたいのであれ、他人を巻き込む謂れは何処にもないとされる。

 通り魔を批判する口が、誰かの仕事を神対応と呼ぶならば、それが素直に、自分の欲望を満たしたいが為に、相手を、木偶や藁人形、木や紙で出来たお札の様に扱うのだ、というつもりで、「神対応」という言葉を用いるのではない限り、矛盾である。自分が神として祀り上げられたい、或いは誰かを神として祀り上げたいからと言って、他人に干渉する理由には毫もなりやしない。

 人間は、所詮人間である。

三本目の万年筆

 

 家に帰り机に向かい、先ずする事と言えば抽斗を開けて懐中時計のネジを巻く事であったりする。

 学生の手に届く値段の機械式なものだから、購入してから半年でもう既に大分、抵抗が少なくなってしまっている。

 パワーリザーブの表示がある――と言えば、もう何処のメーカー品を使っているかバレてしまうだろうが、初めの内は一度巻いたら二日半持ったのが、今では大凡二日まで落ちた。其れで説明書通りなのだが、巻く間も、指の間に挟んでみる内も、コチコチと進む針の調子も何だか元気がない様に感じられて此の頃はずっと抽斗の中に仕舞いっ放しである。

 

 方々出歩くようにもなって、腕時計を身に着ける必要が出て来た。

 四月の暮れに二つ、予備も含めて購入した。チープカシオのデジタル時計である。

 偶々Twitterで友人がリツイートした記事に紹介されてたのと同じ型が店頭にあったので、Amazonでの販売価格とも比較しながら購入した。但し、此方よりもデザインが普段着と合わせ易いこともあったから、専ら予備で購入した方を着用している。

 

 デジタル時計は中の電子部品が駄目になると電池を替えてももう使い物にならないから、是まで選んで来なかった。物に執着してしまう質だから、成るべく長く使いたい、と直ぐ考えてしまう。すると、新しいものに手を出すのを敬遠し勝ちになってしまう。其れでいつまでも、寸足らずの、着馴れた上着やワイシャツなんかを着続けてしまう。異様は益々怪奇となり、おいそれと服屋に行くのも出来なくなれば、そんな出立でも許されるリサイクルショップや古物店に出入りする様になる。

 けれども、自分は決して古物趣味の人間ではない。他人が寄せたのと同程度に、自分が古物を大切に出来る自信もなければ、末永く保全しようという覚悟も出来ない。物に対する敬意を持てるかというのと、実際に自分が其の看護が出来るかは別問題である。

 古物に限らず新品であっても、其れなりに使い勝手がいいと、自分なんかは遂調子に乗って酷使してしまう。気に入ったら何処にでも身に着けて、持ち運ぶ。其の所為で随分な数の本を駄目にしてしまった。

 物言わぬ器物に対する扱いは、其れに慣れれば慣れる程、程度は甚だしくなる。漸く最近其の事を自覚して、今は常用しない事にした。

 

 自分の場合、何か大切にしたいと思うものについては平時は放っておく事が一番無難であるらしい。誰かに盗られたりしない限り、何処に置いたか仕舞ったか、最後に何時手入れをしたとか把握しておけば、独りでに何処かへ行ってしまうという事もない。

 気に入ったからと言って持ち歩けば、其れ丈他人に盗られる可能性も高くなる。学生時代、既に同じデザインの万年筆を二本、紛失したが、何れも自分には高価で一万円する物であった。赤と黒を基調とした、バッキンガム宮殿の衛兵を彷彿とさせるデザインは、多分他の人にも魅力的に映ったに相違ない(斯ういう時は自分の眼にも自信を持ちたくなる)。

 二度も失くすともう持とうという気は無くなってしまった。若し手にしたとして、三度とも失くしたという事になっては、恐らく自分は万年筆を持つ事自体止めてしまいたくなるだろう。其れは、他人に懲りたというよりも、自分に愛想が尽き果ててしまいそうで恐ろしいからである。

 誰に拾われたにせよ、取られたにせよ、今も其れ等が大切にされている事を自分は願って止まないが、然し本当に筋を通すのであれば、自分はもう万年筆を使わないのが正当なのだろう。

 今使っている万年筆は、以前の物よりもずっと安い品物で、実は三本目であったりする。同じ型の色違いを使っている。一本目は黒で、限定色だった。是を友人に譲った。二本目は水色を選んだ。然し、半年もしない内に破損してしまった。インクが漏るようになったので、今度は少し濃い青の新品を購入した。

 

 万年筆で自分が物を書くようになってから、もう七年経つ。其の間に、ひとから貰ったものを含めて自分が持ったものは九本を数える。内、寿命を迎えたりして使えなくなったもの、使わなくなったものは三本で、他は贈ったものを除いて四本は使用中に紛失・破損してしまった。

 筆圧が強い所為で、自分が使う筆記具は直ぐに先がぐらつくようになってしまう。

 元々、力のない分、肘で物を書くのが得意ではない――というのは言い訳に過ぎない。だが、もうそろそろ、今使っているペンは抽斗に仕舞う事にしようと考えている。幸い、メーカーも若者向けの廉価なモデルを多数売り出しているから、其の中から選んで、今後は定期的に買い替える積もりだ。

 機械式時計は、十万しないなら修理に出すまでもなく、使い捨てと捉えるべき――なる旨のコメントを「知恵袋」で見かけたが、万年筆についても恐らく其の位の感覚を持つべきなのだろう。果たして其れは適切な指摘であり、何時までも身の丈に合わない代物を使い続けるのは窮屈で苦しい許りだ。腹が支えて前が閉まらないブレザーはメルカリにでも出品してしまい、二回り大きなサイズのジャケットを買う足しにするならば、AOKIも青山も嫌な顔はしない。

 然し、用心しないと普段使う物に限って何処にやったか忘れて仕舞うものである。普段着ないような上着やズボンはクローゼットや箪笥の抽斗に仕舞われているから、割合探すのに手間取らない。

 そういったものは、何処に仕舞ったか忘れないよう、手近な机の抽斗とかに仕舞って置く事だ。使ったら又元在った場所に戻す。相する事で、せめても失くしたりする事を予防する事が出来る。

 精々、出来る事と言えば後は使わない時には放っておく事位である。気になるからと玩ぶのは事故の故だ。

 どうせ、用があれば直ぐ使うのだから、必要な時に直ぐ取り出せる様、無暗矢鱈に場所を変えない事に気を遣っていれば構わない。其れでお互い、十分である。

歳食った

書く事が最早ない、とは言えないのが困難な状況を作り出したのは自分ではない。既に先行する例に憧れ模倣して書くだけなら、其れは未だ書く事があるのでマシである。嘘を吐くのは良くない事だが。

然し書く事がない、という事だけは言いたいというのが妙である。限界というべきか。恐らくはもう、書きたい事もないのであろう。

思わず口をついて出る言葉は書きたい言葉ではない。そんな欲望は特にない。但し、何か目の前に餌をぶら下げられたら、物欲しさに彼是言うかも知れない。

困った事には、書きたい事は自分から求めて訪ねて行かねばならないらしく、其の為に必要な資源がない場合、諦めるより仕方がないようである。

旅の支度を整える内に如何やら此の人生も終わりが見えそうである兆しが、此の頃顕著に感じられるようになった。最早此れまで、という感覚である。

然し、なおも余命はある。斯くなる上は、適当に何か形だけで見書けばいいのか。書くフリをするとでもいうべきか。そんな事に資源を費やすのは、はなから望まないが、かと言って他に何もないならば仕方なかろうか?

嫉妬の効能

 

  嫉妬について

 

 蓋し、嫉妬ほど始末に負えない感情はない、とは三木清も云うところである。

 嫉妬は、貧困からやって来る感情である。腹立たしさの中でも、取り分け遣る瀬ない怒りのひとつである。

 大抵の怒りは、諦めがつけば治るが、嫉妬の炎は其の「まあいっか」の一言を言おうとすれば余計に激しくなる。というのも、自分の不足を自覚すればこそ、持てる奴を羨むからである。

 嫉妬の場合は、寧ろどんどん炎上させるのが最良である。瞬時に感情を燃焼させてしまうのが最も無難である。というのも、どうせ火は燃えている間消せないからである。

 言わば、此の火は酸素が無い為に何時迄も燻っている、火に非る火である。故に、燃焼に必要な酸素を供給してしまえば、此の火は消えてなくなるのである。

 丁度、「スニッカーズ」のCMの様な調子である。腹が空くから別人に変貌してしまうのであるから、満たしてしまえば元に戻るのである。

 嫉妬という此の陰気な性質の感情は、誤魔化しが効かない怒りである。

 というのも、自分が嫉妬するものは、本気で自分が求めているものだからである。何か持っている相手が憎いのではなく、相手の手の中に其れがあるのが腹立たしいのである。詰まり、持ち主ではなしに、持ち物に対して怒っているのである。自分の手許にあるべきものが、他人の手の内にあることが許し難いのである。

 「金は天下のまわりもの」と、言いながら、何時迄も何処かの口座に眠っている金に対する怒りが嫉妬である。

 嫉妬は其の感情を抱く者、向けられる者双方に取って、厄介な感情である。「リア充爆発しろ」と言う方も、言われる方も不幸である。と言うのも、言う本人は、言うからには決して自分はリア充には転倒出来ないからである。

 嫉妬しないよう我慢することは人をより不幸な状況に陥らせる。「嫉妬する奴は卑しい奴」という観念は、徹底すると、人は表立って嫉くことはなくなるだろうが、自分に何が不足しているかも分からず、闇雲に現状をただ只管託つ許りで、状況を改善しようともしない、愚蒙な状態に人は陥ろうものである。

 無論、唯嫉妬するだけで、何が必要か自明でなければ、其の人は愚蒙である。だからこそ、自分の現状を知悉するにも、徹底して嫉く必要がある。卑しく浅ましく堕落する必要がある。

 其れは、何かに感謝するよりも重要であり、というのも、無い物を感謝する事は出来ないからである。先ずは何をか得べきである。故に堕落する必要あり、嫉妬の必要ありと言える。

 其の必要性は高く、直ぐにも行う必要がある。程度の差こそあれ、何かにイラッと来た時は、其の機を逃さず、直ぐにも行動する必要がある。何が自分に不足しているのか、分かるチャンスと捉えて考え、後回しにしないようにするだけの、寛容さを持つべきである。

 寛容は諦念とは全く異なる性質である。屡々、混同されてしまうが、同じ「まあいいか」という台詞も、寛容故か諦念故かで大きく其のニュアンスに差が生じる。後者には前者の湛える余裕が無い。其の微妙な自己の内部におけるニュアンスの違いが、嫉妬の有無として捉えられる。

 寛容であることが困難なのは、ゆとりを持つことが困難であるからである。詰まるところ、ゆとりを持てるだけの富もなく、貧しいから、寛容にはなれないのである。

 寛容であるように装う為に、諦念することこそ卑しい行為である。ブドウが食べられなくて落胆する方が、「アレは酸っぱい」とか言って何か知識を持っているかの様に振る舞うより、優れている。

 自分は不足しているという事を知ろうともせず、ただ言葉だけ聞いて知ったフリをして開き直る者は、知ったかぶりをするよりも卑しく恥知らずである。というのも、自分は何も持っていない癖に、丸で何か持っているかのように振る舞うからである。

 更にこれよりも恥知らずなのは、昨今に限らないかもしれないが、他人を其の様な卑劣な者として扱う事である。「リア充死ね!」とか叫ぶ人に同情する事、他人の持ち物に嫉妬している人を見て、自分が少なくとも其れより豊かで優れていると考える事こそ、最低の行為である。自分も嫉妬している事に気付ける内が未だマシである。恰も、自分には何一つ不足が無い様な調子で生きている事こそ、恥じるべきである。嫉妬は、また恥を知る手掛かりでもある。

 嫉妬は恥じるべきであり、慎むべき感情ではあるが、自分に何が不足しているか知る為にも、冷静に分析するべき感情である。

 例えば、いつになく他人に対してヘイトが溜まる時には、相手の何に対して自分が気になっているかを分析し、何に嫉妬しているかを知る事が出来れば、無用な諍いは避ける事が出来る。そして、案外其の原因が、寝不足であったり、栄養不足であったら、其の不足を補えばいい。ただ、其の不足を補う事が容易ではない場合が殆どであるから、嫉妬というのは甚だ始末に負えないと言えるのである。

 然し、其の場合、実際に始末に負えないのは、如何にもならない状況である。其れが責任転嫁であると他人から責められようとも、だからと言って、他人の財産や配偶者を横取りする事が許される筈もない。だが、そう暢気な事を言ってられるのは例外的事情においてのみである。

 

 嫉妬の感情を分析した後、そんな暢気な環境から離れて豊かになろうと、寛容になろうとするか、或いは現状に留まって諦念を憶える努力をするか。其処から先は最早個々人が夫々考えねばならない事である。夫々の価値観に依って決断すべき事柄に、ああせい・こうせいと他人が兎や角口を挟む謂れは何処にもない。相手が何かを仕出かしたら自分に害があるとか、そういう理由で止めさせた時も、相手の価値観には頓著した事にはならない。

 「汝自らを」求める限りにおいて、嫉妬は拗らせるべき病である。持てない自分を恨む人は、嫉いて妬いて、焼かれるべきである。

 自分には無い物を持っている他人を恨むだけで満足する程度の人は、なるたけ嫉妬しないよう、耳目を塞ぎ緘黙するべきである。

 

  

 

かたち造ること

 

  一、

九段下の駅から北の丸公園に歩くまでの間の事であるが、友人と話す内に、自分は友人が立てたプランの枠を超えて、好き勝手に遊び始めていることに気が付いた。

 それが明白になったのは、旧近衛師団司令部庁舎、現在国立近代美術館の工芸館に立ち寄った折であった。

 「いつになくテンションが高いですなぁ」と、些か戸惑いながら友人が言ったので漸く自覚した程であった。

 

 興奮と驚きは常に想定の範囲外からやって来る。

 「今に来るぞ、きっと来るぞ」という、想定内に捻じ込まれた意外性は、北の丸公園の中で、六芒星の並んだ科学技術館の外壁を見掛けた時に感じた物であったが、其れと、司令部の威容を青空の下で目の当たりにした時の喜びは、異質の感覚であった。

 工芸館の展示を見た後、公文書館に行く予定であったのを、時間にゆとりがあるからと其の儘、砲台跡のある千鳥ヶ淵緑道を歩いて、眼下に首都高速道路とお堀を認めた時、或いは小径を通せん坊する、思い切り伸ばした腕で一抱えあろうかという松の巨樹に出会した時、こんもりと茂れる青葉の中にぼうぼうと燃えるように咲いたハナミズキの白い花群を認めた時や、思いの外小さかった砲台跡に立った時の感覚。

 其れ等は皆、地図に当たれば予測出来る所のものばかりであったか、といえば、否であろう。

 其れ等の発見者は唯私一人であり、案内をして呉れた友人が用意して呉れたものではない。

 

 当然ながら、其れ等は全く何一つとして私の為に用意されたものではなくて、他にある目的の為にか、整備されたものに相違ないのであった。

 が、然し其れ等を私は「借りて」我が景色としたのである。交番の花壇の薔薇の花を愛でたのは自分であり、堀に流れ込む淀んだ水に写った首都高の車を褒めたのも自分である。

 其の時、私は鑑賞者として其処に立ち、其れ等彼等を見て愛でたのである。

 松が目出度く有り難いのは、其れ等が本来、神聖な樹木であるからではなく、先ずは其の巨樹が愛でられる事が出来るからこそ、縁起も能く、尊重する事が可能なのである。

 

  決まり事は、形許り守ったところでも、其れがフリである事は屡々自覚される所である。

  では、フリではなくて、実際に其の意味するところを知る事は如何いう事なのか、というと其れは一言で言えば、其れに熱狂する事であり、妄動する事であるーーというのが、今度の経験を踏まえた上での見解である

 

  屡々、知り合いの人が、銘々各自の尊ぶものを「尊い」と呼ぶ感情が、久しく私には失われていた訳であるが、此の程、はたと気付いたところ、自分は寄り道をして、惑っていたのであった。

  幸い、今度は皇居周辺の地理名所を知悉した友人が着いていて呉れたお陰で、迷子に成らずに済んだものの、果たして、友人が居なければ私は大の大人でありながら、お巡りさんのお世話になって居た事だろう。そして屹度、神保町の小路にも入らなければ、神田明神の前祭の奉納神楽を鑑賞する事もなかったであろう。

 ゴジラに壊され、火の海になった、虎ノ門広場を左手に遠く望みながら、新緑の傘の下、木漏れ日のさんざめく千鳥ヶ淵の緑道を野郎二人で歩くのは、甚だ異様であり滑稽であるが、果たして其の実態は、燦々と輝く太陽と木の芽時の陽気に当てられて戦慄し興奮状態に陥った男と、そんな事になるとは知らずうっかり呼び出して仕舞った不幸な男が後を追うーーという、そんな有様であった。

 

  二、

 公園というものはタダではないのだが、其れが税金で維持されているとは知りつつも、或いは自分達の学費で賄われていると知ってても、学生や市民が図書館や博物館・美術館に縁遠い様に、公園もまた、基本無料という理由で、中々利用客が少ないというのは、全く市民権教育の敗北とも言うべきであろう。

 元来、市民の憩いの場であろう筈の公園や他の文化施設が軒並み赤字で、老朽化だ経費削減だ、問題を山積し、挙句に学芸員が事もあろうに議員大臣により「癌」呼ばわりされる現状を作り出した社会が、如何で市民社会である筈もなく、其の構成員も当然、十分な教養を持っているとも言えないのであるが、如此く大上段に構えれば部分を抜き出し、木を見て森を見ず、其の癖、全てを理解したかのように踏ん反り返る、知ったか振りの得意な連中が、息巻いて反抗してみせ、曰く「自分は馬鹿ではないから、態々公園なぞ歩かなくても、其の良さは熟知している」と、息巻くのは必定であろう。

 然し、彼等が知る所の「良さ」と言うものは、飽く迄も、 行政等が彼等に提供するサービスの質であり、彼等自身が見出した、創出したところの価値ではない。

 

 例えば、彼等は道の真ん中に松の木がドーンと聳えて居るのに出会した時、其れが如何してこんな所に生えているかと困惑し、説明を求めるのである。

 そして、特に自分達が「其れは正しい」「全うである」と思えない説明が与えられない場合、直ぐ様、「こんな邪魔なもの、退けて了え」と叫ぶのである。見上げて、其の大きな枝振りに感激する事もなく、幹の太さから、一体何れ位前から存えているのだろう、とも思いを巡らす事もしない。

 自ら積極的に、其処に価値を見出せない人間は何時迄も貧しい儘である。と言うのも、結局彼等はサービスを受ける為に、折角稼いだ財産を叩いて仕舞うからである。

 

 「私達をもっと楽しませてくれ!!」と思う人達は、時間やお金を惜しげもなく費やして、行儀良く並んで、炎天下、何時間でも待機する訳だが、果たして其れで得られた価値が、自分達の費やした価値を上回るか、と言えば決して上回る事はない。と言うのも、儲けが無ければ商売にならないからである。支払われる額は元値を必ず上回る様に設定されている。ギャンブルで儲かる事は決してない。

 

  楽しませて呉れるものの多くは、自分が其れを楽しんでいる錯覚を齎しているに過ぎない。酒やクスリの様に、酔わせて惑わせて翻弄する。態と揺らして、船縁にしがみ付かせ、恰も大冒険をしている「かの様に」乗客を楽しませる。

  だが、其れは結局、ごっこに過ぎない。当然、フリでも動揺させているのだから、其処で得られるスリルは本物である。然し、いつかは冷める熱である。焚き付けられたところで、元々湿気ている薪は暫くの間は燃えるかもしれないけれども、其の内、燻って、黒い煙を上げて、最後自然に鎮火して了う。

  工芸館に展示されている数多の精緻な名品の数々も、受け身の客が見るのでは、全く甲斐がない取組みである。興味を持って頂ければ幸いーーという、能く耳にする悲観的な台詞も、詰まる所、来る客の殆どが、美術館とかをガソリンスタンドの洗車機の様に、俗世の塵埃を洗い落として、感性を研ぎ澄ませて呉れる場所だと考えている内は、彼等は寧ろ、其れ等の神聖さを手垢で汚す位の事しか出来ない。

 

  三

  暖炉の火は、凍えた身体を温めて呉れる有り難いものだろうけれども、結局、其れが有り難いものなのは、薪あっての事である。薪は一人でに、ポンと其処らの部屋の隅に湧いて出て来る物でもなければ、結局、誰かが何処かの山から採って来て、運んで、割って、焚べて呉れなければ、暖炉は何の有り難みもないタダの窪みである。

  

 有り難いものは、有り難い由縁があるのだけれども、其の有り難みとは、詰まる所、見る人自身が其処に発見するより他ない。押し付けられた価値を墨守したところで、漆と卵殻で描かれた狐の屏風の素晴らしさは、有り難みは感じられない。

 ただ、此の感覚は見付けようと思って見付けられる様な類いの産物ではない。醒めた意識で見た夢は現実と変わらない。だから、此処で逸脱が必要になる。「想定外」の事態に自分を追い込まなければならなくなる。惑う必要がある。道を失う必要がある。ガイドが居ると、比較的容易であるが、一方で、能く知った人と一緒にいたりすると、初めて目にしたものも既知の範疇に繰り込んで仕舞う恐れがある。

 

 道に迷った其の時に、自分が迷子になったのだと気が付ければ、其の途端に、其の何か恐ろしい様な懐かしい様な、奇妙な喜びが目の前に立ち現れる。見慣れたものは何一つない。というのも、自分が何処に居るか分からなくなるからだ。

 此の時、何か道標を探そうとする内は、真底遊ぶ事なんて出来やしない。何かよすがを手繰る内は、心細さから解き放たれる事がないから、其の内半狂乱になって、レジャーどころではなくなって仕舞うのだ。

 

 此の恐怖を、「ついうっかり」忘れて仕舞った瞬間に、兆す感覚が「有り難み」であり、其れは「尊さ」である。

 

 人によっては、其れを魔と呼んだりもする。絶えず緊張状態にある人は、此の魔がさす隙がない。或いは、魔がさしたりすると、其れに圧し倒されて仕舞う怖さがあるから、其の代替物に安全に飲み込まれようとする。

 けれども、魔がさしてないので、実際は対象に有り難みも尊さも感じていたりしない。

 寧ろ自分なんかは、此の、錯覚こそが人を惑わせる魔である様に考える。

 

  四、

 千鳥ヶ淵を後にして、また九段下に戻って来た自分達は、神保町で昼飯を摂った後、神田明神に向けて歩き始めた。

  最早、予定とは随分、異なった道中を歩んで来た序でに、友人の思い付きでニコライ堂に寄り道した。

 神田明神では、神田祭のお囃子と雅楽の演奏、奉納舞を初めて目にした。着いたと同時に目の前で能楽堂のシャッターが開き、終わった時間も、引き揚げるにはいい頃合いであった。

  偶然であったものの流石に出来過ぎであると思ったのか、友人は頻りに自分の人徳のなせる所だと説いていた。自分は少なからず、其れに同調した。

 

 神社の境内には、「楽しませるもの」であるところの様々なものに溢れていた。境内の建物を初め、獅子舞が踊る御神籤とか、「ラブライブ! 」のポスターであるとか、「ごちうさ」の幟であるとか、何かと賑々しい場にお囃子の音色は不安定であった。

 聴いている自分には、次にどんなメロディが流れるか全く予想が付かない。どんな終わり方をするかも分からない。止むかと思えばそうではなく、将又、急に急ぎ駆け出し始める鼓の音には一々驚かされるものがあった。

 慣れて仕舞えば如何って事はないのかも知れない。けれども、飽くまで其の様に其の様に冷静になって仕舞う事は果たして鑑賞者としては適切ではない。此方も真剣に、惑わされなければならないと考えた。其れは、自分の見たいものを見るために酔うのでもなく、緊張から解放される為に態と油断して見せるのでもなく、相手に自らの意識を託して此方は只管、従う事であった。

 

 演者は、其の演奏や舞を献げる相手がある前提で執り行う。一段低い所で其の様子を見ている自分には、果たして其の相手は決して確からしいものとして普段意識されないものだから、目の前で繰り広げられる一連の行為は、ただ受け身で観る丈では、空虚である。と言うのも、実のところ、彼等は観客が目の前に居るのに、観客を相手に演奏しているからではないからである。

 勘違いした観客は、壇上の奉仕者が、自分達に奉仕しているのだと思い込んで踏ん反り返り、何やらしたり顔で彼是隣の人と喋っていたりする。或いは、彼等の「謙虚な」態度が自分達に向けられたものとも勘違いして、感激したりする。だが、其れは何れも誤りである。観客は自分の背後にこそ気を付けねばならないのである。確かに今、此処に居て、舞台に相対している自分達の背後に立つ、舞台の上の人々が見ている先にあるものを、目前の景色から見出せねばならない。そうする事によって、初めて、価値が創造されるのである。其れ以前になかった価値が其の場に生じるのである。

  別に自分は、奉納の舞等から何か神霊を感知した、と言いたいのではない。

 寧ろ、自分が見出した、創出したのは其の音楽、舞踊の背景である。其れは、能く批判される様に、自分の目の奥に写った風景の投影なのかも知れないが、そうであったにせよ、自分としては、偶然機会を得た舞台から、全く思ってもみなかった考えを自分の中に見出した事に対する驚きは、並一通りではなかったのである。自分の中に潜在的にあった欲望を認めた、といった表現は、正直、事実がそうであろうと、私自身は余り好ましく思わない表現である。例え、同じ事を表現するにも、其処に表現の違いがあるなら、其の差を重視するべきだろうと考える。

  

 果たして、其の奉仕するところのものが、或いは其の様子を通じて思い描くところのものが自分の欲望の輪郭をなぞったところのものであったにせよ、此の輪郭をなぞる行為の一致が、見える景色の差を踏まえても、一つの形式として成り立っている事に自分は少なからず、驚いたのであった。

 これが成立するのは、詰まるところ、自分は其処に集った人々が、今此処に無いものを創造する為であると考えた。其れは決して、能く世間で説かれている様に「思いを一つに」していたりしない。

 何が作られているのか? ーーという問いの答えは一様では無いだろうが、何をしているのか、という問うところの答えは明白である。

 

  五、

 表現は違えど、何を欲していようとも、今此処に無い何かを求めて為すところの様子を見ると、何やら堪えられない感情が込み上げて来る。

 自分にしてみれば、何でそんな、と思う様な事であっても、当人からすれば如何ともしようのない事というものは多々あって、其れ等を何とかしようと彼是迷う程に、愈々、訳が分からなくなって困惑する事も屡々である。

  そんな時に何か明らかな指針が与えられれば良いものだが、そういう幸運というのは滅多にない訳で、そう誰にでもある事でもなければ、大抵は諦めるより他なかったりする。

  其処で、もう一旦道を外れて道草を食ったりしていると、突然、何かが眼前に現れる。例えば、其れは松の木の内に見出されるかも知れないし、首都高の橋脚の内に見出されるかも知れない。ただ、何にせよ、確かな事は、其の内に見出した価値であり、尊さであり、其れを見出すに至った過程である。

 ただ、其の過程というものは、傍目から、醒めた目で見れば、きっと滑稽に違いなくて、というのも、忘れては同じところを行ったり来たりしている様に見えるだろうからである。一瞬、とても有り難く見えても、醒めた目で見れば、所詮、松の木、所詮、橋である。

 瞬間は持続せず、人は専ら其の残像を追う許りである。其の事から離れられる事は恐らく人間には出来ない。ただ、此処で諦めたり、受け身の姿勢に徹する事は、瞬間的には可能である事を忘れさせる。

 寧ろ、瞬間の頻度を努力こそ必要なのである。

 其々は不連続の瞬間であったとしても、其れがかなりの頻度で起こせる様になれば、人は恰も連続しているかのように錯覚する。其の錯覚も極めれば、最早連続しているのと区別が付かなくなるだろう。其の限界までの伸び代は未だ十分に人には残されているものと、私は考える次第である。

 

カレーにルー

 

 ルーのないカレーは、味噌のない御御御付けである。

 

 とはいえ、ルーさえポチャンと落とせば、取り敢えずはカレーっぽさはある。だが、カレーには具があったらなぁ、と考えてしまう。

  無論、具無しカレーというのも、考えられるには考えられるけれども、それは余りにも寂しい。それでは駄目だという積極的理由もないけれども、何かあれば、もっと美味しくなるのではないかしら、と考えるのが人情というものである。もとい、欲と言うべきか。

 

  西鶴先生曰く、人間は欲に手足の生えたものであるとか。もっとも、動物四十億年の歴史は、胃袋の進化の歴史であり、これに尾鰭や手足が生えて泳ぎ出したり駆け出したのが、今の動物の一派である。

  果てしない欲は胃袋からやって来ていると考えてもそう間違いない気がする。欲望は、目が美味しそうなものを見るから生まれるのである。だから、欲望の起源は胃袋である(多分)。

  当然、胃袋が進化したのが人間であるから、大層な脳味噌も、胃袋の付属品である事に違いはない。色々な機能が集約した脳だけれども、特に想像する機能は非常に重要である。

  想像してみて「これはマズイ」という事が食す前に分かれば、これほど結構なことはない。生憎と、実際社会はそれでも飲み食いせねばならない事も多々あるのだが、果たしてそれは脳味噌の持ち腐れとでも言うべきか。

 

  そんな胃袋の付属品、脳の拡張が進む昨今、それよりも何よりも、胃袋の拡張が進んだこの時代、電脳の海は生憎と単体では未だ人間の空腹を癒すにまでは栄養価のない代物である。

  だが、深夜の飯テロで腹は膨れないが、却って自分でも気付いていなかった身体のキャパシティに気が付いた人間は、モニターの前から離れて、或いは最近の事だから手に持ったまま、いそいそと誘い出された哀れな白火取の如く、深夜のコンビニの餌食になる。もとい、自分でも呆れるくらい沢山買い込んで、後悔する事になる。

 

 コンビニエンスストアに代表される21世紀初頭の現在の流通ネットワークは、良くも悪くも今次の時代の代名詞である。それと並んで、通販というものがあるが、現在は、この通販とコンビニのネットワークが地下鉄宜しく相互乗り入れする時代である。

  更にここに、古くからある人間というメディアが介在すると、事態は愈々複雑を極める。

  稍もすると忘れ勝ちだが、人間というこの二枚も三枚も舌がある生き物は、しょっちゅう嘘をついたり誤魔化したりいい格好したりサボったり何やら随分首尾一貫性もない出鱈目な行動をする上に、何かと言えば、時代の所為だ、技術の所為だ、社会の所為だと責任転嫁に遑なく、反省し、悔い改める事もせず、只管「アレってどんな味なのかなぁ......?」と妄想に耽る胃袋のネットワークなのである。共有される情報はと言えば、先ず「アレがウマイ!」「コレはマズイ!」「オイシソウ!」「ヒドい味!」と言った事くらいしかない。

  そんな胃袋のツイートのファボ、リツイートが伸びれば伸びるほど、何処かで誰かが過労で死んだりするのが現代という時代なのである(かも知れない)。

  閑話休題

  かのように、人間は自身を媒介項として、ネットの世界と現実の、ナマモノの世界を繋いでいる訳だが、此の距離は実に、脊髄の距離に相当しており、自宅からコンビニまでの例えば200メートルは、拡張された脳と胃袋の距離なのである。もしこれを、一個の生き物の身体で補おうとしたら、無茶苦茶大変である。それを人間という生き物は寄って集って巨大な身体を構築したといえそうである。

  21世紀の脳味噌的には、何だか知らない内に見えない世界が広がっている様に「感じたり」してる訳だけれども、そんな事考えながら食べてるファミチキはタイやアメリカから海を渡ってやって来てたり、コーヒーなんかは言わずもがな、遥か太平洋の向こう岸から金波銀波の波越えた「普段の味」であったりする。普段食べてるレトルトカレー、普段食べてる松屋の牛丼、何も何も、巨大な外部記憶装置に保存された膨大なネタ画像の、その一々のソースが最早何処から来たのかとんと分からぬように、今日日、生きてる人間にとり(ありがたい事には)、そのリソースが何処から来てどんな紆余曲折があったのかは、知ろうと思っても中々分からないように世の中というネットは出来ている。

  さてもさても、げにこの事こそ、真に讃えられるべき人智の偉業なのである。カレーのルーが如何やって出来るのか、それを知らなくても、カレーが食べられる。今夜のオカズが誰なのか、過程を知らずに消費出来る喜びは、鶏を此の手で締めずとも唐揚げの食える喜びと類の同じ喜びなのである。

  素直に飯が「美味しい」と喜ぶ事が出来るように、有史以来の歴史は殊、此処数百年の間に飛躍的に進歩し続けている。「御飯を食べる為に」「美味しい御飯を食べる為に」、そして「美味しく食べる為に」人類史は着々と発展し続けている。

  蓋し、人はルーのみに飽き足らず、人参とか玉葱とか馬鈴薯を入れたくなってしまうのである。胃袋の食欲は尽きる事がない。

 

「如何してお腹は減るのかな?」

  人類永遠の謎である。

ーー味噌にはダシを、スイカには塩を。

 

 

  所で、脳味噌の延長ばかり話してしまったが、最後に胃袋の延長の例について少し検討して擱筆としたい。

  先ず竃だが、これもある種の胃袋と考えるべきか、悩ましい所ではある。なので此処では傍に置くとして、代表的なのは鍋であろう。

  そのままではとても食べられたものではない、固〜い食材も、一晩コトコト煮る事で、よくよく消化のいい食べ物になる。レトルト食品も胃袋の延長にあると考えてもいいかもしれない。するとなると、電子レンジは如何なものか? 考えは尽きないが、キリがないので此処らへんで。

  

茶屋の押入れ

夢を見た。長い夢だったので途中は割愛して、部分だけを切り取って話す。ただ、不都合な部分を削ったというのではない。

仲間内の飲み会に誘われて強かに酔った後、帰り道、滅多に会合にも顔を出さない無愛想な連中にダメがらみした自分は、彼ら内の一人に自分の背負っていた大量の荷物を押し付けて、祭りへ繰り出した。

丁度その晩、賑やかな祭りの最中で明け方まで芝居や見世物を観た後で、泥だらけになりながら家に帰った。直ぐに寝ようと思っていたが、着替えている最中に荷物を忘れて来た事に気が付いた。慌てて家を飛び出した。

 

折からの向かい風は強く、傘を差していると圧されてちっとも前に進まなかった。翌日は平日で、暖かい春の雨に打たれて愈々自分の気持は怪しくなっていた。ただでさえ祭りの余韻が殷々と身体中に響いている。

結局、二つの鞄は其奴の家の玄関先に放り投げられていた。

 

其奴の家の隣は大きな雑木林で、自分は真っ直ぐ自分の宅から歩いて来たに過ぎなかったから、寄り道したくなった。ただ、普段からよく歩いているものだから、何もないのは詰まらないと思った。

すると、何処からか三味線の音とか聞こえ始めた。気が付くと、自分は座敷の真ん中に泥んこの儘、突っ立っていた。

閉じた襖の向こう側では、若い芸妓さんが二人、何やら日本史の授業を受けている様子だった。成る程、確かに必要だろう。最もらしい演出である。

自分は汚れた上着とかを脱いで、鞄と纏めて目の前の押入れにしまい込んだ。上の段は来客用か布団が積んであって、幾分余裕もあったから、其処で休ませて貰う事にした。

どうで自分は今、正気ではないのだし、其れを分かっていたとしても、自分は酔漢であり、世間的には列記とした精神異常者の部類に入るのである。無罪放免とまではいかないまでも、世間並みのお咎めはないものと考えた。

それで布団と布団の間に挟まって暫し疲れた身体を休める積もりで、内側から襖を閉めた。どうせ気配で露顕るだろうと考えたけど、真っ当な言い訳もあるしのうのうと構えていた。

 

夢の中で寝ても夢を見ることがある。けれども、今度は昏々と眠る事が出来た。

起こされた時、手に縄を下げた親爺が出て来て自分は大人しくこれに従う積もりで両手をずいと突き出した。

所が、思いの外、穏便に対処されてしまい、拍子抜けだった。住所を聞かれるより先に電話番号を聞かれた。何故か、通学先の学校の教頭から真っ先にお叱りの電話がかかって来た。茶屋の電話の子機で聴きながら、自分は迫真の演技で脂汗を流してみたりした。日曜日だというのに如何してそんなに早く教頭に連絡が行ったものか、事情を察するに可笑しくて仕方がなかったのだが、次に何故か伯母からの伝言を店の人に伝えられた時には驚いて反応の仕様がなかった。

 

其の時の自分はすっかり騙されたつもりで彼等の芝居に付き合っていた。彼等は、自分が狐である事も無自覚な連中なのだ。然し、実に堂々たる態度ーー其れも其の筈、彼等は真剣なのだーー、一切の自己に対する疑念を余燼も抱かぬ清々しさは自分を恥ずかしい気分にさせた。

人間でも、此処まで堂々と人間らしく振舞う事は容易ではない。怒る所では怒り、叱るべき所で叱り、譲る所は譲って、堪える所は堪えている。

 

居た堪れず、自分は親爺に断って身繕いをし始めた。所に、蓬髪の妙な如何にも狐らしい、胡散臭い若人が見物しに座敷を覗きにやって来た。自分は其奴が、何と無く自分が荷物を背負わせた知人の様に思われたけど、能く能く見たら別人だった。

 「大海にあると言うのに小さな浜辺で遊ぶだけか......」

彼はそう言うとケタケタと笑い始めた。

自分は其れを聞いて彼と話してみたくなった。夢の中で、人物に話し掛けられる事は滅多にない。

 自分は彼と問答するつもりで、単刀直入に尋ねてみた。

「フィロゾフィーが好きなんですか?」

「ああ、おや君も好きなんですか? ああ、いやまあ珍しい。そうなんですよ」

 狐めは大喜びで話し始めた。詰まり彼からすると、此の質実剛健な狐連中の生活は性に合わないらしい。ただ彼も糊口を凌ぐ為に家業の手伝いをしているに過ぎないのだそうだった。

「自分は人間ですからね」

「そうでしょう。人間は哲学する生き物ですから」

彼に狐と言うのは、何だか憚られる様な気がした。(或いは親爺の手前も在ったからだけれども)此の若旦那と話していると、これまで昼間起きている間に話していた事が全部詰まらない様に感ぜられてならなかった。

 ただ、彼の風態を見る限りでも、彼自身、未だ等身大の狐の姿で生きる事は厳しい様であった。狐にも環境や社会の問題は付き物らしい。

 暫く、彼の話を聞いた後、自分は此処に来た感想を彼に伝えたくなって斯う言った。

「然し、でも私は此処が好きですよ。どうせ何もかも世界は無いようなものなのですから、せめて遊べれば気持ちも守れます」

そう言うと、狐は不意と姿を消した。自分は立ち上がって、廊下に出て後を追おうとした。所が廊下に出て見ると、其処には見慣れた漆喰の壁が高々と聳えていた。何の事はない。夢から目が覚めただけであった。

  所詮は夢、夢である。然し其れを頭の中で唱えた時、声は自分の知らない声で再生された。春眠暁を覚えずとは正に此の事かと思った。

  鼻をかみながら携帯を開いてみると、昨日買った美術展のチケットが当日窓口で安く買えるという旨のメッセージが届いていたりした。

  昼間もまた、夢と同じくらい取り留めがないーーと、水を飲みながら思い付いた。