はてしなきひらひら

尾ひれが沢山付いてるけれども、言いたいことは、多分シンプル。

『永遠平和のために』(1)(紙震楼雑記)

 (1)

 カントの永遠平和論を読みながら、何か書こうかなと思って一年が経とうとしている。

 いかんせん、筆が遅い上に、生活の平穏が常に刀の刃を渡るような状況だから、丸で取り組む余裕がない。その癖、毎日コーヒーは飲んでいるが。

 

 毎日手柄杓ならぬハンドドリップでコーヒーを淹れて吞み下す。その内に新聞で、「飲み過ぎ注意」の表示が出たので読んでみたら、一時期の自分は、殆ど毎日、致死量を鱈腹呑んでいたらしかった。

 以前にも、他人から注意されて調べた時には、まさか100gが液体の目方とは思わなかったので、平気でじゃぶじゃぶ呑んでいたのだが、いやはや恐ろしいものである。

 

 世に言う健康法は試す気にはならないが、病気になる法を実践する程の酔狂人ではない。

 とはいえ、流石に恐ろしくなって来たので、運動がてら散歩の途中で、駈歩するようになった。ジョギングというほどのテンポでもない。

 しかし、その程度でもするだけ益しという話なので、日に何度か走っている。

 

 永遠平和というのはややこしい概念で、というのも「永遠」も「平和」も言葉はしょっちゅう見聞きする所為で、既に自明のことのように稍もすると等閑にしてしまうからである。

 然し、永遠も平和もふわふわとしたイメージなら容易である。というのもいづれの概念も、消極的には導くことが出来ると考えるからである。

 

 現実と虚構の関係は、彼方と此方位の、其の時々によって入れ替わる。

 人によっては、永遠平和が、或いは現実が絶対的な価値として、到達点として捉えられているかもしれないが、此処では別にどんな世界が好ましいという話をしている訳ではないので、価値についての話は割愛する。

 ただ、リアリティの話はこれからする話においては重要である気がする。というのも、其れは距離感の話と繋がると考えるからだ。

 

 (2)

 Wi-Fiが繋げないものだから、仕方無しにラジカセを点けて、テープを流した。ケースラベルに「中森明菜」と書いてあったのに、途中から回し始めたら、何故か美空ひばりの『真っ赤な太陽』が流れ始めた。其の次がシナトラの『カム・フライ・ウィズ・ミー』だった。

 丸で出鱈目である。

 

 自分は決して懐古趣味者でもない。そんなしょっちゅう、「クラシック」と呼ぶに値する物が出る筈もなく、また、其れが世に出た瞬間にはまだ、作品がクラシックーー名品かどうか、分からないものである。

 偶々書店や雑誌で「これは」と思っても、三年くらいは様子を見、其れから実際買って読んでるようにしてると、当然、足並みに遅れを取る事になる。

 其れくらい、世間の動向なんてのは曖昧なものである。向こう三年、五年くらいの視野が欲しい。其れこそ、十年二十年のスパンでブームを維持しようと思えば、瞬間的な高火力は必要としない。だが、ひたすら根気がいる。石の上にも三年、『みーまー』にも十年である。

 

 よく身もせずに飛び乗ったバスがうっかりトンデモナイ行き先で、後から慌てふためくのは宜しくない。後で振り返って、「何であんなもん......」と思うような買い物はしても損である。

 アスナロ的精神では、結局何ものにもなれやしないだろうが、何かと急かせても、苗を枯らす事になる。「助長」というのは元来、そういう諺である。

 カントの永遠平和論も今や古典ーークラシックの域に入るのだろうが、しかし、彼此、此のブームは随分息が長いもので現在も細々と進行中である。其れこそ、美空ひばりやシナトラ並みに人口に膾炙しているものと信ずる所である。

 ただ、あんまりに流行り過ぎていると、おいそれと其れについての感想を述べようという気にもならず、ついつい気後れしてしまうのも、成る程、共通している。

 

 此の頃、古本屋で昔、流行ったのだろう新書類を100〜200円で買い漁っている。すると、其の時期毎に、其れがどんなブームを惹起したのかなんとなく読めて来るのである。

 バッハや古典音楽が何時頃流行ったのか、とか、そういう時代毎のブームが分かると、其の前後に流行った他ジャンルの作品との影響関係も分かって、其れが更に、二十年、三十年、と世代間の相関が見えて来ると、愈々面白い。

 トリビアルな話の種として扱われがちな年代記的な知識は、ハガキ程度の断片で読むよりも、矢張り反物であったずっと面白い。

 

 (3)

 カントの永遠平和論も、古本屋の棚に100円で売られてる位に流行っている本である。

 しかして其れらは、大抵の場合、世に言うオカルト本の類と同じ扱いを受けていると言っても過言ではない。「ノストラダムスの大予言」はミレニアム限定のイベントであったが、果たしてカントの永遠平和論は、いつでも使える終末論として、しかも「カント」というブランドが、其の娯楽の下らなさを程よく隠蔽してくれる。

 其れならば、何も永遠平和論でなくとも、『立正安国論』等でも良かろうものだが、果たして其れ等はとっくに論じられていて、新参者が彼此言うのは気がひけるーーという、またしてもクラシック趣味にありがちな、妙な気遣いが世人にカントを選ばせる動機であろう。だが、煎じ詰めれば、其の「無難さ」は、明治大正の頃より続く『カントは訳が分からない』という、恥知らずな偏見の陰に隠れるから得られる安全であって、自分から態々そんな本気で自分がバカだと思っているのでもなければ(多少とでも勉強する気があるなら)、何も「何でそんなに珍重されるかよく分からないけれども、持ってたり読んでたりすると頭良さそうだから入手してみよう」と真似して格好付けようとして失敗した者の真似をする事もないのである。

 

 ノストラダムスだって、予言ばかりが注目されて、丸でそこ等へんの山師みたな扱いがされてたりするのかもしれないが、医師としての業績などは、非常に興味深いのであるが、しかし昨今、ノストラダムスの名を口に出せば、何かと言えば嘲笑されもするので、自分は滅多に話にも取り上げない。

 何となれば、今次、此の「永遠平和」も随分、怪しからぬ響きを伴って世間一般に蔓延しているので、気がひける。これについては、自分の言いたい言葉はほぼ、ポプ子が述べてしまっている。別に此処に敢えて書いてもいいのだが、自分は何も、其の台詞が言いたいが為に、普段からお膳立てして生きている訳ではない。

 

 自分は決して、そんなつもりがなくても、言葉や台詞に纏わり付いた印象が何もかも邪魔をする。

 仕方がないので、自分で何とかまどろこしくとも、そうした先入観を惹起しないような言葉遣いを選ぶのだが、これが何とも手間であり、余計である。だが、本当に余計なのは、世に流布している印象の方であって、更に其れは偉大な先人が残したのではなく、後世に付けられた無数の余計な注釈から生じたものである。

 自分で先ず何かものを考えようと、先ず、道具である言葉の手入れから始めたはいいものの、何やら掃除してみれば、其れこそ年末の大掃除並みにギョッとする。

 其れはひとえに俗語で物を考えようとしているからだろうが、果たして其れは自分の好きこのみで選んだ事であるから然して苦しくはない。だが、此の頃は、どう足掻いても「所詮、此の程度か」という悲観が浮かんで来たりする。本式の道具を揃えて取り組んだ方が、矢張り正当である。俗語を用いるのは邪道である。

 

 然し、邪道だからこそ、高が知れているからこそ愉快であるとは言える。何処迄突き詰めても、此の『永遠平和』論は正当な評価を受けないだろう。然し、だからと言って不満はない。寧ろ当然である。

 筆者が此処で目指すところの文章は、精々中学生が初めて読むラノベ程度の価値である。其れが切っ掛けで自分で原典を手に取る切っ掛けになりさえすれば其れで十分である。

 寧ろ、ラノベや漫画の意義は、そうした原典に興味を抱かせる所にあると考えるので、其れ単体の価値というものは非常に小さいのではないかと考えてしまう。取っ付きやすい手掛かりであって、何時迄も其処にぶら下がっているのは不適切だろう。物語は現実の鏡像として、再び読者に現実に対する関心を惹起させてこそ、意義がある。ガイドブックの地図を眺めていても目的地に行ったことにはならない。

 

 

自殺未遂とかの感想

 

 自殺しようと思って実際、試みたのは十八の時の一度きりで、後で「死ねばいいんだ」と思ったことはあったが、ポジティブに、意気揚々と死のうと思ったことは一度もない。

 他人の話を聞いていても、正直、自殺を思い立った経緯くらい、他人からして如何でもいいことはない。思い立ったが吉日の心境に、恐らく興味があるんじゃないかと考える(勝手だが、自分はそうだ)。

 自分の場合は、自殺という明確な目標が出来た事で、とても元気になった。勿論、自分自身にはすっかり失望しているのだけれども、何処で死のうかとか、如何やって死のうかとか考えている間は、旅行計画を立ててる時くらい楽しかった。

 実際、本当にワクワクしていた。まさにそれは、非日常の経験であり、生涯一度きりの又とないチャンス(大抵、踏ん切りが付かないで、躊躇してしまう訳だが)だった。これから経験する事への期待で気分も高揚していた。個人的傾向として、柳田国男の「うたてこの世は......」で始まる詩を態々暗記して詠んでたくらいだから、兎に角、遠くへ行きたい欲求が強かったのだと思う。

 最寄りの自殺スポットを調べたら、丁度ダム湖があったので、そこまで徒歩で歩くことにした。片道数十キロであったが、どうせなら疲れた方が死に易いだろうと思って、深夜、雨の中を道なりに歩いていたら、手ぶらだったこともあってか、大して疲れも感じず、難なく辿り着けてしまった。死とは、こんなに身近だったのかと、そこですっかりと拍子抜けしてしまった。死に憧れを懐く歳頃であったとは言え、あんまりに其れが身近になってしまうと、途端に幻滅してしまうのだった。

 其れでも、一度死ぬと決めたからには、と悔し紛れにダムの淵まで行ってみたのだが、幻滅してしまった後だと如何にも気乗りがせず、ぐるっと蛇行して湖面を照らしている山道の明かり見て、更に上流のダム湖を目指して山を登り始めたが、途中、コンビニにトイレに寄ったが最後、こんな所で死ぬのが馬鹿馬鹿しく思えて、止してしまった。

 

 死ぬのが何がしか、救いになるなら未だしも、何の足しにもならないのに死ぬ理由がないーーというのが、自分の感想である。淡々と自殺するのは、如何にも気乗りがしない。

 尤もらしい理由は幾らでも立てる事が出来たが、肝心の「甲斐性」が自分にはなかった。時期を逸した、という感が強い。

 何事にも時期というものがあって、自分の場合は、十六、七が「死に時」であった。素直に、欲望に従って心中した方が余程、ダム湖で死んだとしても、其れよりずっと自己満足は出来た事だろう。所が、そうはしなかったので、そんな奴が今更、一人で死んだ所で......という気持が、迚も否めなかった。

 自殺未遂とすら呼べもしない貧弱な散歩だったが、後日、其の事で再三責められたりもしたが、ならばいっそ、相手も巻き込んで心中未遂でもした方がこんなに幻滅される事もなかったのかしらん、とか考えるくらいには太々しくなっているのに我ながら驚いたりした。とまれ、今となってはお笑い種である。

 

 結論としては、何よりも思い立ったが吉日というのは至言であるーーという一言に尽きる。

 自分の場合には、あーでもない、こーでもないと悩んでいる内に、二進も三進もいかなくなって、死ぬ事さえ出来ずに宙ぶらりんで、消極的に生きる事を択ばざるを得なくなってしまった。

 然し、此処まで、敢えて言うまでもないがこれは悉く筆者個人の経験を省みた感想に過ぎないから、人によっては未だ未だこれから「死に時」が来る人もあるかもしれない。(そうでない人は、もう諦めましょう)

 然し、生憎とそのタイミングは生きている内にしか分からないし、大抵の場合には、通過した後になってから気付く事が多いから、例え死んでみても後の祭りである。

 そうなる前に、予防的に死のうとして自殺しても、その死自体はフライングしている訳だし、とっても態とらしい死に方となってしまうから、下々の下だろうか。

 

 特にオチらしいオチもない。

カバン

  何かと言えば誤解され易いのだが、私は本好きではない。読書は好きでもないし、嫌いでもない。必要があるから、好ましいから読書するに過ぎぬ。学業が好きという訳でもない。ただ物を知らないというのが恐ろしいから勉める許りである。


  本なんて重くて嵩張って、おまけに高くて扱いも面倒臭い。自分で光もせず、夜や雨天の時には読めず、鞄の中でへし折れたりする。安くもないのに重さに耐え兼ねて、鞄のベルトや金具が弾ける事もある。既に四、五個は駄目になった。腰や背骨に掛かる負荷も並ではない。
丈夫な鞄を買う金もなければ、高価な本を其の時其の場で購入出来る現金もない。だから、索引のない、劣悪な書籍を何冊も抱えて歩かねばならなくなる。貧乏人は学問さえ許されぬ。

  貧乏人にとって、最大の敵は身内である。
  そんな役にも立たない勉強の真似事なんか止めろという。其の癖、自分達は何かと言えば骨休めだと抜かして潰しも利かない買物をしてのうのうとしている。
そんな風だからいつまで経っても貧しい儘なのだと言ってやると逆上して、胸倉引っ掴みながら、「誰のお陰で生きてやがる」と唾き飛ばしながら叫んで来る。
  誰のお陰と言えば、詰まる所、其れは斯様な人間でも妻子を持てる様に計らった、何処かの誰かの情けだろう。或いは、所帯を持っていれば、早々仕事を放り出し、逃走を図ろうとは考えるまい、という打算の上での取り計らいであろう。蓋し、社会的信用なぞは、動かないことの価値である。儘ならない程に信用は増す。融通が利かず、他では使い用がなくなる程に、其れは「掛け替えのないもの」として重宝される。誰も始めから、そう潰しの利かないものではないのだし、態々身を粉にして不自由を蒙ろうとする者もない。だから、そうせねばならない理由を付けて、難癖付けられるようにお膳立てをする。
  縁だの絆だの、伝統だの、そんなものには端から値打はない。牛の手綱を1000万円すると勘違いするバカもいない。

 

  鞄のベルトが引き千切れても、懲りずに其れを担いで歩くのは、何も本が好きであるからではない。
  今時金持ちは手ブラである。大きな袋を幾つも提げて手放さないのは、新宿や八王子のホームレス位である。ニューヨークのホームレスに肥満が多いのは、偏った食生活が原因であるというレポート記事を昔読んだ事がある。物持ちが富裕である、というのも今や昔である。
 

  無駄や時間や骨折りをしない為にも、学問は必要である、と説くのも阿呆らしい。初めから、健康を気遣う志向もない人間に体調管理の効能を「納得」して貰うには、先ずは病気になって貰い、其れから快復して貰うのが一番手っ取り早い。だが、ずっと病気で其れが常態化している様な人には、健康こそ異常であり病気である。

  然し、病気の人は健康である事が如何いう事か知らないから、不幸とも言えないのである。飽くまで不幸とは、健康という幸福を知る人しか知らない感性である。
  後悔先に立たず、というが、後悔するにも一刻の幸福感は必要である。

  読書は幸福でもないし、不幸でもない。何となれば、期待である。吉と出るか凶と出るかは、考えても分からない。或る面で賭けである。
  然し、読書の興奮は醒めている。其処に娯楽的要素は少ない。何故なら不安から、自分は本を手に取るからである。借金返済の為に馬券を買う様な気持ちで本を買う。其れで我が意を得たるとしても、翌日には肩凝りもぶり返している。此の頃の空気は、悦に浸るには余りに生微温い。



それいけ! ルサンチマン 【月に行く道程(1)】

 

  1

 

 「私を月に連れてって」

といえば、相手がその沽券にかけて送り届けてくれたのも今は昔の話。

 別に、そう意地はる理由も、よくよく考えてみたら特に無し。月に行って何になる。別にチーズの塊でもなかろうが。

 

 大金塊が埋まっていようとも、それが誰かの金時計にならなければ、採算も取れない。

 火鼠の皮衣、燕の子安貝、蓬莱の玉の枝の時代から、サンプルリターンは当然の事、要は「月へ行く」のは相手の覚悟を試しているに過ぎず、所詮は其れが目的ではない。

 

 手段としての有人飛行なんて、其れ自体、意味が無い虚しい行為である。

 そんな骨折りするよりも、安物のベッドの上でギシギシ遊んでた方が余程楽しいであろう。

 「打上げ」の瞬間の高揚が、仮に開発者達にとって最高の幸福であるとしたならば、多分、人類は決して月面に到達しなかった筈である。

 問題は常に「如何に解決するか」なのである。打上げたはいい。問題は其の責任を如何にして取るかーー其れのみなのである。

 

 本来、月旅行者が試すべきは、覚悟でなしに相手の能力である。

 無論、当然のように、中には其の相手の能力を試している人もあろうけれども、問われた方が察しの悪い輩であったら、トンデモナイ目に遭うかもしれない。

 「月に行きたい」とか、妙な事を抜かす気持を斟酌せず、取り敢えず、行きたいと言うのだから、行かせてやったが、其の所為で大いなる竹箆返しを食らったーーという、『理不尽な目に遭った』人の話は枚挙に暇がない。

 だが、好い加減、学習するべきなのである。そういう無理難題を吹っ掛けて来る得体の知れない連中と関わりを持った人の物語には、必ず不幸な結末が待ち受けているのだ、と。

 

 不幸にして、うっかり関わりを持ってしまったが為に、人が負うた目は残酷なものばかりである。ある者は飼い犬に噛み殺されて、またある者は文字通り、腰の骨を折って敢え無くなってしまった。

 しかし、何となれば、不幸だと同情されるのは、其の犠牲者では無く魔性の者である。其処に、同情を寄せる人間の傲りがある。翻弄されているのは己なのである。

 

 相手は当然だと思っている。自分が其れだけの要求を課して、漸く相手と自分とが対等だと考えている。其処には決して、相手に対する敬意とか、配慮とか、労わりとかは微塵もない。

 其の癖、自分では空も飛べやしないのである。精々、待つ身は憂いもの、とか宣って寝床でゴロゴロ転がっている位が関の山である。

 

 そんな奴の要求を、何故そんなに叶えてやらねばならぬのか。

 ただ、其の理由は、開発者の裡に秘められている。

 

 

  2

 

 寝ている奴を叩き起こして、夜中窓から満天の星空へスウィングバイしなければならない、と人を駆り立てるのは、強迫観念であり、罪悪感である。

 そして、其の罪悪感は、本来なら目の前にいる、寝ぼけ眼のオタンコナスに向けられるべき怒りが素になっていたりする。

 

 相手に対する怒りが、深ければ深い程、相手は望んだ遠い所へと、高く、高く、放り投げられる事になる。

 地球の重力圏を抜けるには、かなりの怒りが自分に向けられなければならない。其の為には、足場となる連中には存分に、憎まれなければならぬ。

 

 本心から言えば、そういう過大要求をして来る連中は、「棒ほど願って、針ほど叶う」を地で行く連中である事が大半である。

 「どうせ、出来っこないもの」と、端から期待もしていなかったものだから、いざ、舞い上がってみたら、受身が取れずに地上へ真っ逆様に失墜する。

 そして、そんな、相手の無様な姿を、見たいとも思わないのが、人情というものである。

 ならば、月とまでは言わず、火星でも木星でも、何となれば、最寄りの恒星まで送り届けて遣ろう、とするのが、真に之甲斐性と呼ぶべき行為であろう。

 

 然し、其れでも此の行為が、本質的に虚しい行為である事には変わらないのである。

 何故なら、行為が目的で無しに、相手への挑発の、報復の、手段となってしまったからである。

 人によっては、はじめから、宇宙に行くというのは口実で、相手と丁々発止やり合いたい欲望が、当人達をして、月に向かわしめたのだ、とか考えてしまう事もあるだろう。

 成る程、確かに其れは一理有るかも知れない。 けれども、其れでは益々、虚しい許りではないか。

 

 「月に行きたい」とまで、憂しと思えば此の世を恨む気持が、手近な宇宙航空開発研究者に向けられたのかも知れない。

 毎日何も変わらない、退屈な、地上での生活しかない「ココ」から何かの弾みで遠去かりたい、と思う欲求が、天井のシミを眺めている間にジワジワと胸の裡に広がっていったのかも知れない。

 今現在の境遇に対する、憎さ余って何気無しに、揶揄い半分に言ってみたセリフを真に受けられた日には、当人とすれば、そんな些細な一言で、何時迄も続くかのように思われた此の「日常」にピリオドが打たれるとは、全く想定の範囲外の事であったろう。

 

 失言とは常に予想外で、想定外の反応を引起こす。軽弾みな一言は、注意力散漫な時に呟いてしまい勝ちである。

 

 そんな、不幸な事故を起こさない為にも、「ゆとり」は不可欠なのであるが、此の大事な余暇も、其の過ごし方を知らねば、結句、甲斐のない時間になってしまう。

 旅行に行った先でも、見知らぬ天井に飽きてスマホを弄り始めたら最後ーーと思って、間違いない。 

 「ゆとり」は時なり。時は金なり。故に「ゆとり」も金なれば、其の"使い時"も往往にしてあって然るべきだろう。

 

 折角の財産も、然るべく、其の使途を弁えた人でなければ、持つ事も難しい。如何に所得が倍増しようと、最低賃金が上がろうと、其れで勝ち得た財産を運用する術を持たねば甲斐がない。

 ただ、何に価値を置くかは人夫々というのも確かである。

 然し、「他の時に出来無い事」だから、休みの日にしよう哉、という理由で何か手をつけるのは、聊か使い方としては勿体無い気もしないではない。というのも、其れは決して其れが「したいから」するのではないからであって、詰まりは消極的な動機に過ぎ無いからである。

 

 

  3

 

 「何の為に生まれて、何をして喜ぶ」というのが分からない。其れが困って、其れが悩みだ......。

 

 甚だ贅沢な悩みーーと、今次言えなくもない。

 だが、果たして、此の位の「ゼイタク」も自由ならぬ程に余裕ない状況というのは、甚だ貧しく、切羽詰まった状況であると言わざるを得ない。

 

 真に、人間にとっての幸福とは何ぞや、と考える暇も無しに、何の己の経済的発展だか知れたものではない。

 元々が貧しい状況からのスタートだったからとはいえ、果たして何時迄も、昔からの習い性で考え事はしない癖を直さないというのでは、圧倒的成長も無駄な骨折りである。

 

 また、実際にも余裕が無いにも拘らず、其の不安を紛らわす為に、矢鱈状況が改善しているかの様なスローガンを掲げる一方で、語気を荒げて不平不満を述べる代表者に対して、

「根も葉もない噂話を言い触らして人心を煽り、世の中に無用な緊張を齎している」 

等と、自分の事は丸で棚に上げて、いけしゃあしゃあと捲したてるのに忙しい人々の、印象操作も、また、詰まる所、要らぬ御節介であろう。

 

 斯くある事が幸福である、と言う様な事を未だ人々の納得する言い方で提示し得ぬ内は、当分の間、何方の努力も水泡に帰すだろう。

 世の為、人の為、というのが、結句建前として、口実に過ぎなくならざるを得ない所以は、何方の幸福も受け入れられていないからであろう。

 

 そんな「誰の口にも合う」ものはありもせなんだ、というのが今日の通説であり、多分、今後数世紀の間は、変わらぬ合意として広く世間で共有される事だろう。

 だが、世は徒然に変化し、何かの弾みに根底からひっくり返ってしまうものである。何も悪い方許りにでは無いだろう。

 或る者にとっての不幸が、我が身の不幸である筈もないのだが、如何して人は他人の不幸に無関心でいる事を善としない。其れと言うのも、いづれは自分が困った時に、顧みられないと不幸であるから、という消極的な理由からに其れは過ぎないのである。積極的に、隣人に手を貸す理由が見当たらない内は、誰しもが納得する様な幸福なんて定規は見付かる筈もないのである。

 

 美味しい話には裏があり、見ず知らずの人が、何か素晴らしい物を自分に故もなく呉れる、という事は先ず有り得ない。

 況してや、自分の顔を千切って渡すものに、怪しいものではない可能性は、万に一つも存在しないーー。

 こういう「偏見」に満ちた人類の約三、四千年の歴史に於いて、何が幸福か、という問いは余りに難解であり、故に二十一世紀初頭の現在に於いては、ネタとして消費するより他に仕方のない有様が続いている。

 

 自分の望みも分からぬ内に他人の願いを知る事も出来ぬであろう、と考えるのは強ち悪手でもなかろうが、其れだからといって、何ら自ら考えもせずに、只管相手の機嫌を損ねぬ様に服従するのみが選択肢、と信じ込んでしまうのも、何とも愚かしく嘆かわしい話である。

 

 「月に連れて行け」というので、宇宙空間に放り出したーーというのでは、あんまりに乱暴な話である。

 其れでいて、何か其れは、自分から惜しみなく奪ったのだとか抜かすようであれば、知ったか振りも大概にせよ、と言いたくもなるのである。

 誰も何も、奪ってもいないし、与えてもいないのである。ただ、其れは形式だけ見れば、彼方のものを此方へ、此方のものを彼方へと移し替えたに過ぎない。

 

 肝腎なのは、そうする事で何が増えて、何が減ったか、という事であろう。

 其れはただ、動き許り見ていても分からない事柄である。

 

 

  5

 

 月に行く或いは月に連れて行く事が幸福なのか分からなくても、いつかきっと、答えを告げられると、何の努力もせずに信じられる程に人は単純ではない。ただ、只管何もしなければ、有るのは沈黙許りである。

 

  努力して漸く何かそういう期待を維持し続けられる事を幸福だと考える事は論外としても、期待する許りでなしに、自分で何か考える事をしてみる事は、何もしないで只管待つ身であるよりかは、一寸は問題の解消に役立つのではないか、と考える。

 

 然しながら、ともあれ、此の様に「自分で考えてみる」事は、稍もすれば、其れこそ、此の世で一番、恥ずかしい奴として世間の嘲笑の的になる危険が伴い、挙げ句の果ては袋叩きに遭う可能性さえあるので、各々十分覚悟した上で、実践する事が望ましく思われる。

 然し、何の途、どんな努力を尽くした所でも、一切虚しさに併呑されてしまう様ならば、多少の危険を冒してでも、月に連れて行く前に、或いは月へ行こうと思う前に、其の道程に於ける幸福について一考する価値はあるだろう。

 

 地上に立てば、月は随分と高い所にあるように映るが、実際、巨視的に捉えると案外、月と地球との距離なんて大した事は無かったりする。

 

 

  永らえば またこの頃や しのばれむ

  憂しとし見し世ぞ 今は恋しき

 

 何ぞ、考える事は無意味と思われ勝ちではあるが、果たして無意味と見做される物事は、対して意味有ると思われている物事の価値を支えていたりするのである。

 

 思い早まって、「月へ行きたい」「連れてって」という前に、一服するのが重畳である。

 何も何も、事後にくゆらす許りが嗜みではなかろうが。

 

 

(続)

 

 

 

 

 

 

「神対応」

 

 神対応は、人を人として扱わない。対応する側は、相手を神として扱うからである。

 甚だ失礼な話である。一方で、神対応を受けたとして、相手を称賛したりする人は、自分が神になったと勘違いしているのか、或いは、目の前にいる人が神である、と感じたのかも知れないが、果たしてそんな軽々と人の手による仕事を、神の御業と平気で呼んでしまうのは全く軽率であろう。ズボンは木に生るものでもない。

 どれだけ立派で素晴らしい仕事も、全て人の業である。自然を称揚し、人為を悪と呼んだ所で、人は電気失くして生きられないし、何処か遠く自分の住所から見えない所に発電所は在るのである。

 

 あなたは神だ、と褒め称えれば、神として振る舞う事を相手に強いる事である。神対応を行えば、双方にとって負担となる。其の場に居ない神を巡って、其の役を演じる事を、お互い相手に強制させ、強制される。

 人は何かを祀り上げる事が出来るが、祀られる対象である神として振る舞う事は出来ない。神対応をする事により、相手に神として振る舞う事を欲するのは人であるが、果たして他人に期待し得る理由を持つものは何処にもいない。

 ただの人が他人に何か求める事は、分不相応である。神がどの様な事をしたかは、神話の語る所である。凡そただの人には出来っこない事ばかりである。人間の分際で、神の如き態度で他人に接すれば、其れ相応の報復されて然るべきである。

 人間には神の所業の一つにも、その対価を支払う事も出来なければ、受領する事も出来ない。

 

 神ならば、此の位の仕事は容易であろう、と相手を神として祀る事で、人として相応しい地位から追い落とし、また、何か不都合があれば、人の分際で神を気取ったペテン師だと迫害する。そんな資格を持つものは人ではない。

 よかれと思って賛辞の積りで寄せているのかもしれないが、他人を神と呼び、自分勝手に理想や幻想を投影して、義務を背負わせた責任を全うし得るだけの能力も持たないのに、ただ相手の不甲斐無さを批判して、幻滅する振る舞いが許されるのは、人でなしのみである。

 

 態々自分から人である事を辞めたいのであれ、他人を巻き込む謂れは何処にもないとされる。

 通り魔を批判する口が、誰かの仕事を神対応と呼ぶならば、それが素直に、自分の欲望を満たしたいが為に、相手を、木偶や藁人形、木や紙で出来たお札の様に扱うのだ、というつもりで、「神対応」という言葉を用いるのではない限り、矛盾である。自分が神として祀り上げられたい、或いは誰かを神として祀り上げたいからと言って、他人に干渉する理由には毫もなりやしない。

 人間は、所詮人間である。

三本目の万年筆

 

 家に帰り机に向かい、先ずする事と言えば抽斗を開けて懐中時計のネジを巻く事であったりする。

 学生の手に届く値段の機械式なものだから、購入してから半年でもう既に大分、抵抗が少なくなってしまっている。

 パワーリザーブの表示がある――と言えば、もう何処のメーカー品を使っているかバレてしまうだろうが、初めの内は一度巻いたら二日半持ったのが、今では大凡二日まで落ちた。其れで説明書通りなのだが、巻く間も、指の間に挟んでみる内も、コチコチと進む針の調子も何だか元気がない様に感じられて此の頃はずっと抽斗の中に仕舞いっ放しである。

 

 方々出歩くようにもなって、腕時計を身に着ける必要が出て来た。

 四月の暮れに二つ、予備も含めて購入した。チープカシオのデジタル時計である。

 偶々Twitterで友人がリツイートした記事に紹介されてたのと同じ型が店頭にあったので、Amazonでの販売価格とも比較しながら購入した。但し、此方よりもデザインが普段着と合わせ易いこともあったから、専ら予備で購入した方を着用している。

 

 デジタル時計は中の電子部品が駄目になると電池を替えてももう使い物にならないから、是まで選んで来なかった。物に執着してしまう質だから、成るべく長く使いたい、と直ぐ考えてしまう。すると、新しいものに手を出すのを敬遠し勝ちになってしまう。其れでいつまでも、寸足らずの、着馴れた上着やワイシャツなんかを着続けてしまう。異様は益々怪奇となり、おいそれと服屋に行くのも出来なくなれば、そんな出立でも許されるリサイクルショップや古物店に出入りする様になる。

 けれども、自分は決して古物趣味の人間ではない。他人が寄せたのと同程度に、自分が古物を大切に出来る自信もなければ、末永く保全しようという覚悟も出来ない。物に対する敬意を持てるかというのと、実際に自分が其の看護が出来るかは別問題である。

 古物に限らず新品であっても、其れなりに使い勝手がいいと、自分なんかは遂調子に乗って酷使してしまう。気に入ったら何処にでも身に着けて、持ち運ぶ。其の所為で随分な数の本を駄目にしてしまった。

 物言わぬ器物に対する扱いは、其れに慣れれば慣れる程、程度は甚だしくなる。漸く最近其の事を自覚して、今は常用しない事にした。

 

 自分の場合、何か大切にしたいと思うものについては平時は放っておく事が一番無難であるらしい。誰かに盗られたりしない限り、何処に置いたか仕舞ったか、最後に何時手入れをしたとか把握しておけば、独りでに何処かへ行ってしまうという事もない。

 気に入ったからと言って持ち歩けば、其れ丈他人に盗られる可能性も高くなる。学生時代、既に同じデザインの万年筆を二本、紛失したが、何れも自分には高価で一万円する物であった。赤と黒を基調とした、バッキンガム宮殿の衛兵を彷彿とさせるデザインは、多分他の人にも魅力的に映ったに相違ない(斯ういう時は自分の眼にも自信を持ちたくなる)。

 二度も失くすともう持とうという気は無くなってしまった。若し手にしたとして、三度とも失くしたという事になっては、恐らく自分は万年筆を持つ事自体止めてしまいたくなるだろう。其れは、他人に懲りたというよりも、自分に愛想が尽き果ててしまいそうで恐ろしいからである。

 誰に拾われたにせよ、取られたにせよ、今も其れ等が大切にされている事を自分は願って止まないが、然し本当に筋を通すのであれば、自分はもう万年筆を使わないのが正当なのだろう。

 今使っている万年筆は、以前の物よりもずっと安い品物で、実は三本目であったりする。同じ型の色違いを使っている。一本目は黒で、限定色だった。是を友人に譲った。二本目は水色を選んだ。然し、半年もしない内に破損してしまった。インクが漏るようになったので、今度は少し濃い青の新品を購入した。

 

 万年筆で自分が物を書くようになってから、もう七年経つ。其の間に、ひとから貰ったものを含めて自分が持ったものは九本を数える。内、寿命を迎えたりして使えなくなったもの、使わなくなったものは三本で、他は贈ったものを除いて四本は使用中に紛失・破損してしまった。

 筆圧が強い所為で、自分が使う筆記具は直ぐに先がぐらつくようになってしまう。

 元々、力のない分、肘で物を書くのが得意ではない――というのは言い訳に過ぎない。だが、もうそろそろ、今使っているペンは抽斗に仕舞う事にしようと考えている。幸い、メーカーも若者向けの廉価なモデルを多数売り出しているから、其の中から選んで、今後は定期的に買い替える積もりだ。

 機械式時計は、十万しないなら修理に出すまでもなく、使い捨てと捉えるべき――なる旨のコメントを「知恵袋」で見かけたが、万年筆についても恐らく其の位の感覚を持つべきなのだろう。果たして其れは適切な指摘であり、何時までも身の丈に合わない代物を使い続けるのは窮屈で苦しい許りだ。腹が支えて前が閉まらないブレザーはメルカリにでも出品してしまい、二回り大きなサイズのジャケットを買う足しにするならば、AOKIも青山も嫌な顔はしない。

 然し、用心しないと普段使う物に限って何処にやったか忘れて仕舞うものである。普段着ないような上着やズボンはクローゼットや箪笥の抽斗に仕舞われているから、割合探すのに手間取らない。

 そういったものは、何処に仕舞ったか忘れないよう、手近な机の抽斗とかに仕舞って置く事だ。使ったら又元在った場所に戻す。相する事で、せめても失くしたりする事を予防する事が出来る。

 精々、出来る事と言えば後は使わない時には放っておく事位である。気になるからと玩ぶのは事故の故だ。

 どうせ、用があれば直ぐ使うのだから、必要な時に直ぐ取り出せる様、無暗矢鱈に場所を変えない事に気を遣っていれば構わない。其れでお互い、十分である。

歳食った

書く事が最早ない、とは言えないのが困難な状況を作り出したのは自分ではない。既に先行する例に憧れ模倣して書くだけなら、其れは未だ書く事があるのでマシである。嘘を吐くのは良くない事だが。

然し書く事がない、という事だけは言いたいというのが妙である。限界というべきか。恐らくはもう、書きたい事もないのであろう。

思わず口をついて出る言葉は書きたい言葉ではない。そんな欲望は特にない。但し、何か目の前に餌をぶら下げられたら、物欲しさに彼是言うかも知れない。

困った事には、書きたい事は自分から求めて訪ねて行かねばならないらしく、其の為に必要な資源がない場合、諦めるより仕方がないようである。

旅の支度を整える内に如何やら此の人生も終わりが見えそうである兆しが、此の頃顕著に感じられるようになった。最早此れまで、という感覚である。

然し、なおも余命はある。斯くなる上は、適当に何か形だけで見書けばいいのか。書くフリをするとでもいうべきか。そんな事に資源を費やすのは、はなから望まないが、かと言って他に何もないならば仕方なかろうか?